疾漕
生ウイロー
疾漕
ボート。この言葉を聞いて、人々が思い浮かべるのは井ノ頭公園の池に浮いているボートか、はたまた琵琶湖で貸されるレイクカヤックのようなものか。
あるいは、競艇。エンジンを搭載したボートで、コースを速く周回する競技。舟券を買う賭け事。というくらいのイメージしか高校生たる僕にはないけれど、大きく外してもいないはずだ。
僕が高校生活の時間の一部を捧げているのは、アヒルボートでも、もちろん舟券でもない。ボートというジャンルに含まれながら、あまり存在感のなく、それでいて実はオリンピック種目でもある「競技ボート」だ。
競技ボートの部活、通称「
去年の初秋に開かれたもう一つの全国大会の予選のことは、未だに脳裏にこびりついている。
高校生の競技ボートでは、シングルスカル、ダブルスカル、
その大会において、予選の組み合わせの良さもあり、一年ペアながら奇跡的に決勝のレースへと進出できていた。決勝で1位になれれば無条件で全国大会進出、2,3位なら二次予選へ回ることになる。二次予選はより広範囲から選手が集められることから、予選突破の難易度は当然高くなる。ゆえに、可能ならこの日で全国行きを決めたいところだった。しかし、大きなミスを犯す。
序盤で無謀にもトップを維持した一年ペアは、あろうことか600m付近でスパートをかけてしまったのだ。早い段階で突き放して勝負を決めたかったが故だが、これが完全に裏目に出る。漕ぎの乱れもあり上手くスピードを上げきれなかった結果、突き放すどころか抜き返され、スパートをかけなおす余力もなく、レースを最下位で終えた。
それから約半年。種目をダブルスカルからシングルスカルへと変えて以来初めての、全国行きがかかった大会だ。決勝に進んだ4人で、たった1つの全国行きの切符を争う、シングルスカル決勝。割り当てられたのは第3レーン。左に2
スタート用の信号に、赤いランプが点灯する。このランプが緑に変わった瞬間に、長く、短い1000mの勝負の幕が上がる。決戦の時がすぐそこまで迫ったのを感じ取り、岸にいる伴走者も含めて辺りは静寂に包まれる。
「Ready」
緊張が水上を埋め尽くす。
「Set」
スタート姿勢。力を集約する。
「Go」
爆発。4艇が、一斉に水面を滑り出す。
スタートの7本を終えて、レート(1分間に漕ぐ回数。ペース配分を示す)を32で安定させる。最初の250mは、スタートから漕ぎを一定のペースに移す過程で、気づいたら終わっていることが多い。それよりも、その次の250~500mが、レースで精神的に辛い部分だ。半分以上の距離を残しながら、スタート直後のアドレナリンが切れ始めるこの区間。
漕ぎは芸術だと、よくは思う。あの失敗で、速く漕ぐためにレートを上げたり、闇雲に力を込めるのは悪手だと言うことを思い知って以来、丁寧に漕ぐことを意識し続けてきた。体に覚えさせた、持てる力を最大限活用するためのフォームで、ただ無心に漕ぐ。常に自分の姿勢に、フォームに芸術を求める。美しいフォームは、強いから。そんなことを考え、気を紛らわせる。折れそうな心をつなぐ。
500m、中間地点を通過する。
「第4レーンと半艇身差の2位、500m、1:58!まだ耐えろ!勝負はもっと後だ!」
やはり最大の敵は、予選一位で決勝に進出した隣のレーンの艇らしい。メガホン越しのコーチの声をもとに、脳内で計算する。このままなら3分56秒、例年の優勝タイムが3分40秒台後半であることを考えると、どこかで確実にレースに変動がある。半艇身差が維持されるとして、仕掛けるなら750m付近か。
600m。力を溜め込みながらも、スピードは維持する。視界に、隣のレーンを進む艇が目に入る。進行方向とは逆向きに座るこの競技で、視界に入るということは、半艇身以上の差がついたことと同義だ。レートも速そうだし、やや漕ぎも乱れている。おそらく彼は脱落だろう。ただ逆に言えば、自分以外に2人は残っている。やはり、750m付近で一度前に出たい。というか、半艇身差を覆すためには、行くしかない。勝負の瞬間が近づくのを前に、またアドレナリンが盛んに分泌されるのを感じる。
そして、運命の750m地点。
「スパートかけろ!」
(言われなくて、もっ!)
爆発。レートを36まで一気に上昇させる。全身にさらに負荷をかけ、一漕ぎによる力を大きく。
「並んだ!行ける行ける!」
「並ばれても耐えろ!」
敵味方のコーチの声が入り混じる。500mで先行していたはずの第4レーンの艇が視界に入る。抜ききった。他の艇との距離を指標にしつつ、他の艇を突き放しにかかる。そういえば、あともう一艇は……
「ここキツイけど耐えろ!最後までペース落とすな!」
岸からコーチの声。思わず横を確認する。突き放せていない艇は、まだ残っていた。そこには、決勝進出タイム最下位で、最も端の第2レーンに配置された艇が、ほぼ並走していた。
必死に漕ぎを維持する850m地点。今の150mで、大きく体力は消耗した。抜け出しきれなかったという事実が、昨秋の嫌な記憶を思い起こさせる。今日2本目のレースということもあって、体力的にも限界に近い。それでもまだ、気持ちだけは、絶対に切れていない。きっとまだ女神は、明後日のほうを向いていない。
再び岸からの声。
「第2レーンペース上げたぞ!」
その声が意味するところなど、一つしかない。明らかに重たくなっている身体を鞭打ち、もう一度力を込めていく。艇に取り付けられたメーターが示すレートは、とっくに予定の数値を超えている。一瞬の崩れが、致命傷。尽きかけの体力で、終盤戦へ挑む。
900m地点を通過。最後の一滴を絞りだそうとする時間が、永久に続くかのように感じる。残された体力など既になく、気力だけで意識をつなぐ。
「ああああああああっっっっ!!!!!!!」
声にならない叫び声を上げて、残された力を絞り出す。それでも、視界に第2レーンの艇は入ってこない。
シングルスカルは、数ある種目の中で唯一、一人で戦うことを求められる。どんなレース展開になっても、戦略を決めるのは自分、自らを時に落ち着かせ、時に鼓舞するのもまた自分。そこに他者の介在する余地はない。
そんなものは、盛大な思い違いだった。一人だからこそ、周囲の存在を強く意識する。
「行ける!全国行けるぞ!」
「振り絞れ!あと75mしかないんだぞ!」
岸から聞こえる、仲間の声。その声は、同級生だけに留まらない。自転車の台数は、一人一台には使うには到底足りない。ましてや自分たちのレースを終えた後、疲労はピークなはずだ。にもかかわらず、わざわざ走って自分に声を届けてくれている。
この雰囲気が、好きなのだ。これだから、端艇部が、好きなのだ。たった一人で戦う自分に声を届けてくれる。その声が、枯れそうな気力を湧き立たせる。全員が全員を支えあう、そんなこの部のために、この仲間たちのもとに、最高の結果を持ち帰りたい。そう強く思えるのだ。部活に入らなければ、知ることのなかったであろうこの感情に、なんと名前をつければいいのだろう。
残り50m。
この先の舞台には、どんな景色が広がっているのだろうか。
残り40m。
苦しくても、漕ぎに美しさを。
残り30m。
去年の失敗を、今ここで越えていく。
残り20m。
自分は、一人であって、一人じゃない。
残り10m。
最後に女神を振り向かせるのは、自分だ。
残り……0m。
戦いの終わりを告げる空砲が、鳴った。
片付けを終えて艇庫の前に広がる芝生に寝転がれば、日差しは夏にふさわしい熱量をもって肌を刺す。壮絶なレースを終え、喪失感が胸を支配する。勝っても負けても、どんなレース内容でも、なぜかいつも感じる喪失感。レース中の高揚感が失われた反動だろうか。
「表彰式始まるぞ~」
遠くで仲間の声がする。体を起こして立ち上がり、大会本部へと足を向ける。
強烈な日差しを受けて、由来も知れぬ、芝生の葉の上の水滴があっという間に消えていく。そんな、初夏の一日の物語。
疾漕 生ウイロー @DTZ-Y
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