終わる季節のプレリュード

春花夏月

第1話 僕と彼女の、

 ――僕にしか書けない、君の物語を。 


 僕の病室から車椅子で三分の距離に、三〇七号病室はある。


 僕はいつも三時頃になると、ノートパソコンを持って、車椅子に乗り、病院の廊下を車輪で走らせて、その場所に向かう。


 現在、入院しているこの病院はこの辺りではそれなりに大きな総合病院で、右足を骨折しているだけの僕のような軽度の患者もいれば、中には重い病を抱えた人もいる。


 肌寒い日だった。

 病院内は十二月の冷たさに覆われている。


 雪のように白い病院内に、僕はホイールの回る音を響かせていく。


 三〇七。プラスチックに印字された数字の下には、マジックで『水嶋沙希みずしまさき』と書かれている。


 いつものように車椅子を近づけて、ドアをノックする。が、返事がない。もう一度、ノックをしてみるも残念ながらその結果は変わらなかった。


 留守だろうか? それとも……、

 躊躇ためらいがちに、引き戸をするりとスライドさせてみる。


 こじんまりとした個室だ。


 白い壁に、白いカーテン。部屋の奥には、ベッドがひとつ。その脇には、オレンジ色のカラーボックスが置かれていて、いくつかの書籍が背丈を整えられて詰め込まれている。その上にはちょこんと茶色のテディベアが座っていた。


「水嶋さん?」

 と、窓際のパイプベッドの上に、見慣れた髪の長い女の子を見つけて声をかけてみる。も、無言。すみれ色のパジャマに身を包んだ彼女の手に文庫本を見つけて、どうやら読書中らしいことに気が付いた。


 黙々と本に目を落としている彼女は僕に気付いている様子はなく、ぺらり、ぺらり、と定期的なリズムでページをめくっていく。


 個室だから当たり前なのだけれど、三〇七号病室は僕の相部屋の病室と比べると随分と小さい。だから、それほど扉の前にいる僕との距離があるわけでもなく――気付いてもよさそうなものなんだけどな。相変わらず、本を読み出すと周りが見えなくなる人だ。


「水嶋さん?」


 僕は車椅子をベッドの側にまで近づけて、その横顔に再び声を届ける。

 さらさらとした艶のある黒髪が、ぴくりと揺れた。


「……吉倉よしくら、君?」

 くるりとした瞳が僕の姿をとらえ、驚いたように見開かれる。


「いつから、居たの?」

 吐息をこぼすような声。


「今、来たところ。ノックはしたんだけど、返事がなかったから」

 水嶋さんは両手で本をそっと閉じると、恥ずかしそうな申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい、気付かなくて」

「いや、こちらこそ。読書の邪魔、しちゃったみたいで」

 自然と、彼女の膝上に置かれた本に目が向く。


「ああ、この本?」


 僕の視線に気が付いた水嶋さんは、にこにこと笑いながら僕に本の表紙を見せてくれる。『ごんぎつね』と書かれていた。


「泣ける話でね。昔、読んだことはあるんだけど、ついつい没頭しちゃって。吉倉君は読んだことある?」

「えーと、……どうだったかな」

 小学生の頃に一度、読んだ記憶があるような。


「確か、百姓の青年とキツネの物語、……だったっけ?」

「そうそう。いたずら隙のキツネの『ごん』がね」

 ぱあ、と水嶋さんは無邪気な子供のように顔を輝かせる。けれど、すぐに我に返ってこほん、と可愛らしい咳をひとつ。顔が真っ赤だった。


「そ、そんなことより」

 照れ隠しのように言葉を吐き出すと、水嶋さんは右手を僕の方にずいっと差し伸ばしてきた。


「ん?」

 なんだろう? ……お手?


 差し出された白い手に、ぽんっと右手を重ねる。「ひゃっ」小さな声。水嶋さんはさらに赤くなったりんごのような顔をして「ち、ちが。小説」と僕にまくしたてる。


 小説? 首を傾けて、ああ、と思い至る。


 気恥ずかしい思いに駆られながら、僕は膝元に待機させていたノートパソコンを開いて電源を入れる。


 そして、幾度も繰り返した操作をなぞり、画面に文章の羅列られつを表示させた。


 およそ原稿用紙八枚分。

 昨日と今日を使って書き上げた自作の短編小説だ。


「お手柔らかに、……いや、厳しめにお願いします」

「……お願いされました」


 水嶋さんはほんの少し、じとっと僕を睨んでからノートパソコンを受け取る。

 初めて出逢った日から続く、僕達の日課だった。


 一日ごとに僕は短編小説を書き上げて、彼女に読んでもらっている。


 水嶋さんは、ディスプレイに映る僕の書いた文字に目を落とし始めた。

 冒頭の日常場面では、楽しげな表情を。少し読み進めて物語が動き出すと、興味を引かれた表情で。


 見ているだけで時間を忘れてしまうくらい鮮やかな色を、水嶋さんは無邪気に浮かべていく。


 多分、彼女自身は、自分の表情が万華鏡のように移ろいでいることにも、こうして僕がその横顔を見ていることにも気が付いてはいない。


 それどころか、もう僕が隣にいることを覚えていないかもしれない。


 自分の存在も場所も忘れて、ただ作品に深く心を潜らせている。

 いつも思うけれど、すごい集中力だ。


 僕みたいな素人の書いた小説でもそうやって夢中になってくれることが、こそばゆくてとても嬉しかった。


 水嶋さんは画面から目を離す。美人というよりは可愛いに属する顔が、ふわりと僕に向けられた。


 読み終わったらしい。今日は、なんて感想をもらえるんだろうか。

 少し緊張しながら、彼女の紡ぐ澄んだ声に僕は耳を傾けた。

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