白い記憶

 彼が強い風にあらがっていることを、ルカはもう見ていなかった。ただ、深く、深く記憶の闇にもぐるように、目を閉じたまま立ち尽くしていた。

 ルカの立つ場所、若木のそばはきっと心地よい風が吹いているのだろう。あたたかい日差しに満ちているのだろう。彼を飲み込もうとしている森が黒く闇に満ち、切り裂くような風を生んでいるのとは裏腹に。


「ルカ!」


 それでも彼はルカの名を呼んだ。

 ざわめく森の声に耳を傾けていたルカの意識は、その呼びかけにはっとする。


「よくないことがあったの……思い出してはいけない……。森は私にそう告げている」

「ルカ! 君は、どうなんだ」

「森は思い出してはいけないって……」

「君は忘れていたいのか?」

「私は忘れていたいの……?」

「どうなんだ、ルカ! 君が忘れていたいなら仕方ない。だが、今は思い出しかけてる。そうしたいと願っているからじゃないのか?」

「そうしたいと……」

「思い出したいって思ってるんじゃないか?」

「ハジメの言葉を……ハジメの答えを――私……」


 呆然と立ち尽くすルカに、彼はゆっくりと、穏やかに、優しく聞いた。


「ルカ、『君も森を愛しているんだね』?」


 その問いは、喜びに満ちていた。だからルカは、そのハジメの言葉を美しいと思ったのだ。

 だからはにかんで、問いかけた。あの時。喜びに満ちて。愛に満ちて。


「そうよ。大好き。この森が好き。同じくらい……あなたを好きになっていい?」


 その時、ふっと風がやんだ。時間がとまったように、森は沈黙した。

 ルカは言葉を続けた。


「ねぇハジメ、私のそばにいてくれる……?」


 その言葉に、ハジメはなんと答えたのか。

 彼は答えようとした。何かを言おうとした。

 だが、ルカの慟哭がそれをさえぎる。


「あ、あ、あ……ああああっ!」

「ルカ!」

「言わないで、その続きを言わないで! もう二度と言わないで!」

「ルカ……」

「来ないで、来ちゃだめ、私は、私は……あの時、我慢できなかった。受けた気持ちを、愛を、好意を、我慢できなかった! 人は、森とは違うのに……!」


 目を閉じて、うずくまる。

 人は、森とは違う。愛が同じでも、気持ちが同じでも――森とは違うのだ。


「だから、なかったことにしなくちゃいけない……隠さなくちゃ……森に隠してもらわなきゃ……」


 うずくまって、うわごとのように繰り返すルカに、彼は一歩近づいた。そして、低く小さな声で聞いた。


「森に隠してもらわなくちゃならなかったものは、なんだ?」

「違うということを……ハジメの言葉を……」

「ハジメの言葉を隠そうとしたのか?」

「私は……森は、隠してくれたの……」


 彼は、一瞬ためらったようだった。だが、呼吸を整えて、ささやくように言った。

 ハジメが言ったであろう言葉を。


「『君のそばに』……」

「言わないで……」

「……『君のそばにいるよ』」


 ルカの目から涙がこぼれた。声もなく、音もなく。

 ただ、ルカのそばに立つ若木が揺れるさやさやとした葉ずれが、そっと響いた。優しいその響きに誘われるように、ルカはそっと若木に触れる。


「この森の真ん中……私はここに、大切なものを埋めた……」


 そして、その若木の根元を掘り始めた。

 ルカの白く細い指はあっという間に土にまみれる。彼女はそれでも掘り続けた。


「ここに……大切なものを……」

「ルカ……」


 誰も――森も、もうルカを留めることはなかった。

 やがてルカの掘った土のあいまから、違うものが見えてきた。

 白く乾いた、何か。

 それが何かは、もう彼にもわかっていた。


「――そこに……ハジメがいるのか……」


 ルカは答えなかった。だが、彼女の泣きじゃくる声がすべてを肯定していた。


「私は――森に愛されていて、その気持ちを吸いこんで生きてきた……人と森とは違うのに、ハジメは私を愛してくれて……私に愛を……私は、ハジメの気持ちを受けようとした……森と同じように……ハジメは森とは違うのに……!」


 彼は息を飲み、黒い影が小さくため息をついた。

 それは十年前、今と同じ姿のルカが、初めて人を愛したことで始まり、終わってしまったのだった。


「ハジメの気持ちは優しくて……でも、体はどんどん冷たくなった。私は――悲しくて、怖くて――悲しくて……たくさん泣いて……ああ、ハジメ……」


 泣きながら、記憶をたどりながら、彼女は土を掘り続ける。

 もう、彼の声は聞こえていなかった。


「やめろ、ルカ! それ以上土を掘っちゃだめだ! 君の指が……腕が、変わっていく……!」


 止めないでやってくれ、と黒い影が頼んだ。彼は唇をかんで、ただ見つめていた。


「ごめんね、ハジメ、ごめんね……私は何も知らなくて、ただあなたの気持ちが嬉しくて、嬉しくて、こんな気持ち知らなくて、ずっと今まで独りだったから……森だけだったから……あなたを知って、初めて淋しいって思ったの。あなたと離れるのが、淋しくて……そばにいてほしくて……ハジメ……!」


 ルカは泣きながら掘り続けた。若木の根本の土を掘るルカの腕が、木に変わっていく。 やがて掘っているのか埋まっているのかはわからなくなった。涙がこぼれるたびに、ルカの形は消えていった。

 そしてルカは、若木にそっと、はなれがたそうに顔を寄せた。

 もはや涙は風だった。

 寄り添う二本の木の間に白い骨は再び埋まっていき、やがて見えなくなった。

 それが、最後だった。


 森の真ん中にぽかりと空いた広場、天からは日差しが降り注ぐ。

 どこからか優しい風が吹いた。


 そして、森は沈黙した。すべてを受け入れて。

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