第2話

「ごめん。忙しがったべ?」

運転しながら話かけてくる朋美は少し年を取ったように良太の目に映った。

むろん相手も同じことを感じているかもしれない。

「いや……ちょうど学校も夏休みらがら。お盆は先生方も1週間ぐらいは休めんだ」

良太は東京の私立高校の現国教師をしていた。

駅から家に着くまでの約20分、朋美はそれ以外はほとんどしゃべらずに前だけを向いていた。

良太はどのタイミングで啓太のことを聞けばいいのか切り出せずに、窓からの景色を

見たり意味もなく携帯電話を触ったりしてやり過ごした。

車を玄関の前に着け、エンジンを切ったとき朋美の口が動いた。


「良太……啓ちゃん言うごと間違ってでも否定しねでな……」


「え?」


よくわからないまま、朋美が車を降りてしまったので意図がわからないまま良太もそれに続いた。


「ただいまー」

44歳にもなった男が実家に帰った時に言うには少々恥ずかしさもあるが、小さいころから挨拶だけは親から口うるさく言われていたおかげで、なんと言ったらいいかと考えるとやっぱり「ただいま」であった。


「おー良太。おかえり」

台所からペットボトルの水を持った啓太が出迎えてくれた。

「兄貴。なんだ、元気そうじゃん」

「ん?んーまあな」

それでも少し痩せたか?いやなんとなく顔つきが違うな。

啓太の顔を見てふと違和感を覚えた。

「啓ちゃん、水飲むなが?」

啓太が手に持ったペットボトルを朋美が「こちらに」とでも言うように左手を差し出した。

啓太は自分の前に出された朋美の手を少し見つめてから、ペットボトルを朋美に渡した。

そのまま朋美は右手でキャップを握りグイっと一気にキャップを開けて再び啓太の手に戻した。

啓太はそれを自分の口にひと口、ふた口入れ、ゴクゴクと本当に音を立てて飲んだ。


「あれー良太帰ってだが」

台所の奥の勝手口から母の声がした。

「おーただいま」

畑から戻った母はいかにも取れたてといったキュウリとなす、それからズッキーニを入れた籠を持ちながらニコニコと真っ黒な顔に白い歯を見せた。

続いて後ろから父親が入ってくる。

「おー良太」

兄と同じような反応に妙な安心を感じながら、良太は朋子に促され茶の間に入った。


実家は風呂場とトイレ、それから台所(と言うと朋子に「キッチン!」とどやされる)をリフォームしたものの茶の間(朋子に言わせりゃ「リビング!」)はフローリング仕様の床材が貼られているものの柱や壁は小さい頃のそれと同じで、良太にとってはやはり落ち着く空間だった。

「まあ、飲め」

親父が瓶ビールを開けて良太にコップを差し出した。

田舎の親父ってのは、まあ昼間から酒を飲む。

確かにこう暑い夏の日に、規模は小さくなったとはいえ田んぼや畑で午前中いっぱい動いていたことを思えはビールのうまさは格別だろう。

素直にコップを受け取り「サンキュ」と言いながら親父の酌を受ける。

「親父も」と瓶を受け取り、それ小ジョッキだろと突っ込みたくなる絶妙な大きさの親父専用のコップにビールを注ぐ。

次いで「兄貴」と瓶を啓太の方に向けると、啓太はまだ水の入ったペットボトルを握っていた。

「飲まねの?」

とテーブルに置いてあったコップを渡そうとすると

「啓太は禁酒してらんだ」と父が良太に言った。

(そっか。体調悪いんだもんな。)

良太はそう思い瓶をテーブルに戻しがてら、すでに空になっている父の小ジョッキに残りを注いだ。


「で?どこが悪いなや?まさか癌?余命いくばくとか言うんじゃねーべな?」

良太は雰囲気がなんとなく嫌で極めて明るく聞く。

「死ぬような病気じゃねって」

そう言う啓太に

「な、なんだずー。ビビらせんなって」と更にわざと軽い口ぶりで返す。

啓太の手に握られたペットボトルが傾き、水がこぼれそうになっているのを見て、良太は「兄貴!」と手を出した。

すると啓太は一瞬ビクッとなり、手からペットボトルを落としてしまった。

「啓ちゃん!」

台所で昼の準備をしていた朋美がこうなることが分かっていたかのように準備したタオルを持って啓太のところにやってきた。

「大丈夫」

大丈夫?と聞いたわけではなかった。

大丈夫だよと啓太に言い聞かせるように朋美が持った来たタオルで水をふき取った。

良太の違和感は消えないまま、それは啓太の顔つきだけでなく家族のやり取りにまで広がっていった。

ビールを片手に「そういえば兄貴、会社はお盆休み?いつまで?」と良太が聞くと、思わぬ答えが返ってきた。

「仕事は、辞めだ」

そういう啓太の言葉を疑うように良太は父の顔を見た。

「辞めだんでねくて、非常勤さしてもらったんだべ」

またしても驚くような情報が良太の耳に入ってくる。

「非常勤?病気だがら?」

それもそうかと思う反面、病気になったら常勤で働けないなんて、こんなに長く勤めている会社なのに?病欠制度とか使えるだろう?

と良太が心の中で自問していると、昼ご飯の冷やしラーメンを持った朋美が台所からやって来て言った。

「啓ちゃん、いいんだべ?良太には言ってけろって言ってだっけもんね?言うよ?」

と言う朋美に啓太は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに「あぁ」と朋美の言うことに同意したように答えた。


「啓ちゃんね……認知症さなったんず。若年認知症ってやづらんよ」




朋美の口から伝えられた言葉を頭の中で数秒自分の知っている知識と照らし合わせて、やっと良太が発した返事はどことなく間抜けなものであった。


「は?認知症って?兄貴が?親父じゃねくて?」



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