どこか遠くへ
時には意見が対立することもあった。けれどもグレンは怒らないのだ。今日のように笑みを浮かべて、うまくすり抜けてしまう。今日のように、からかうように、ゲオルクは言われたことがある。
「ゲオルク、ゲオルク」グレンは楽しそうに笑っている。「代々、騎士の家に生まれた立派なゲオルク。おまえには俺の気持ちはわからないさ」
苦労知らずの坊ちゃんだと、そう見下されているような気がした。不快な気持ちになってグレンを見つめたが、彼はふっと目をそらしただけだった。
ゲオルクには魔術の才はないが、魔術棟は興味を惹かれる場所だった。たくさんの本、実験室、何に使うのかよくわからないような薬草たち、動物の剥製、骨、きらめく鉱物、そして天球儀やアストロラーベ。天体について学ぶ一室で、ある時、グレンは天球儀に手を置きながら言った。
「空には無数の星々があるが」グレンは自分の指の先に視線を落としている。「それら一つ一つに異なる世界があるらしい。面白いことだな」
ゲオルクはまばたきをした。ちょっと途方もない話のような気がする。地上から見ると星々は小さいが、近づけば相当に大きいのだろうか。それに本当に数えきれないほどの数がある。それらにみな違う世界とは。
「俺はいつかそこに行ってみたいんだ。星々を巡る旅をしたい」
ゲオルクは吹き出しそうになった。グレンがいつになく、ずいぶん可愛らしい、子どものようなことを言ってるように思えたからだ。けれどもゲオルクは吹き出さなかった。グレンの横顔を見て、笑いを引っ込めた。グレンは顔を上げ、どこか遠くを見ていた。何を見ているのかわからなかった。この世にないものを一心に見つめているようだった。
「――どこか、遠くへ――」
歌うように、囁くように、グレンが言った。小さな声でわかりづらかったが、本当に歌だったのかもしれない。ゲオルクの知らない歌だ。グレンが生まれた地域で、彼の母や周りの大人たちが歌っていたのかもしれない。そこで、ゲオルクはふと、口に出して言っていた。
「故郷に帰れるといいな、グレン」
国境地帯は遠い。この町に越してきて以来、故郷に戻ってはいないのではないか、とゲオルクは思った。きっと、グレンはホームシックにかられているのだ。グレンはこちらに顔を向けた。ゲオルクはたじろいだ。その顔には感情というものがなく、目には何か薄い膜でもかかっているかのようだった。
「故郷? 俺の故郷はこの町だろう?」
ゲオルクは動揺した。グレンは外から来た人間ではあるが、やってきたのは彼がとても幼い頃だ。自分が生まれた土地の記憶などもうないのかもしれない。ずっとここに住んでいるのだから、彼にとっては、確かにここが故郷であろう。
ゲオルクは、自分が言ったことを後悔した。
城内を歩きつつ、ゲオルクの頭には、様々なグレンとの思い出が浮かんでは消えた。けれどもやはり、グレンが何者であるのか、ゲオルクにはわからなかった。
――――
それから二日ほどが経った。パーティでの一件についてはいまだに進展がない。調査中とのことだった。その日グレンは町の中の、竜たちが暮らす一画にいた。
パーティの夜、謎の影たちがいなくなった後、ゲオルクはユンから今日ここに来た事情を詳しく聞いた。その時に、彼の従兄がこの町に住んでいることも教えてもらったのだ。住所も教えてもらった。
「じゃあ、そこに行けばおまえに会えるわけだな」
ゲオルクは言った。ユンは頷いた。「まあ、俺がそこに来ていればな」
来ていればよいが、と思って、グレンは歩いていた。ユンに教えられた通り、角を曲がる。竜たちの住む区画に来るのは初めてだった。不思議な感覚だ。竜がたくさんいる。人間の姿をしているが、角や翼があるので、人間とは違う。それに言葉も違う。ゲオルクは竜の言葉を学んだことはあるが、簡単ないくつかの単語しかわからない。
恐らくこれが従兄の家であろう。ゲオルクは足を止めて扉を叩いた。ほどなくして中から竜が出てくる。薄い青の目をした、小柄な若い竜だ。ゲオルクを見て戸惑っている。
「突然訪ねて申し訳ない。私は、ユンという竜の知り合いで――」
「ゲオルク!」
聞き覚えのある声が空から降ってきた。見上げると、二階の窓が開いて、そこからユンが顔を出している。
ちょうどよいことに、ユンも彼の従兄のところを訪れていたようだ。
――――
ユンに会いたかった気持ちはあるが、こちらから報告することはあまりない。一方ユンからは、竜たちが王室に使者を送るという話を聞いた。パーティでの件は竜の世界でもゆゆしき問題となっているらしい。
ユンの従兄であるロイも交えていくらか話をした後、ユンとゲオルクは家を後にした。会話にグレンのことがでてきたからだ。
グレンの話をするのは、ゲオルクには気が進まないことだった。彼がこの件に関わっていると、はっきりとはいえない。けれども限りなく黒に近い。事情を知っていそうな魔術師の知り合いがいる、と、ゲオルクは言葉を濁して、グレンの存在を口にした。
そこで、その魔術師に話を聞こうじゃないかということになったのだ。ロイは残るが、ユンは一緒に行くことになった。困った、とゲオルクは思った。グレンは竜が大嫌いだと言っていた。そこに竜をつれていくのはどうなのだろう。
しかしそれをユンとロイに言うのははばかられる。はっきりと、竜を嫌っている人間であるということを、彼らに打ち明けるのは気が進まない。ゲオルクは迷いを抱えたまま、結局、ユンとともにグレンの家を訪ねることにした。
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