フランドルの空
フランスの北にリールという街がある。規模としてはフランスで七、八番目ぐらいだろうか。フランスとベルギーの国境の程近くにある。旅行ではないが、用があって北県に行った時、この街を歩いたことがある。もうずいぶん前の話だ。
そのときの僕はパリの生活に疲れていた。先が見えず、不安ばかりだった。周りの人間がみな自己顕示欲の塊に見えた。その中で自分は誰の視界にも入っていないように思えていた。
北県に行ったのはこの頃である。
重たい、というのが第一印象だ。理由はまずその天気である。
行ったのが十一月ごろだったので当然と言えば当然なのだが、太陽がなく、空一面に濃い灰色の雲が低く垂れ込めている。いつ雨が降り出してもおかしくないような重たさである。
日光があるかないかで景色の印象はずいぶんと変わる。僕にとって初めて見たリールの空は、「さあ落ち込みなさい」と言わんばかりの暗さだった。嫌なところに来たな、と思った。
ベルギー国境の地域は昔から「フランドル」という呼ばれ方をする。ここでは他の地方にあるような木組みの家やパリの石造りの建物とはまた違う、フランドル式の建物が並んでいる。
特徴的なのはその正面の屋根だ。左右から階段のように規則正しく積み上げられた石が三角形のかたちを作っている。それはまるでモザイクの三角形を表面に貼り付けたように見える。なぜこういうスタイルなのかは分からない。そういえばベルギーのどこかの街の写真にもこういう建築があった。
リールの中心的な存在であるシャルル・ド・ゴール広場は、ブリュッセルのグラン・プラスに似ている。商工組合を意味するギルドハウスという建物が周りを囲い、美しいけれどどちらかと言えば古めかしく重厚な空気を出している。そして北フランスの街には付きものの鐘楼がそびえ立っている。
通り沿いの建物はレンガの赤茶色が目を引いた。この色も景色に重たさを加えている。だけどパリの灰色の石の建物に慣れていた僕には、このごつごつしたレンガの家がなんだかあったかく感じた。それからレンガは天気の悪い場所にこそ似合うのだと思った。
人々は礼儀正しく優しかった。車でも歩行者でも、一歩引いてひとに譲ることを知っていた。そして、パリよりもずっと清潔だった。それは地面に落ちているゴミやタバコの吸い殻の数で分かる。
僕は妙な安心感を覚えた。
口ばかりでいい加減、気分屋。そんなフランス人像がどこかに追いやられる感覚だった。僕が目にしたのは、ペラペラと上っ面で喋らない好感の持てる人たちだった。そういえばフランス人は口先でさえずるように喋るけれど、ベルギー人のフランス語はもっと喉の奥の方から発音すると聞いたことがある。北県の人たちもおそらく同じような話し方をするのではないか。
ワインよりビールを飲む。
北の訛りがある。
レンガの家に住んでいる。
それだけで一般的なフランスのイメージから離れ、「フランドル」という別の文化に住んでいる人々に見える。
リールから近い別の街にも行った。そこは日本の車メーカーの工場があることで知られている街だ。(それでもフランスの北部は経済的にけっして恵まれているとは言えない。)
その街の空気は都会のリールより重たかった。路面電車に乗った中年の男たちは疲れたような顔でむっつりと黙っていた。上着もズボンもくたびれていた。
しかしやはり、道端にはタバコの吸い殻が落ちていなかった。
フランスでは北県あたりの人たちを「田舎っぺ」扱いする傾向がある。ダサい訛りも、重たい物腰も、どんくさいと思われて笑いのネタになる。ダニー・ブーンという北県出身のコメディアンはそれを自虐的に使って人気がある。
だけど、こんなに寒いのに、こんなに天気が悪いのに、僕が接した人たちはパリの人なんかよりずっとあたたかく、優しかった。
これは一般論だが、ひとつの国でも、北に行くほど人々は堅実で生真面目、南に行くほど明るく緩くなる気がする。それはフランスでも同じだと思う。その堅実さや真面目さはときに重たさやどんくささとなる。少なくともそこに陽気なラテン系のノリは感じられない。が、その頃の僕の冷えた心を穏やかにしてくれたのは、この北の人たちの野暮ったい優しさだった。
正直に言えば住みたいと思える地方ではない。でも重たさの中に実直さがあるフランドル人は、もしかしたらフランスの中で一番信用のおける人たちかも知れないと、何となくそう思う。
ずっしりと重たい空の下に生きるのは、諦めと疲れを「こんなもんさ」と心に押し込め、我先にではなく他人に譲り、にっこり笑ってひとに優しくできる、哀愁を持った人々に見えた。
さて、フランス中央部から始まって、図らずも西、東、南、北の風景を書いたけれど、どこもそれぞれ違う。やっぱりこの国は大きいなと改めて思う。
あくまでも個人視点の旅でしたが、おつきあいくださり、ありがとうございました。
次回からパリに戻ります。
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