掌編・見張る男

 煙草を吸うときは台所で、というのが暗黙の決まりになっている。

 住人は二人とも喫煙者だからどこで吸っても構わないのだが、そうするとなんだか玄関に布団を敷いて寝てもいいみたいなもので、折り目がないというか、だらしないような気がしてしまうからだ。


 台所には道に面した窓がひとつだけついていて、吸うときはその窓を開けてぼんやりと外を眺めながら煙を吐き出す。その間はおのずと通りを見つめていることになる。

 と言っても、目に映る日常の光景は見ているようで実際はたいして注意も払わず、ぼうっと見過ごしているものである。


 ところがここに、その数分間の喫煙時間を無駄にしない男がいる。 

 

 男は窓辺から外を見つめたまま、食事の支度をするために台所へ入ってきた僕に話しかけた。


「見てごらん、またあいつが通るよ。今日は黄色のスニーカーだ」

「どこ?」


 彼の視線の先には通りの向かい側を歩く黒人の男がいる。二メートルぐらいありそうな大柄な男で、スポーツウェアを着て前かがみに歩いている。足元のスニーカーは蛍光色の黄色である。足が大きいので靴も目立つ。


「昨日は違う色だった。ピンクだったっけな。あの男はまったく幾つスニーカーを持ってんだろう。しかも毎回新品みたいにピカピカなんだ。でもせっかくお洒落なのに猫背なんだよな」


 僕はこの男を見たことがなかった。よく知ってるねと適当に答えて支度にとりかかろうとした。しかし彼は舗道から目を逸らすことなく煙を吐き出し、


「そろそろ彼女が通る時間だ」

 とつぶやく。


「誰が?」

「中国人のおばちゃん」


 彼が言うには毎日十一時半と十八時半ごろに、買い物のカートを引っ張った中国人と思しき女が通るのだそうだ。少し前にはカートを買い替えたらしく色が青に変わっていた。いつだったか買い物袋だけを持って歩いていた時は、大事なカートが盗まれたのではないかと思って心配したそうだ。


「あっそう」

 僕の体温の低い返事は聞こえないらしく、男は舗道から目を離さない。そのうち予告どおり青のカートを引いた女性が登場した。


「見て、彼女は普通の歩き方と違うんだ。なんというか、ものすごく強い意志を持って歩いてる。だから目に留まるんだよ」

「そう? 僕には他の人と同じように見えるけど」

「いや、彼女は違う」


 実はこういう話は日常茶飯事である。彼は窓から通行人を観察してはこうして報告するのが趣味なのだ。しかも通る時間まで把握している。お前は窓辺のストーカーかと言いたくなる。


「いつもそうやって見張ってんの?」

「違うよ。僕が休憩する時間がだいたい同じだから、同じ人間が通るだけだよ」


 そうかな。僕も休憩と称してはしょっちゅう窓辺でボケっと煙をふかしているが、ここまで道を観察してはいない。スニーカーの男もカートの女も言われるまで気づきもしなかった。


 その時突然、向こうから賑やかな音楽が近づいてきた。一瞬だけクラブのような大音量で音楽が流れ、あっという間に道路を走り去っていった。


「出た、ステレオカーだ」

 彼は嬉しそうに笑う。

「何それ?」

「時間は決まってないけどいつも通るんだ。見ててみな、また来るから」


 本当か?

 僕は男と並んで窓に額をつけて待った。すると間もなく同じ音楽が聴こえはじめ、運転手ひとりだけを乗せたコロンとした形の車が現れ、最大限にボリュームをきかせたノリノリの音を散らして通り過ぎた。


「な? あれ二人乗りの無免許用の車なんだよ」

 男は得意げである。

「あいつさ、多分家で音楽を聴かせてもらえないんだ。だから憂さ晴らしのためにああやって車に乗ってフルボリュームで近所をぐるぐる走り回ってるんだよ」


 他人の家の事情まで勝手に憶測する。


 この男の観察眼には正直引くが、ちょっと羨ましくもある。

 そりゃもちろん僕にとっても目立つ人はいる。いつも五、六匹の小型犬を連れてキャンキャン賑やかに散歩しているおばあさんとか、暮れごろによく見かけた、骨組みのところ全部に電飾を張り巡らせたベビーカーとか。でもそういうのはインパクトのある人たちだ。カートを引っ張った地味な東洋人の女性なんて目に入らない。


 一緒に暮らしていても、同じ景色を見ているはずでも、目に入るものは違う。己の視野には限りがある。


 ふとこの人が小説を書いたらどんなものができるだろうと思った。


「あとはどんな人がいるの?」

「あとはねえ……」

 彼は外に目をやったまま、二本目の煙草に火を点ける。


「そういえば朝の十時ごろになると、五十歳ぐらいの男が……」


 レポートは続く。






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