人間の娘

 ユンは必死に翼を動かした。多少は落ちていく速度が緩やかになったようにも思う。けれども墜落はまぬがれなかった。枝に引っかかれ、鳥たちを驚かせながら、ユンは茂みの中へ落ちた。


 翼が多少でも役に立ったのか、さほど怪我はしていなかった。けれどもあちこちが痛い。しかも全裸だ。素っ裸なのだ。竜は普通、服を着ないので、人間の姿に変わればもちろん裸のままとなる。


 ユンはおそるおそる茂みから頭を出した。城の中の人間に見つかったらまずいのではなかろうか。――幸い誰もいない――と安心しそうになった矢先、ぱったりと一人の人物と目があってしまった。少女だ。


 金の髪をして、たっぷりとした臙脂色のドレスを着た少女が、驚愕の表情でこちらを見ていたのだ。




――――




 少女は少しの間立ちつくしていたが、すぐに行動に移った。真っすぐにユンの方へ駆けてきた。年の頃は10代半ばくらいか、美しい少女だった。ユンは焦った。来られては困る。


「――あなた、その、角のある、あなた、あなたってつまり竜――」


 少女がこちらに声をかける。ユンは慌てて言った。


「止まって!」


 けれども口から出たのは人間の言葉ではなく竜の言葉だった。少女には恐らく通じなかっただろうが、驚きのあまり、少女の足は止まる。ユンは懸命に人間の言葉を思い出した。竜も族長となれば、人間たちと交流する機会がある。そのため、次期族長のユンは幼いころから人間の言葉を教えらえてきたのだ。


「えっと……ええっと……、ああ、そう……止まってください」


 ようやく人間の言葉が出てきた。少女は理解できたようだ。その表情が少し和らぐ。そして言いつけ通り、その場から動かなかった。


「ねえ、どうしたの。あなたって竜でしょ。その頭の角は竜のものだもの。私ね、この辺を歩いていたら突然大きな音がしてびっくりしたの。そしたら、音が聞こえた方向にあなたの顔が見えて――。ねえ本当に一体どうしたの?」


 無邪気な少女であった。早口に、一息にそれだけのことを言う。ユンはなんと答えようか迷った。しかし、上手な嘘が思い浮かばない。


「空から落ちたのです」

「まあ! かわいそう。怪我をしなかった? どうして落ちたの? 気分が悪くなったの?」


 少女が近づいてくる。ユンは慌ててまた制止した。


「来ないでください! えーっと、つまりその……私は今何も着ていないのです」

「まあ」


 少女の顔が赤らんだ。視線をユンから外し、まごついている。ユンはどうして自分が裸なのか、まずそれを説明しようと思った。


「竜はいつも裸なのです。服など着ないでしょう? 私はこの上空を飛んでいたのですが、急に人間の姿に変わってしまって、気付いたらこのような事態に」

「待って! それなら私が服を――ああでも、竜に合う服なんてあるかしら――翼や尻尾を出す穴がいるわけでしょう? でも別に何か身体を覆うものが――。ちょっと待っててね!」


 そういうと、少女はたちまちくるりと背を向け駆けだしていった。残されたユンは唖然としてそれを見送る。待っているべきだろうか。けれども早々にここから退出したい。律儀に少女を待っている必要はないのではないか。そう思うと、ユンは竜の姿に変わろうとした。


 しかし――。


 できないのだ。何故か竜に戻ることができない。


 いつもは簡単なことなのだ。ちょっとそれを念じさえすれば、竜に戻れる。人間の姿と竜の姿を行き来することは竜にとっては歩くのと同じくらいわけないことだ。けれどもどうしたことか、今はそれができなくなっているのだ。


 ユンは混乱した。焦りが胸にわきあがる。気持ちを落ち着け、再びユンは竜に戻ろうした。けれども、できない。


 あのちりちりとした感覚が再び肌に蘇ってくる。予想外の出来事が起こって、気が動転したためか忘れていたが、やはりあの不穏な気配が、この辺一帯に漂っている。やはり塔――ユンは横にそびえる古い塔を見た――が、その原因なのではないだろうか。


 ユンは少女を待つことにした。素っ裸のまま、人間の城の中をうろつきまわることは、どうにも具合が悪いことのように思え、仕方なくその場に留まることを選択したのだった。




――――




 少しして少女が戻ってきた。その両手に白いシーツを抱えて。少女はユンの近くまで来ると、そのシーツを投げた。


「これで身体を覆えばいいわ」


 ありがたい申し出ではあった。ユンはたちまちそれを身体に巻き付けた。ありがたいことではあったが、どうにも不格好な気がする。けれどもこれで、少なくとも、茂みからは出られる。


「ありがとうございます」


 そういって、シーツにくるまれたユンは少女の前に立った。間近で見ると、なおのこと美しい少女であった。大きな目は明るい青空の色だ。自分より長身のユンを、驚きの表情でまじまじと見つめている。


 途端にきまりが悪くなったのか、少女は目を逸らした。


「じろじろ見てごめんなさい。私、竜を間近で見るのは初めてで……。人間の姿の竜の方ともそんなに会ったことがないの。人間でないときの竜とくると、本当に、お城の空の上を飛んでるのを見るくらいだし……。ところであなたは緑の竜なの?」

「ええ、そうですが」

「綺麗な緑の目をしてるわね。目の色がうろこの色だって、聞いたことがあるから」


 人間の姿になると、竜の時の体色が目の色に反映される。髪の色は様々だ。ユンの場合は黒だった。

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