砂に消える

西辻 東

砂に消える

 浜辺で自殺を見たことを語るために、四年も要した。


 四年間の時間を費やして語り終えた。という意味ではない。


 四年間という時間をかけて、ようやく語り始めることができたのだった。


 四年前の八月二十日。私がちょうど十四歳になった日だ。


 メガネをプレゼントされたことをよく覚えている。赤色のメガネ。今でも使っている。


 初めてメガネをかけたときは感動した。


 一眼レフで撮った世界に飛び込んだような、そんな素晴らしい心の震えだった。


 ——見える


 首を回すと、次々にクリアな物体が目に入り込む。


 高揚感で倒れてしまいそうなくらいに興奮した。


 私はすぐに何かに取り憑かれたかのように外を歩き回った。


 それで、どこか懐かしさすら感じる夕暮れ時に、ついに家から遠く離れた浜辺までやってきていた。


 そこで見つけたのが彼だった。



 ◇◇◇


 小学生高学年ほどの背丈で、中性的な顔立ち。さらさらと、潮風によって美しく揺れる少しだけ伸びた茶色の髪の毛。


 波の音と、潮の香りと、風と、沈みかけた太陽。そしてそこに佇む少年。それらを今でもはっきりと思いだせる。


 自然と足は彼に近づいていた。


 彼は私のことを一瞥すると、水平線を見つめた。


 彼の瞳に、オレンジの電球がぽっと灯っている。私はそれをぼうっと眺めた。



「この景色、どう思う?」少年は水平線を見たまま、呟くように私に話し掛けた。


「綺麗よ。すごく綺麗」私は感じた単語を咄嗟に汲み上げた。初対面でそんなことを聞かれるとは思っていなかったから、私は動揺した。


「やっぱり、みんな見えてない」短くため息を吐き、少年は呆れたような口調で言った。全てを見透かしているように。


「見えてるわ。私、今日メガネを買ったばかりだもの」


「そういうことじゃない。みんなこの景色を見ているけど、本当は、そこを誰も見ていない」ようやく彼は私を見た。そしてゆっくりと首を振った。


「じゃあ、どこを見ているの?」


「自分だけの景色」少年は自分の目を人差し指で指して言った。


「自分だけ?」


「みんな、本当のものは一瞬しか見えてない」


「それだと、何かいけないことがあるの?」


「気づけないだけ。いけないってわけじゃないけど、今の君みたいに馬鹿みたいなことしか考えられない」


「へぇ、すごいね。あなたはお名前は?」私はわざと上機嫌に言った。


「タイラー」


「苗字は?」


「わからない」タイラーと名乗った彼は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。


 わからない?


 自分の名前がわからないなんてことあるのだろうか。


 私が不思議に思って、もう一度いくつか質問しようと考えた。


 だが、私が口を開くよりもはやく、彼が言う。


「——君が次にする質問も、その次の質問も、答えはノーだよ」


「そう」適当に相槌をしたが、内心私は驚愕していた。自分の考えていることが読まれたこと。それはあり得ないくらいの驚きと、恐怖を与えた。


 数秒して思考を取り戻す。


 ——答えはノーだよ。


 つまりそれは、両親がいないということ。タイラーというのはハーフではないこと。


 両親がいない。


 そんなことがありえるのか?


 そういうのはドラマや本の中でしか発生しない、悲劇的な空想のようなものと私は思っていた。


 しかし、目の前に実例が存在していた。


「ハーフではないって、クォーターってこと? タイラーは日本人の名前じゃないから、純粋な日本人ではないと思うし……」動揺を隠そうと必死になりながらも、もう一つの答えを再度聞いた。


「名前なんて、そんなのどうでもいい」ぼそっと、消え入るように小さな声で彼が言った。


 名前がどうでもいいわけがない。名前がどれほど大事なのか、きっとこの子は分からないんだ。と私は思った。


「名前がどうでもいいわけがない。名前がどれほど大事なのか、きっとこの子は分らないんだ」そう言ったのは、私ではなくタイラーだった。


「は?」と声が零れた。


「君の考えることは全部見える」透き通った目でタイラーは私をじっと見た。その目を見ていると、不思議と体が固まったように動かなくなった。レーザー光線で、体の隅々まで、皮膚の裏側まで何もかも観察されているような感覚だった。


「それ、本当?」


「さっき考えてること、言い当てた。君はもう信じてる」


「ねえ、それ、超能力ってやつ?」苦笑するように私は聞いた。


「半分合ってる」数秒間をおいて、タイラーが答えた。


「驚いたわ。すごいじゃない」半分合ってる。それはつまり、残り半分は何かしらの努力、計算力とか、たぶんそういうのだろう。


「すごくないよ。君は——名前なんだっけ」


小野寺おのでらマミ」


「マミは、指を鳴らせることを褒められてうれしい? それと同じだよ」


「当り前だって言いたいの?」私は若干の怒りを隠しながら言った。


「ちょっとの努力でできるってこと」タイラーは口角を釣り上げて言った。子供らしからぬその表情は、私に怒りを送り続ける。


「皮肉ね。それ、誰かに言わないの?」しかし私は怒らない。あくまでも表面的には見えないようにして言った。だがタイラーはとっくに気づいているはずだ。私が怒っていることに。


「大人は信じない。不気味だって、逃げる。人間って、いつもそう。何も見えてない」タイラーは途切れ途切れに言った。


「子供は?」


「やっぱり信じない。不気味とは思ってないけど、笑いものにする。僕のことは、彼らの前ではインチキなマジックを使う売れないマジシャンか何かと同じ」


「今までそれを信じたと認めた人はいた?」


「いる。けど足りない」


 足りない?

 その言葉が頭に少し引っかかった。


「必要なんだ。多くの人が」私の考えることをまた読んだのか、タイラーが答えた。


「集めてどうするつもり?」


 タイラーは何も言わなかった。


 しばらく、私も何も言わなかった。


 もはや忘れていた波の音が、遠慮がちに戻ってくる。


 太陽はもう少しで完全に落ちる。


 カモメか何かが目の前を通った。


 するとタイラーは思い出したかのように言葉を紡ぎだす。




 散らばる光は混ざらない


 大きな光は落ちてゆく


 つぶらな月ともさようなら


 どこからも消えて


 どこにでも逃げる


 ザッザッザッ


 耳の奥で潮の流れ


 動き回った浜辺に一人の女


 人形を捨てて、砂に消えた





 タイラーは詩を詠んだ。


 その言葉は、意味が分からなかったけど、なぜか心に響いて、浸透した。


 まるで、言葉が脳に直接入り込むように。


 それからタイラーはおもむろに足を動かし、前へと向かった。


「そろそろ行く」


「ねえ、ちょっと……」タイラーが二歩、三歩進んでから私ははっとして声を出す。


「ちょっと! そっちは海よ!」タイラーは足を止めない。


「ねえってば! 戻りなさい!」私は思い切り叫んだ。


 するとタイラーはゆっくりとこちらを振りかえった。


 幻想的だった。


 小さなタイラーは影で黒くなり、顔は見えない。シルエットだけが、その存在を示していた。


 視線の先には半分見えない太陽。


 ——見えない



 結局、タイラーは見ることについて何と言っていただろうか。


 生まれ変わったかのようにすべてが見えるようになったかと思えば、すべてを見透かすタイラーに出会い、私の「見る」は、行き場をすっぽりと覆い隠されてしまった。私の「見る」とは、一体どんなものだったのだろうか。



「さっき伝えた詩。あれをいつか友達に聞かせてあげて。できるだけ多くの人間に」


 タイラーはそれだけ言うと、太陽へと消えてしまった。


 私は、何もできずに、ただ彼の言葉を頭の中で反芻させていた。


 まるで絶対に忘れてはならない記憶だから、と脳が直接訴えている気がした。



 ◇◇◇


 私はそうして四年間、語らずにいたタイラーの自殺を語り終えた。



「死んだの?」開口一番、小川アキが言った。鋭い口調ではなく、むしろ穏やかに、ゆったりとした口調だった。


「うん。最後まで見てたから。いや、タイラーに言わせれば見えてないのかも」


「どうして助けなかったの?」単純な疑問だけをもって、アキは尋ねた。


「わからない。とにかくわからないことだらけなの。タイラーには疑問しかわかなかったし、質問しかできなかった」私はその時のことを思い出しながら言った。


「そうなんだ。でもねぇ、マミの今日のお話はすごく聞きやすかった。なんというか、こう、頭にじーんって入ってくる感じ」


「そうかな。感情がこもってるから?」


「かもね。見えるかぁ……私は、その『見える』っていうのはよくわからないな。強いて言えば、タイラーが言っていた、自分だけの景色を見ているのかもしれない。だから、まぁ。普通ってことかな」苦笑してアキ。


「そうね。アキにとってはそうかもしれない。けど……」


「けど?」


「私は、違うと思う。見えるって、ただ単純に物事を捉えるだけじゃない。その奥まで理解すること、それが『見る』ことだと思う」あの日のタイラーのことを思い出しながら私は言った。


 ——やっぱり、みんな見えてない。


「よく分からないなぁ」


「分からなくても平気よ」


「そうなのかなぁ。あ、ところで、さっきの詩だけど」


「詩?」


「そう、あれ、もう一度聞かせてくれない?」


「いいけど」私はタイラーの詩をもう一度言った。


「うーん……なんか、聞き覚えがあるっていうか、どこかで見た?」


「そう? 何かの作品なのかな」


「分かんない。でも、自殺かぁー」そう言ってアキは体を伸ばす。


「どうしたの?」


「いや、ほら。例の集団自殺に似てるってわけじゃないけど、なんか思い出しちゃうっていうか」語尾を濁らせてアキは呟く。


「何それ?」私は尋ねた。集団自殺? さっぱり聞き覚えがなかった。


「知らないの?」そう言ってアキは説明を始めた。


 三月の頭から、関東の小・中・高の学校の卒業式の週になると自殺する生徒が急増しているらしい。


 集団といっても何人かで集まって自殺するのではなく、皆それぞれがそれぞれ一人で自殺するのだ。


 首吊りや飛び降り、中には拳銃を使った自殺もあった。


 その影響で、卒業式を実行できない学校が多数あるそうだ。


「近くの、T工業高校も半分近くが自殺しちゃったんだって」


「へぇ、そんなことが……私たちの学校は?」


「今日こうしてできてるじゃん」アキは両手を広げて言った。今日は卒業式当日だ。


 今は朝早い時間帯で、二人しかいないが、もう少しでこの教室はきっとやかましいくらいに元気なクラスメイト達であふれかえるだろう。


 そして、卒業式を終えて、高校生活を修了する。涙を流す者も当然いるだろう。私だって泣くかもしれない。


 私はそんな教室を想像した。けど、その想像は窓の外を飛ぶ小鳥のさえずりによって、泡のようにパチンと消えた。


「それって、なんでだろう。それだけ短期間に自殺する人が多いってことは、誰かが裏で操っているんじゃないの?」私は言った。


「他殺の可能性はすべてないって。むしろその逆? っていうか、自殺としか考えられないようなケースしかないらしいよ」首を傾けながらアキ。


「そう……」囁くように私は呟いた。


 その時、教室の扉が開かれた。


「おはよう」藤川タマが自然と教室に滑り込むかのようにして入ってきた。


 私は驚いた。アキも目をぎょっとさせて驚いていた。


 藤川タマとは、一言で表すなら根暗だ。


 クラスメイトとの関わりを最小限までシャットダウンし、教師とも口をきかない。彼女の声を聴くためには、彼女の趣味であるオカルト話をするしかないくらいに、彼女は口数少なく、友達少なくだったのだ。


 だが、その藤川タマが挨拶をしているではないか。一体どういう風の吹き回しなんだ。と私は思う。


「おはよう、タマちゃん」アキがタマに言った。私は驚きで挨拶をし返すのを忘れてしまっていた。


「おはようございます。ところで、先ほど何を話していたんですか? 自殺がどうとか聞こえましたけど」タマは早口で言った。


「うん。ほら、最近の集団自殺の事件。タマちゃんも知ってるの?」


「知ってます知ってます」タマは嬉しそうに声を弾ませて言った。


「誰がやったとかわからない?」


「それは、タイラーです。複数人かもしれないけど、そう名乗っている人が犯人だと思われています」タマはカバンを机に置いて、言った。


「タイラーを知っているの!?」私は机を勢いよく叩き、立ち上がった。浜辺に佇むタイラーの横顔が私の頭に強くイメージされる。


「え……ええ。だって、有名だから……」戸惑いながらもタマは言う。アキもびっくりしている。


「どこ? どこで知ったの?」


「SNSです。先週くらいから、有名になって……」


 私は瞬時にスマホを取り出してタイラーのことを調べ上げた。


 すると、タマが言っているであろうアカウントが見つかった。


「これ……?」私は画面をタマに見せる。


 初期状態のアイコンにただ「タイラー」としか書かれていない。アカウントはつい最近できたもので、一つだけ書き込まれた内容と数分の動画があった。


『関東の小・中・高の学校の生徒は、3月1日から当該生徒の卒業式の日までに、少なくとも半分以上が自殺する。これは予言ではない。宣言でもない。告知だ。僕から逃れることはできない』


「これよ。私も先週見つけたの」タマがそう言うと自分のスマホをもう一度見た。動画をタップして、音量を上げる。そして机の上に置いた。



 真っ黒な画面から、ふっと切り替わり、小さな部屋と子供が現れた。


 子供は小学生くらいで、どこにでもいるような無邪気な少年だ。この子が黄色の帽子をつけて、横断歩道を渡るシーンが容易に想像できる。


『青山タクト。小学四年生です』ホワイトノイズが混ざっているが、鮮明にその声は聞き取れた。


 私とアキはすっかりスマホに視線がくぎ付けになっている。タマは私とアキの顔を交互に見て、表情を楽しんでいるようだ。


『これは指示があったので撮りました。僕がしたいと思ったことじゃないです』ちぐはぐに言葉を紡いでいく少年。


 そして、少年は立ち上がり、何やら上を向いてゴソゴソとしている。


 ようやく音が止んだ、と思ったら、上から物陰がヒュン、と垂れた。


 ロープが垂れた。


 私はすぐにこの後何が起こるのか分かってしまった。


 画面から目が外せない。まるで誰かにじっと見られているようだ。


『では、今から自殺します』


「何これ……これ、ねぇ、これってCGとかじゃないの?」アキは今にも泣きだしそうな声を出した。


 私は何も言わなかった。ただ画面を見つめた。


 少年は椅子を持ってきた。それをロープの下に起きそれに登る。彼は自らの首をロープの輪に入れた。


 そして——


『ぐッ……!』椅子を蹴り飛ばし、重力に従って彼の首は絞められる。


 自分の首が絞められているのではないかと錯覚するくらいに少年のもがく姿は酷かった。


 少年は荒ぶる。ジタバタと足を動かし、手でロープを掻っ切ろうとしている。


 目は焦点を失い、必死に何かを拾おうとばかりしている。


 口からは泡が噴き出て、こめかみに血管がうっすらと浮き出た。


 なおも少年は悶える。ロープの設置が不十分だったのか、はたまた私たちの時間の感覚が狂ったのか、少年は永遠とその苦しみに晒されているように見えた。


 アキはもう目をそらし、タマの腕にしがみついている。


 背中に悪寒が上りつめる。


 先ほどまであった可愛げのある少年の姿などどこにもなく、もはや別の生物になってしまったかのようだった。


『ぎるる!! ぐぎん、ぎゃぎちばずず……』少年は口から謎の声を出した。黒板を爪で引っ掻いたような不快感に苛まれる。


「何……? 今の、何なの……!」理解不能な叫び声に、アキが立ち上がって言った。


『ばるるるるるるうう!!!! ぐううぎゃぎちばずずばずずずずず!!!!』訳の分からない言葉を発し、そしてそれはだらりと脱力した。


 ——死んだ。


 自殺したのだ。


「今のが、タイラーの力だと言われています。関東の子供たちが、今同じようになっているんです」やけに冷静にタマは言った。何度かこの動画を見たのだろうか。


「さっきの、言葉? なのかな、何か言っていたけど、あれは?」


「わかりません。症状のようなものだと一部の人達は言っていますけど……私はそうは思いません」


「私たち、平気なの?」アキが尋ねた。先ほど、自分で大丈夫だと言っていたのにである。


「わかりません、今タイラーに関して出ている情報はほぼありません。でも、この集団自殺のことを、ネットでは『ギフテッド・スーサイド』と呼んでいます」


「ギフテッド?」私は繰り返す。


「はい、受け賜わりし自殺という意味らしいです」


「他には?」


「ありません。どうやったら助かるとか、どのように自殺しているとか、そういうのはまったく」タマは首を横に振った。


「ただ——」タマは真剣な目で言う。


「何?」とアキ。


「タイラーはギフテッド・スーサイドのリミットを、当該する生徒の卒業式の日まで、と設定しています。つまり、私たちが今日卒業式を無事に成し遂げることができれば、自殺しなくて済むというわけです」タマがそう言うや否や、私はすぐに教室の掛け時計に視線を送る。



 8時38分。


 私は時計を二度見した。卒業生の集合時間は8時50分までである。まだ12分もあるとはいえ、この教室にたったの三人しかいないのはどう考えてもありえないことだ。そう思った瞬間、どっと汗が吹き出し、恐怖が急速に体内に広がる。


「なんで誰もこないの? ねぇ、もう結構時間経ってるよ?」私はタマとアキに言う。


「……もしかしてみんな死んじゃった……とか?」アキは呟いた。


 少年の姿が脳裏をよぎる。


「そんな……だ、だって……」どうにか否定の道を見つけようとした。だけど、この状況でもっとも可能性が高いのはアキの言う通り、すでに全員が自殺してしまったという線だ。


 私はすぐに扉まで駆ける。


 勢いよく扉を開けた瞬間——爆竹が爆破するような音が複数個重なる。


「「ハッピー……バースデー!! イエーイ!」」数十人ものクラスメイトがわあっと声を合わせて言った。


 爆竹のような音はクラッカーだった。クラッカーの残骸が散らばり、火薬の匂いが漂っている。


 その瞬間、私は足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。


「びっくりしたでしょ? マミ」マミに手を差し伸べて寺島ミホが言った。


「はあぁ……もう……」深く重いため息を吐いて私が言う。そしてミホの手を取る。


「いやぁ、つい二日前だったの。マミが誕生日だって知ってさぁ。クラッカーしか用意できなかったけど、高校生活ラストの日にすっごいサプライズをしてやろうって」ミホは腰に両手を置いて自慢げに言った。


「そう、確かにものすごく驚いたわ。みんないなくなっちゃったのかと思ったわ」


「いなくなるわけないじゃない」


「そうね」私は頷いてアキの方を振り返る。手を振ってアキは応える。


 こうして私の予想通り、見事やかましいクラスメイトがしっかりとそろっていた。


 クラッカーの残骸をてきぱきと掃除しているミホに私は言う。


「ミホ、あと私からのサプライズなんだけど、今日誕生日なのは私じゃなくて、アキね」私はそう言ってアキを見た。


 アキはとびきり笑顔でウィンクをした。





 ◇◇◇


 肌寒く、ツン、と鋭い冷気が体育館に漂っていた。


 壁には紅白の垂れ幕がかかっており、パイプ椅子がきちっと綺麗に配置され、作られた道には等間隔で花の壺が。

 ステージは華々しい装飾が加えられた教壇。


 大きなストーブが顔を真っ赤にして轟音を鳴らし、ビデオカメラのオンオフの電子音が頻繁に響く。


 赤ん坊の泣き声も定期的に訪れる。誰かの囁き、制服の擦れ、スピーカーから流れるホワイトノイズ。


 ——ああ、卒業式だ。


 私は心の中でそう呟く。同時に、高校三年間を思い返した。


 長いようで、あっという間、誰もが口をそろえてそう言うだろう。


 けど私にはただの三年間だった。三年に短いも長いもあったものではない。


 私は余計に思考が加速してきていることに気づく。


 雑音にまみれて少々考えを走らせてしまったようだ。


 卒業証書を握る手が多少強くなってしまった。


 適当に丸め直し、膝にそれを乗せる。


 この退屈すぎる小一時間を皆は短いようで、長いんだと口をそろえて言うのだろうか。


 まったく、いい加減なものだなと私は思う。


 と、そこで隣のアキが腕を突いて合図した。


「どうしたの?」私は小声でそっと尋ねた。


「ねぇ、私たち、本当に平気かな……」アキが俯いて言う。


「平気よ」私がそう呟いた瞬間——体育館は、突如として音を失った。



 すべての音が消えた。


 私の心臓の音すら、もはや聞こえない。


 だが、記憶の片隅で、波が静かに打ち寄せている。


 下を見た。


 足には何もつけておらず、自分の肌が見える。


 そして、透き通った海。


 浜辺に私はいる。


 辺りを見回す。アキとタマとミホがいた。皆、マネキンのように動かない。


 海と、水平線と、波と、潮、アキとタマとミホ。太陽も月も見えない。


 ——見えない


「やあ、マミ」タイラーが右手をあげて挨拶をした。


「タイラー?」


「そう。僕はタイラー。名前なんてどうでもいいけどね」タイラーは肩を竦める。


「ギフテッド・スーサイドをどういう方法で実現しているの?」


「それはできない。それを口にするのはできない」


「なぜ?」


「計画が狂うからさ」


「あなたは死んでまでして何を企むの?」


「死んでるとか生きてるとか、そんなのどうでもいいよ。関係ない。僕にとって生きていることは、不自由でしかない。死んでいなければ、こうして今マミと話せない」タイラーはそう言って、虚空を指さす。それをたどると、太陽が見えた。


「あの詩は、どういう意味だったの?」


「意味なんかない。あれは単なる媒介と合図でしかないよ。あの子供の自殺だって、ただの媒介。あれは古い信号だけどね」タイラーは指を鳴らした。波の音が聞こえてくる。


「誰かへのメッセージということ?」


「そう。僕ができる限りの力で伝えられる存在に向けての、メッセージ」タイラーは手を叩いた。カモメの大群が私とタイラーの間を羽ばたく。


「そう……私は死ぬのかしら」


「僕からは逃げられない。言っただろう?」タイラーは息を吹いた。太陽が半分沈んで、オレンジ色に空が染まる。


「ねぇ、あなたには何が見えているの?」


「僕は、僕が見ている世界を見ている」タイラーはそう言った。そして水平線へと走り出し、しゅぽんと消えた。


「訳がわからないわ。そんなの、私だってそうよ」


「君は、君が手に入れた世界を見ている。僕は世界をそれ自体として見ている。今もそう」タイラーは太陽から姿を見せた。


「あなたは、誰?」


「僕はタイラー。少なくともここではね」タイラーが言った。彼の姿が徐々に見え始める。


 四年前と同じ姿が見えた。


「私の考えていること、当てて」


「……その力はもうない」タイラーは呟く。空は暗闇に包まれた。


「じゃあ、どうしてギフテッド・スーサイドを計画できているの?」


「それは、半分の力だから」


 ——



「そろそろ、卒業式に戻ってもいいかしら?」私はパイプ椅子から立ち上がる。浜辺にパイプ椅子が一つ見える。


「そうだね。そろそろ行かなくちゃ」タイラーはそう言うと、四年前と同じように海へと歩き出す。


「ありがとう」私はそう言った。



 そして、私たちは砂に消えた。




 タイラーは、それを見ていた。

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砂に消える 西辻 東 @128nishinosono

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