譲ったもの
増田朋美
譲ったもの
譲ったもの
寺田義男は、富士市内でごみの収取者として働いていた。毎日様々なゴミ置き場をパッカー車に乗って回って、ごみを集めるのが仕事である。あだ名は寺さん。ほかの仲間からはそう呼ばれている。でも、さん付けで呼ばれるほどの、偉さがあるわけでもないし、強さがあるわけでもない。ただ、このごみの収集業者という仕事について、一番長いというところから、寺さんと呼ばれるようになった。それだけの事だ。
義男は今日も、ごみ置き場を回って、ごみを片付けていった。入りきれないくらいのごみを集めて、それを焼却するための施設にもっていくのが仕事だ。最近は、まだまだ使えそうじゃないかと思われるものが、たくさん捨てられていく。捨てるんじゃなくて、何か新しい方法はないかと思うのに、なんでも捨てるしか解決方法もないと思われる時代になっているのだ。
なんでも、捨てるか使うかしか選択肢がなくなりつつあるな、代理になるものなんて、いろいろあるんだな、だから一度不要になると捨てるしかないのか、何て義男は思うのだが、そんな事を思ったって、世の中変わるわけでもないかと思いながら、義男は、仕事をつづけた。
そして、すべてのゴミ置き場を回って、焼却施設に送り届けると、義男の仕事が終わる。彼は、更衣室へ行って、制服を脱いで、私服に着替えるのだ。おい、寺さん、今日もいっぱい飲んでいきませんか、何て同僚が言うけれど、今日は、大事な用事があるからと言って、義男はそれを断った。
「なんでですか。ははあ、デートか。」
同僚たちは、すぐそういうことを言った。なんで、そういうことをいうんだ、みんな娯楽と言えば恋愛しかないのかなと思いながら義男は、
「いや、違います。」
と一言だけ言って、さっさと私服に着替えて、施設を出た。ほかの人たちは、きっと寺さん女なんていないんだから、一人で、お酒でも飲んでいるんじゃないの、何て言い合っていたけれど、義男はそんなことは気にしないで、さっさと事務所を後にした。
義男が行くところは、マーシーこと高野正志先生の家、兼ピアノのレッスン場である。確かレッスン時間は、18時とお願いしてある。到着したのは、その五分前であった。こんばんはと言って、マーシーの家に入った。レッスン室にどんどん入ってもいいことになっていたので、義男は、何も断りもなく、レッスン室に入る。レッスン室では、小さな女の子が、お母さんと一緒に来ていた。女の子は一生懸命エリーゼのためにを弾いていた。
「はい、お時間が来たのでおしまいにしましょう。来週も、同じ曲をやってきてくださいね。」
とマーシーが言うと、
「先生、ありがとうございました。あの、あたしがコンクールに出れるのは、いつなんですか?」
女の子は、子供らしくそういうことを言った。
「ああ、あなたはまだ幼稚園ですから、コンクールに出るには小学校へ入ってからですね。ちょうど、来年になるのかな。」
と、マーシーが言った。そうか、今は幼稚園児でも、できる子はエリーゼのためにを弾いてしまう時代かと義男は思った。自分のころは、ピアノなんて、男は習ってはいけないと言われていたのに。
「じゃあ、来年っていうときが着たら、私もコンクールに出られますか?」
と、女の子が聞くと、お母さんが、そんな失礼な質問をしちゃだめよ、と彼女を注意した。
「いいえ、大丈夫ですよ。それは、あなたの頑張り次第かな。お母さんと一緒に、手伝ってもらいながら、頑張って、ピアノを続けて行ってください。」
とマーシーはにこやかに言った。
「はい、わかりました。ありがとうございます。先生。」
と、女の子は言って、椅子から降り、深々と礼をした。お母さんはすぐに次のレッスンは、来週の火曜日にお願いしますといった。マーシーのピアノ教室は、すべて予約制になっている。月謝性を希望する人もいるが、それは公平ではないからと言って、すべて予約でレッスンの日付を決めているのだ。
「わかりました、来週の火曜日。時間は、五時からでよろしかったですか?」
とマーシーがいう。レッスン時間は、一時間近くかかる。大体のピアノ教室は、30分位のレッスン時間をとっているが、マーシーのピアノ教室ではその倍近くの一時間はレッスンを行う。そういうところが、ほかのピアノ教室とは違うかもしれない。
「はい、五時からで結構です。ちょっと仕事がありますので、遅くなるかもしれませんが、よろしくお願いします。」
とお母さんが言うと、マーシーは、手帳に予定時間を書き込んだ。そして、お母さんたちは、マーシーにレッスン料を渡し、ありがとうございましたと深々と頭を下げて、レッスン室を出ていった。
「じゃあ、寺田義男さん。レッスンを始めましょう。」
「よろしくお願いします。」
と、義男は、マーシーに頭を下げた。そして、ピアノの前に座る。マーシーが、じゃあ、今日の課題曲はというと、義男はすぐに、はい、シューベルトのソナタ七番ですと言った。すぐに楽譜を譜面台において、弾き始めた。この曲はシューベルトらしくない、古典的な響きを持っているのが特徴だった。さほど華やかさはないけれど、かわいらしさもある曲である。義男の演奏技術は抜群だ。彼は、以前フォーレのワルツ・カプリスとか、そういうものを、弾いてきた過去があるからだ。
「なかなかよく練習されているじゃないですか。」
と、マーシーは、にこやかに言った。
「ええ、家に帰ると、それ以外することもありませんから。それに、誰か付き合っている女性がいるわけでもないし、最近はテレビを見ても何も面白い番組もやってないですし。だから自動的にピアノに向かいたくなるわけですよ。」
と、義男は、そうマーシーに言う。
「そうですか。偉いですね。その気持ち、ここだけで表現するのでは、一寸もったいないですよね。」
とマーシーはそう言いだした。義男は、何だろうと思った。
「ええ、だから、コンクールです。今度富士市民文化会館で行われる、ピアノコンクールに出場するんですよ。強制ではありませんが、僕はなるべくなら、ここで終わるのではなく、どこか外の世界で発揮してほしいんですよね。どうでしょう、コンクールに出場してみませんか。別に順位をとろうというわけではなくたっていいんです。ただ、人前に出て、演奏することと、外部のひとに聞いてもらって、寸評をもらうという事にトライするんですよ。」
「そうですか、僕にはそんなことはできません。だって、コンクールに出るような人たちは、皆音大を出ているとか、そういうすごい人たちでしょうに。」
マーシーがそういうと、義男はそういって断ったが、
「いいえ、そういうことじゃありません。コンクールは、音大生だけのためにあるものではありませんからね。そうじゃなくて、音大生以外のひとを狙ったコンクールもあるんです。例えば高齢者を対象にしたコンクールもありますし、小学生を中心としたコンクールもあります。その中で、社会人を対象にしたコンクールもあるんです。だから、それに出場するんですよ。あなたは、けっしてピアノが下手ということはないのですから、コンクールに出場する資格は十分あります。どうでしょう、一度、出てみませんか。」
と、マーシーは、そう説明した。何だか、それはもしかしたらマーシーが優秀指導者賞でも狙っているのかと疑ってしまう人もいるようだが、マーシーは、そういうことを企んでいる様子でもなかった。
「そうですか。僕見たいなものが、コンクールに出てもいいんでしょうか。僕は、ただのゴミ収集業ですよ。」
と、義男はそれを心配したが、
「ええ、大丈夫です。コンクールでは、職業が放送されることはありませんから、職業がばれるということはありません。」
と、マーシーは、彼を安心させた。
「そうですか。まあ、今の仕事をずっと続けていくだけで、何も変わり映えのない毎日ですし、出てみようかな。」
と、義男はなるほどと頷きながら言った。
「良かった。これが、出場申込書です。曲は、この曲、シューベルトのソナタ七番でかまわないですから、この出場申込書に名前と住所などを書いて、郵送してください。」
と、マーシーは、義男に、コンクールの開催要項と、出場申込書を渡した。義男はわかりましたと言って、それを受け取った。
その日のレッスンは、いつもと変わらず終わった。終わった後、義男は、マーシーにレッスン料を払って、家に帰った。家に帰ると、すぐにコンクールの出場要綱を読んで、大体の内容は理解した。そして、出場申込書に、自分の名前と住所を書き込んだ。そして、演奏曲の名前と、作曲者名を書いて、それをはさみで切り、封筒に入れて、切手を貼った。
翌日の朝、義男は出勤する途中、その封筒を郵便ポストに入れて提出した。それ以外、特に変わったことはなく、いつもと同じように、ゴミ集めの仕事をする。そして、家に帰って電子ピアノでピアノの練習をするのだった。それは毎日変わらなかった。いつもと同じであった。
其れから、一週間後、コンクールの主催者から、出場申し込みが受理されたという手紙が届いた。彼のエントリーナンバーは、9番だ。何て縁起の悪い数字だろうと思う方もいると思われるが、そういうエントリーナンバーをもらったんだから、その通りに出なければならない。曲は、シューベルトのソナタ七番が受理された。重複することはお許しくださいと書かれていた。
そして、何回かレッスンを受けて、いよいよコンクール本番の日が来た。とりあえず開幕までには会場にいなければならない。義男は、一人で会場に言った。マーシーの言う通り、音大生のような風貌をしている人はいなかったけれど、みんなそれぞれ楽譜をもって、重々しい顔をして客席に座っている客席の真ん中には、審査員が五人いた。みんなすごい人だろうなと思われる格好をしていた。
「それでは、演奏を始めます。まず初めに、エントリーナンバー一番、、、。」
とアナウンサーがそういって、エントリーナンバー一番のひとから演奏を開始した。みんな、社会偉人と言っても、それなりに、演奏技術がある人たちで、中にはピアニスト顔負けの人もいる。曲目はショパンのバラードとか、ベートーベンのソナタとか、そういう大曲難曲ばかりであった。自分なんて、とてもつまらない曲を弾いているのではないかと思ってしまったほどだ。
「それでは、エントリーナンバー9番、寺田義男さん、曲目は、シューベルト作曲、ソナタ第七番変ホ長調より第一楽章です。」
と、アナウンスが流れて、義男はステージに上がった。そして、客や審査員に向かって一礼し、静かにピアノの前に座って、静かにソナタ七番を弾き始める。審査員たちの反応だって、普通のひとと変わらない。ただ、マーシーは、賞をとるとかそういうことを目標にしなくてもいいといった。ただ、ステージに出て、自分以外のひとにも演奏を聴いてもらって、それをどう評価してもらうかを考えればいいというだけだった。だから、緊張も何もほとんどしなかった。いつもと変わらず、一人でシューベルトのソナタ七番を弾く。しっかりと彼は、第一楽章の最後の最後まで、弾き切ったのであった。演奏をし終えると、客席での聴衆は、ほかのひとと変わらないくらいの音量で拍手をした。審査員たちも、彼の演奏を聞いて、採点用紙に点数を書き込んだ。義男は、ぺこりとお辞儀をし、また客席へ戻っていった。そのあと、三人の男女が演奏したが、ぱっとした演奏をした人はなかった。12番目のひとが演奏して、コンクールは終了した。
審査員たちが書いた採点表は、コンクールのスタッフが、コピーしてくれて、それを演奏者に封筒に入れて渡すことになっている。義男も、採点表をもらった。五枚入っていたが、その五枚の採点表は大体が90点以上を超えている。寸評には、音量のバランスもいいし、必要な音楽要素もできているので是非、これからも音楽をやっていってくださいというような内容が書かれていた。義男は、まあ、自分の演奏などこんなもんかと思いながら、はあとため息をついて、椅子から立ち上がった。
そうこうしているうちに、結果発表の時間になった。結果発表は、ホール内の掲示板に貼られることになっている。12人のエントリー者の中から、3人の入賞者が、本選へ出場することができるようになっている。まあ、自分が本選に出られるとは到底思っていないが、一応誰が出たのかだけは、見ておこうと思って、寺田義男は、掲示板のほうへ行った。
そこには本選出場者と書かれた紙が書かれていて、三人の人物の名前が書かれている。名前は、斎藤雅恵、山口哲夫、そして寺田義男の三名であった。まさか自分の名前が、書かれているとは思わなかったので、義男は思わず、持っていた鞄を落としてしまった。
「本選出場おめでとうございます。」
と、隣にいた堂々とした雰囲気の女性が、義男に声をかけた。
「あなたのシューベルトは、素晴らしい演奏でした。本選でも一生懸命演奏してください。今度は、全国から予選を勝ち抜いた人が演奏するわけですから、一寸大変かもしれないけど、あなたなら、ちゃんとできます。」
そういう女性は多分、審査員の一人だと思われた。義男は、はい、ありがとうございます、とだけ言って、そそくさと自宅へ帰ろうと思った。義男は、どうせ自分を祝ってくれる人なんていないんだからすぐに帰ろうと思った。そして、ホールを出て、入り口から駐車場に向かって歩いていこうとした。
ところが。
「あの、すみません。」
と、先ほどの女性とはまた違う、もっと若い女性の声で、義男は呼び止められる。
「はい、何でしょうか。」
と、義男が振り向くと、30歳前後の若い女性が立っている。
「あの、寺田義男さんですね。」
と、自分の名前を呼ばれて義男は少し怖くなった。
「私、斎藤雅恵です。先ほど、コンクールで本選出場者に名前が載ったものです。」
と、彼女は言った。
「ああ、ショパンのバラードを弾かれた方ですね。」
と、義男はそういっておく。
「あの、お願いがあるんですが。」
と、雅恵さんに言われて、義男は、はあ何でしょうかと尋ねた。
「あの、このお金、全部差し上げますから、本選に出るのを棄権していただけませんか。」
雅恵さんはそういうことを言った。
「なんでですか。」
とりあえず義男はそういってみる。さすがにこんなお願いをされるのは、おかしいと思ったので。
「なんで、本選に出るのを棄権してほしいなんて。」
「ええ、本当に身勝手なことをしているのはわかるんですが、私、どうしても今回このコンクールで賞をとらないとだめで、それをしないと、もう二度とピアノを弾くことはできないと思いますから。」
と、義男がそういうと、彼女は言った。
「もう弾くことはできないって?」
「ええ、私は、今まで、精神疾患で療養していました。けれども、今年父が亡くなって、もう働かなければならなくなりました。だから、もうピアノとはサヨナラしなくちゃいけません。それに、私に指導してくれたピアノの先生も、もう終わりになってしまうし。私、完全に音楽の世界からさようならしなきゃいけないんです。私ができる仕事と言えば、もう体を売る事とかそういうことしかできないと思います。だって、学生時代に病気になって、何も社会経験してこなかった人に、与えられる仕事なんてないのは、よく知っていますから。昔だったら、遊郭に身を売るとか、そういうことしかできないと思います。だから、そういう生活に身を落とす前に一度コンクールでちゃんとした舞台で演奏してから終わりにしようと思って、私は今回このコンクールに参加しました。お願いです。私に、最後の花道を下さい。」
義男がそういうと、彼女は頭を下げてそう早口に言った。つまりこれが成立すると、八百長ということになるが、義男に比べると、服装や髪形から、はるかに経済力のある家のひとだと思われた。でも、これからきっと没落していく家と一緒に、体を売る商売をして、自分をやっていくしかなくなっていくのだろう。
「本当は、音楽学校に行って、ちゃんと音楽を学ぶべきだったんです。それが、ピアノの先生と、衝突してしまって、私は精神がおかしくなってしまって。それで、学校に進むことができないまま、家に引きこもるようになってしまいました。親が生きているうちはそれでもよかったんですけど、今は、父がいないから、私は何とか自分で生きていかなきゃいけません。母は、余生を施設で送ると言っていますし、私は、もう親にはさんざんお世話になってしまって、親を苦労させた悪い奴と親戚から助けてもらうこともできないから、私は、娼婦に身を落とすつもりです。それは正しい生き方をしてこなかった私への罰なんでしょう。最後に、私が、一応この世にいたということを残すために、寺田さんに本選を棄権していただきたいんです。」
そういう彼女は、まだ精神疾患から回復しきれていないのだという雰囲気を感じさせた。義男は、彼女のいうことに嘘はないなとおもった。そういう疾患を持っている人は、真実に向き合いたくてもできない人が多い。中にはあまりにも、その現実に耐えられず、死を選んでしまう人のほうが圧倒的に多い。彼女は、たとえ悪い商売に落ちることになっても生きようとしているところを、義男は評価してやってもいいのではないかと思った。
「わかりました。じゃあ、あなたの言う通りにしますから。僕もどうせ、ただのゴミ集めの仕事をしているさえない男です。別に本選に出なくたってどうってことありません。あなたのほうが、本選に出る価値はよほどあります。了解しましたよ。その通りにしましょう。」
義男は、そういって、斎藤雅恵さんに微笑みかけた。多分社会的にも家族的にもいらない存在とみなされている彼女には、そうしてやるのが一番ではないかと思ったのであった。
譲ったもの 増田朋美 @masubuchi4996
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