エンディング
小さな町の夏が終わろうとしていた。
彼は、駅のホームの一番後ろでひとり立っていた。肩にはショルダーバッグ。左手に、本屋のカバーをかけた文庫本を一冊持っていた。
「イタル、その本、買ったんだね。推理小説」
「図書館で、ラストまで読みきれなかったから」
不意に声をかけられたが、彼――イタルは驚かなかった。ぱっと振り返ると、そこには黒い影が立っていた。
年の頃は二十代半ばの黒尽くめのその人のことを、イタルはよく知らなかった。
「ナオ」
ただ、名前だけを知っていた。
イタルに伯父の日記を渡したその人のことは、それ以外は何も知らない。
「ありがとう、迷惑をかけてすまなかった」
「……何もしてないよ。俺はただ、見てただけだ」
「そうかな。君がいなければ、ルカはずっと囚われたままだった。十年前の夏に」
小さく息をついて。イタルは答え合わせをするように言った。
「ルカは、何も見えてなかったんだな。図書館が混んでることも知らなかった」
「ああ」
「俺より先に来て、俺が帰る時にも図書館にいた。それに図書館にはあんなにたくさんの人がいたのに、ルカのいた奥のスペースには誰も座らなかった」
「図書館は、この森に隣接されている。彼女のいた場所は、一番森に近いんだ」
「森から離れることができなかったのか……森へ入りたがらなかったけど」
「森に行けば思い出す。だから、彼女は森へ入ってはいけなかったんだ。心のバランスを保つために」
「ルカが森に道がない、と言ったのは、森がルカの来訪をルカのためにならないと思っていたから……思い出したくないと願っていた彼女を森へ入れなかったからか」
「おそらくね。そして、君から逃れるために逃げ込んだから、森は受け入れたんだ。そして君を排斥しようとした」
「前の日にあった道がなくなってたのは、そのせいか……なんでもありだな」
「そういうこともあるさ」
達観したナオの口調に、イタルは小さく笑った。
ナオも口の端にごくかすかな笑みを浮かべた。それからふと視線をはずし、吹き抜ける風を見送るように空を見上げた。
「だが、君は森へ入った。そして、見つけた。――彼女が存在を認知できるのは、君だけだったんだ」
「ナオ――あんた、こうなるって、わかってた?」
「……いや。どうなるかはわからなかった。どうなっていたのかわからないようにね。私が知っていたのは、ハジメという高校生が十年前、この町で行方不明になったこと。最後に目撃されたのが図書館だったということ。その図書館は、古い森に隣接しているということだけだ」
「それで、人に見つかる前に伯父さんの日記を荷物から抜いたのか?」
「入れておけないだろう。騒ぎになる」
「日記がないってのも騒ぎになったって聞いたけどな。日記つけてるのは、家族がみんな知ってたし」
「それでもさ」
降りた沈黙の間を縫って、アナウンスが聞こえてきた。
「間もなく1番ホームに、登り東京行きの電車が参ります。白線の内側までお下がりください……」
電車が近づいてくる中、ナオは続けた。
「やっと見つけた寄る辺なき同族だから……私はルカを連れて行きたかった。でも、彼女は森に――この世界に孵った。彼女は帰るべき場所を見つけた」
「……帰るべき場所……」
イタルは小さくつぶやいた。
そして、ショルダーバッグを下ろすと、中からノートを取り出す。
それは一冊の、なんの変哲もない大学ノートだ。色褪せたそのノートを、イタルはルカに差し出した。
「これ、あんたに。言ったよな、俺に。この色褪せたノートは、過去と現在をつなぐ運命という名の扉となるだろうって」
芝居がかった言葉だ。
ともすれば笑い飛ばされてしまうような、そんな言葉だ。
「次は、あんたに必要な気がするから」
電車がホームにすべりこみ、ドアが開いた。
イタルが差し出したノートを、ナオは受け取る。
「ありがとう。――さようなら、イタル」
「じゃあな」
電車に乗り込んだイタルは振り返る。
「ナオ、あんたはどうするんだ? どこへ帰るんだ?」
「さあ。わからない。私は――どこへ行くんだろうな」
小さく微笑んで、ナオは片手をあげた。
まるでそれが合図だったかのように、電車のドアが閉じる。
電車は動き出し、ホームに立つナオは遠ざかっていく。
そして、閉じた運命を後にして、列車はその町を離れていく。
山のふもと、まだ緑が色濃く残る、そのふるびた小さな町から。
イタルはドアの窓の向こうに広がる町の風景をぼんやりとながめながら、思い出していた。伯父の日記の最後のページを。
『僕は彼女が森に残ってくれと言ったら、そうしてもいい。いや、そうしたいと思う。ずっとそばにいたい』
「……ハジメには、わかっていたのかな」
その小さな問いは答えもなく、走りゆく電車の中で溶けて消えていった。
(終)
冥い森(くらいもり) 榛野(ハリノ) @aharino00
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