それでも、兄弟

酢と鶏卵の逢引

それでも、兄弟

 目を覚ました頃には、キジバトのうららかな声が街中に響き渡っていた。


 今日は外で遊びまくろう。

 そう思うも、リビングで駄々をこねる弟の前では僕のかすかな思惑なんて二の次となってしまう。


「なあ裕一。赤ちゃんにプレゼントを買いに行かないか?」

「やだ」


 裕一ゆういち――僕の可愛い弟は薄い眉をひそめて、お父さんを困らせている。お父さんは壁の時計を見て、どうしたものかとあごひげを撫でた。


 今月はお母さんが臨月であり、家族は皆、どこかそわそわしていた。僕も、新しい家族を迎えることへの期待と不安が、もやもやと体の中を巡っているのを感じていた。

 

 お母さんはすでに入院している。この機にお父さんはお見舞いに行くのも兼ねて、子供たちにサプライズを用意してもらいたいということみたいだ。


 だが裕一は父の思惑など知る由もない。

 さすがに見ていてうずうずしたから、僕はお父さんに加勢する。


「ほら、そらも行こうって言ってるぞ。裕一も空みたいにお兄ちゃんになるんだから、弟を見てやれるようにならなきゃ」


 僕は目を据えて裕一を見つめた。裕一の目は僕が臆するくらい険しく、しかし心配になるくらい怯えた目だった。一呼吸の後、またそっぽを向いてしまう。

 裕一の向く先は、机の下の青いランドセル。


 そう。

 この春休みが終われば、裕一は小学生になる。小学校に行って新しい友達が増えることを裕一自身も楽しみにしているはずだ。

 しかし、入学を素直に喜びにくくなる出来事があった。



 先週、おじいちゃんが遊びに来たときのことだ。

 おじいちゃんは僕のことはもちろん、裕一のことを特に気に入ってくれている。裕一もおじいちゃんが来るのを待ち焦がれていた。

 だけど、玄関を開けておじいちゃんが言ったのは、


「めでたいなぁ、裕ちゃん! 弟が生まれるんだってな!」


 裕一は声を呑んで、目を白黒させていた。家中に突然訪れた静寂に、おじいちゃんも困惑していた。

 食事の時にも裕一は泣きそうな目で俯いていたため、僕も騒ぐのを憚った。

 

 その日から、なんとなく裕一は赤ちゃんのことを嫌っているようだ。

 たったそれだけとも思えるが、無理もない。

 裕一にとって小学校入学というイベントは、嬉しい話題だった。身体の成長、ランドセルという特別な贈り物、そして家族からの祝福。小学校に期待を寄せていることは裕一の楽しそうな口ぶりから容易に想像できた。

 しかし、お母さんのお腹が大きくなるにつれて、大人たちはお腹の子の話をすることが増えた。その分、小学校の話は小難しい最低限の話だけが交わされた。

 裕一は少なくとも、『赤ちゃん』とは自分よりも大切な存在なのだろうと解釈しているようだ。裕一の心情を察するには余りある。



 ランドセルを眺め続ける裕一の背後で、お父さんは気まずそうに佇んでいる。それでも誘うのを諦めることなく、裕一の肩を慎重に叩いた。


「お母さんも、裕一の贈り物が欲しいって言ってたぞ」


 それは口を衝いたでまかせかもしれない。でも裕一も、やはりお母さんのことは好きらしい。裕一は口を閉じたまま喉で返事をして、靴下を履き始めた。

 お父さんもお気に入りの帽子を浅く被る。お父さんが裕一の手を取ろうとしたけど、はね除けられてしまう。

 やれやれ、と頭を掻きながらお父さんは僕に声をかける。


「空も行こうか」


 僕は大きく返事をして二人の後をついていった。




▲▼▲▼




 お母さんへの見舞いを済ませると、裕一の眉毛は柔らかく動くようになった。だけどその後寄ったおもちゃ屋や百貨店で裕一は何も欲しがらなかった。それは僕からすれば異常なことだった。


 歩き回って疲れたのか、帰り道は皆静かだった。

 僕も何か口に出す気にはなれず、雲でも見ようと思ったら、ちょうど太陽の光に目がやられた。


 痛む目を開けば白く輝く広い空。川の上に架かる青い鉄橋を、おもちゃでない、本物の電車が跨いで抜けていく。その眼下、黄色いタンポポで舗装された道を行き交う人々は、皆思い思いに春を楽しんでいるように映った。


 この河川敷はいつも賑やかだ。だからこそ、今は疎外感を覚えてしまう。


 裕一は真っ赤な唇をつんと尖らせている。

 歩き疲れているのかもしれない。でも、もう抱っこも卒業したと自慢していたし、甘えようとはしないだろう。

 素直になればいいのにと僕は思うのだが、人間ひとはそう単純ではない。

 心とか気持ちは複雑に絡み合い、本人ですら自分の心を理解できないことがある。

 自分の心に向き合うためには、そういう経験値を積むほかないのだろう。


 僕は八歳になるが、未だに心が何かは分からない。

 ましてや自らの進学と母親の出産の板挟みに遭っている裕一の思いなど、正確に分かるはずがない。


 でも、弟のために何かしてやりたいと思うのが兄だ。

 

「空?」


 お父さんの呼びかけもどこ吹く風、僕は河川敷に広がる原っぱに駆け出し、一輪の花を摘んできた。


 金平糖のような丸い花を咲かせる、桃色の小さな小さな花だ。

 お父さんは目を丸くして僕を見た。


「ヒメツルソバか。可愛いのを持ってきたな」


 加えて、「懐かしい」と穏やかな声で言った。

 ヒメツルソバはいわゆる雑草で、この街ならどこでも探せば見つけられる。それでいて目を引く形と鮮やかな色をしているから、僕らはよく近所の駐車場の隅に咲くヒメツルソバを摘んで遊んでいたのだ。

 僕はそれを裕一に渡した。その手に握られたピンクの花をじっと見つめる裕一の頬はにやけていた。


 お父さんは僕の意図を汲んだように続ける。


「空はいつも裕一の傍にいてくれたよな、裕一。走り回ったり花を摘んだりしてて、楽しかったろう?」


 裕一はこくりと頷いた。


「裕一が小学生になることも、弟が生まれることも、こうやって家族で散歩するこもも、どれも毎日暮らしてるうちの出来事のひとつさ。全部嬉しいことで、全部大事なことだ。裕一、兄弟の輪の中に、新しい弟も入れてあげないか?」


 僕は元気な裕一が好きだし、一緒にいると楽しい。

 昔からただそういうことを繰り返してきただけ。

 その生活はこれから変わるかもしれないけど、そうしてきたことはいつまでも変わらず心の中に残る。


 築いてきた兄弟の関係は、変わらない。


「裕一が大切な家族だってことは、変わらないよ」


 ヒメツルソバを受け取った裕一は、ぽつりとこう言った。


「うん。ありがとう、空」


 裕一は、今日初めて無邪気に笑った。


「パパ。ママへのプレゼント決めたよ」


 いつものように晴れやかな声でそう宣言する裕一に、お父さんは慈しむような眼差しを送っていた。




▲▼▲▼




 あれから数日後の深夜、お母さんは無事赤ちゃんを産んだらしい。

 出産に立ち会ったお父さんが、翌朝に屈託のない笑顔でそう教えてくれた。

 しかしその顔には涙の匂いが残っていた。


 その後、何度かお母さんとは電話で話した。すぐ退院できるらしいから今は休ませてあげたい、という父の判断だった。


 そして四月になった今日、お母さんたちが家に帰ってくる。


 早朝からお父さんは僕らの身体を洗い、てきぱきと部屋の掃除を行った。僕と裕一は邪魔にならないよう、いち早く玄関の外で待つことにした。

 裕一は靴の踵を踏みつぶし、僕は身体をよじらせて退屈と緊張を発散させていた。

 裕一の腕には弟へのプレゼントがあった。


 そうしているうちに、緑色のタクシーが家の前に停まった。裕一がお父さんを呼ぼうとするが、中から出てきた人を見て逡巡した。


「めでたいなぁ、裕ちゃん! 今日はお祝いだな!」


 うちのおじいちゃんも祝福のために駆け付けたようだ。


「おっと、裕ちゃんはいいもんを持ってるな?」


 おじいちゃんはそっと裕一の腕を覗く。その贈り物を見たおじいちゃんは感嘆の声を漏らした。


「こりゃ、お母さんも泣いて喜ぶだろうな。いい子に育っちゃって、爺ちゃん感激だぜ」


 おじいちゃんは裕一の頭を優しく撫でた。銀色の歯が惜しげもなく輝く。しわだらけの微笑みに裕一のわだかまりもほぐされたようだ。


「ほうら、おいで」


 しゃがんだおじいちゃんは裕一の肩を抱き寄せた。裕一は身体を委ねて、おじいちゃんの体温を懐かしむように笑った。


 しばらくしてお父さんが外に出てきた。多少の談笑の後、今度は黄色いタクシーが家の前に停まる。


 そこからはゆったりとした服に身を包んだお母さんと、お母さんに抱えられた小さな小さな弟。

 白い布の中にくるまって眠る姿は、たまらなく愛くるしい。


聡二そうじ!」


 裕一がその子の名を叫び、お母さんの下に駆け寄る。僕らも裕一に続く。

 

 すらりとしたお母さんを見たのは何ヶ月ぶりだろうか。しかしその声を忘れるはずがなく、僕は日常の再来を感じた。

 裕一も、お母さんの顔を見て安心したみたいだった。


「裕一、そのお花はなあに?」


 お母さんは腕に聡二を抱えたまま、裕一の手に握られたものに興味を持った。

 裕一は自信満々に歩み寄り、強い鼻息と共に腕を伸ばし、それを差し出した。


 それは手作りの花束だった。

 二、三〇ほどのヒメツルソバを律義にセロハンテープでぐるぐる巻きにした、裕一からの贈り物だ。何度も形を整えたため、新鮮な感じは薄れている。だけど、それは裕一が必死にプレゼント作りに取り組んだことの表れでもあった。


「ママ、ありがとう。聡二、いらっしゃい」


 はつらつとした裕一の言葉には、勇ましさがあった。

 お母さんは目頭に涙を浮かべた。


「ありがとう裕一。それに、空も。ほんの少しの間に大きくなったね」


 聡二を抱えていなかったら僕らは強く抱きしめられていただろう。

 裕一は頬を赤くして「うん」と、僕は「ワン」とだけ返事をした。

 


 僕ももう八歳。


 


 それでも、僕は裕一の兄で、裕一は僕の弟だ。

 姿かたちこそ違う。

 それでも、僕らは一生兄弟だ。


 新しい家族を迎え、この家はもっと賑やかになるだろう。


 僕はそんな日々を想像して、蒼天へと遠吠えせずにはいられなかった。











「空、あまり騒ぐと聡二がびっくりするだろ」


 父さんに怒られた。

 だけど聡二は泣くどころか、きゃっきゃと笑い声を上げた。

 みんな、笑っていた。

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それでも、兄弟 酢と鶏卵の逢引 @EggAndVinegar

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