第4話 優しくて特別なふたりの時間
コンコン、とドアをノックする。
三〇七号病室の引き戸を開けると、水嶋さんは窓越しに雪を眺めていた。
「こんにちは」
水嶋さんの目が僕を捉えて、僕と同じ挨拶を紡ぐ。
「みかん食べる?」
車椅子をベッドの側に寄せると、水嶋さんはみかんを両手に掲げた。
「親戚から届いたんだって。お母さんがさっき置いていったの」
はい、と二つ手渡される。
断る理由もないのでありがたく頂く。
「ありがとう」
「どういたしまして。実は、ちょっとばかり多めにもらっちゃったから、食べきれるか心配だったんだよね」
冬はやっぱりみかんだよね、こたつがあれば最高なのに、病院に置てもらいたいよね、でもそれだと順番待ちで列が出来ちゃったりするのかな、それは困るね、水嶋さんはころころと言葉を転がす。
初めて逢った頃に比べると、少しだけ彼女は明るくなった気がする。
もともとよく笑う女の子ではあったけれど、出逢ってすぐの頃は笑顔にさえもどこか
いつか、小説を読んでいる時のような、心からの笑顔を見せてくれる日は来るんだろうか。
会話をいくつか、積み木のように重ねせていく。
小説も読んでもらった。
これで、記念すべき二〇作品目。
彼女と過ごす二人の時間も、もうすでに日常のものになりつつあった。
「……
「四五点か」
「四五点! あれ?」
ルーズリーフから水嶋さんは目を離す。
「なんで先に言うかな」
少しすねたように言ってルーズリーフを、ぐい、と差し出す。
いつからか始めた小説の評価シートだ。ルーズリーフには各十点満点で、表現力、キャラクター、オリジナリティ、発想力、構成力の五つの項目が振られ、その評価点と合計点数が書かれている。
「だって見えたから」
彼女お手製のそれを受け取りながら、僕は言い訳を口にする。
「見えても、計算しないでよ。こう、一番重要なところじゃない? 合計点数って」
「いや、でもさあ」
食い下がる。
「そういう重要な点数だからこそ、早く知りたいって思うんだよ。知的な欲求がこうなんていうか、凄いことになってさ」
「……少なくとも、その発言は小学生みたいだなー、と思う」
そんなふうに、僕と水嶋さんは優しい時間を共有していく。
心が温まるこの時間が、僕は好きだった。
雪が、降っている。
透明なガラスの向こうで、世界が白く染まっていく。
降り積もるように、僕らも言葉を重ねていく。
「小説って、なんだかいいよね。一歩も外に出なくても主人公に同調すれば、海の向こうにだって行けるし。魔法使いにだって、名探偵にだってなれるし」
水嶋さんに小説が好きな理由を訊ねてみると、そんな彼女らしい意見が返ってきた。
「本当に小説が好きなんだね」
「うん」水嶋さんは頷く。
「最近のお気に入りは、吉倉君の小説だけどね」
僕の顔を見つめて、水嶋さんは呟くように言う。
「え。いや、それは……」
嬉しいけど、戸惑う。
僕の小説なんて、未熟もいいところだと思うけれど。
「そんなことないよ」と水嶋さんは言う。
「吉倉君の小説、わたしは好きだよ? きらきらしていて、読んでいると優しい気持ちになれて」
「えっと、……その、ありがとう」
透き通った瞳をまっすぐに向けられてそんなことを言われると、なんだかくすぐったいものが込み上げてくる。行き場をなくして、みかんを一切れ口に運ぶ。
水嶋さんは、ほんのりと間を置いて薄い唇から言葉を漏らす。「ねえ、吉倉君」
「吉倉君は、こわくないの?」
悲しげな彼女の声が病室の空気を震わせる。泣きそうな、すっと今にも世界に溶け込んでしまいそうな瞳。
「こわいってなにが?」
戸惑いながら、僕は訊ねる。
「未来が。夢が叶わなかったらどうしようって不安になる時はないの?」
彼女の質問に、けれど、僕は上手い言葉が見つからなかった。
「……どうだろう。今は夢を追いかけることばっかりで、そういうことは考えていないかも」
懐いている感情を素直にそのまま伝える。水嶋さんは「強いね」と声をこぼした。
僕は、首を振る。
「違うよ。多分、見てないだけ。正直、未来なんて全然見通してないんだ。物語を書くのが好きで、それなら小説家を目指そうって目標に向かっているだけ。ようするに、子供なんだよ僕」
淡々と、窓の向こうに見える雪を目にしながら僕は言葉を紡ぐ。
水嶋さんも視線を窓に向ける。そして、詩を口ずさむように声を出した。
「もし、神様がいて。吉倉君が神様の予定表を覗き込んでしまって、自分の夢が叶わないと知ってしまっても、それでも夢を諦めない?」
面白い例え話だな、と思う。迷う必要はなかった。
「それでも諦めないと思う。……いや、叶わないと知っていても諦められない」
僕はおそらく、そういう人間だと思う。
水嶋さんは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
心の底からそれを聞きたがっているように、深い黒色が僕を覗き込む。
「そう願うから、じゃ駄目かな」
願うから小説を書くし、僕は水嶋さんに逢いに行く。そういうものだと思う。
「願う、か」
水嶋さんは小さく呟く。うつむいた顔は、なんだか泣いているように見えた。
「それに」と、僕は付け足すように声を漏らす。
「叶わないとしても、最後まであがきたい。なにもしないで終わるなんて、きっと悲しすぎると思うから」
そんな物語は報われない。なにもせずに喪われるばかりなんて、僕は耐えられない。
「……やっぱり、吉倉君は強いね」
水嶋さんは優しく笑っていた。
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