第2話 初雪の降る屋上にて


 僕と水嶋さんが出逢ったのは、雪が降り始めた日のことだった。


 天気予報が初雪を告げたその日、僕は午前中から病院の屋上に待機して、灰色にくすんだ空が泣き出す瞬間を心待ちにしていた。


 冬の屋上に人の姿はなく、空に近い場所はしんと降り積もるような静寂が満ちていた。


 上着を羽織っているけれど、少し寒い。もっと着込んでこれば良かったな、と思いながら病室から持ってきたノートを開いて小さな物語を書き込んでいく。


 昔から、僕はどうしようもなく雪が好きだった。特別な思い出なんてものはないけれど。悲しいほどに美しい姿に、優しいほどに残酷な儚さにずっと惹かれていて、だから今もその姿をいち早く見たくて僕はこうして屋上いる。


 そんな僕の心情を写し込むように物語をつづっていく。舞台は雪の降らない世界。主人公の少年と少女は雪を見るために、住み慣れた街を離れて旅に出る。そんな物語をノートに書き込んでいく。



 三、四時間ほどそうやって過ごしていた。

 物語を書き終え、かじかんだ手をこすり合わせる。


 仰いでみるけれど、空はやはり白い涙を見せてはいない。

 今日は降らないのかもしれない。そう落胆しながら、僕は一度屋上を後にした。



 僕が再び、屋上にやってきたのはそれから一時間後のことだった。


 ひんやりとした人気の少ない階段を、松葉杖でたどたどしく上っていく。わずかに錆び付いた鉄製の扉を押し開けると、冬の透き通るような大気が身を撫でた。ほのかな白い景色。雪が、降っていた。


「あ」

 けれど、待ち焦がれていたその情景に心を寄せることはできない。


 視線の先には、一時間前に僕が座っていたベンチ。

 今はそこに僕と同い年くらいの女の子が、パジャマの上にコートを羽織って座っている。


 彼女が僕に気が付く。

 さらさらとしたロングヘアーに、白い肌。薄いピンク色の唇が、形を変えた。


「……もしかして、あなたの?」


 控えめにそう口にした彼女の手には一冊のノートがあった。

 僕に見えやすいように、胸の高さにまで持ち上げてくれている。


 僕は、こくりと頷く。

 一時間前にここに置き忘れた僕のノートだ。


 ベンチの上に置き去りにしてしまったことにさっき気が付いて、慌てて取りに来たんだけど。……もしかして、中身を見られてしまったんだろうか。不安になる。


 しばらく動けずにいると、「面白かったよ」と彼女は言った。


「なんだか、温かくて幸せな気持ちになれた。短い話なのに上手くまとめられているよね」


 ばっちり、読まれてしまったらしい。

 僕は「うん、まあ」と適当な言葉をこぼす。


 誰かに自分の小説を読まれるのは生まれて初めての経験だった。心をくすぐられるような恥ずかしさを覚える。


 ベンチの上の彼女は、自分の隣に空いているスペースを指差す。


「座ったら? 足、怪我してるんでしょ?」


 松葉杖で身体を支えている僕を、どうやら気遣ってくれたらしい。


 ノートを取りに来ただけなんだけれど。でも、すぐにまた階段を下りるのも気が引けるのは確かだった。


 しばらく雪を見てから戻ればいいと、彼女の隣に腰を降ろす。



 それから、僕らは雪の降る屋上でいくつか言葉を交わした。


 僕がノートに書いた小説の話。雪の降らない世界で生きる少年と少女は、どうして見たこともないもののために住み慣れた街を離れて行ったのか。身近にある幸せを振り切ってまで、それを追い求めたのか。物語の構成や登場人物の心情、ここはこうした方が物語に深みが出るのではないかという話や、今更になって思い至ったお互いの自己紹介。


 水嶋沙希と名乗った、女の子は言った。


「吉倉君は、小説家になるのが夢なの?」

 雪のように透明な響きだった。


 少し逡巡して、けれど抵抗感なく口を開く。


「……うん」

 誰かに自分の夢のことを話すのは、これが初めてのことだった。


「いつか、小説家になりたいんだ」


 水嶋さんは、花びらみたいな唇を柔らかく動かした。


「頑張って」

 優しい笑み。けれど、悲しみをにじませてもいた。


「夢、諦めないでね」


 僕は「うん」とまた、頷く。

 それ以外にふさわしい言葉はないような気がした。


 会話にわずかな空白が生まれる。静寂を破ったのは、水嶋さんだった。


「また、小説読ませてくれる?」


 僕は少しの間、声の出し方を忘れる。それとまったく逆の言葉を、僕は言おうとしていたから。


 初めて、僕の小説に触れて感想を言ってくれた相手だからだろうか。


 不思議と、彼女との時間は心地が良くて、優しくて、ずっと続いて欲しいと思えるなにかがあった。


 だから、僕にはやはり返答はひとつしかない。

 彼女の言葉に、僕は頷いた。

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