第12話 自分を殺した話 前編
倉吉モモコ、十六歳。高校二年になったばかり。一年生から引き続き風紀委員。
高校の女子トイレ。
モモコは個室から出てくると、手を洗う。
ふと、鏡にうつる自分の姿が見えた。
冴えない顔。
もう少し、楽しそうにすればいいのに。
ゆっくりと、ハミング、口ずさむ。
曲はアイルランドの民謡『サリーガーデン』だ。
ゆっくりとした、流れるような曲調。
歌い終わっても、ため息しか出てこない。
「どうしたの?」
突然、横から声がした。
いつの間にか、横にクラスメイトの長尾テナがいた。
「長尾さん、私になにか用?」
正直なところ、モモコは長尾さんが少々苦手だった。
授業中はよく寝ているし、提出物は提出すればいいほうで未提出なことも多い。当然先生にはしょっちゅう怒られているが、反省の様子はまるでない。
真面目さが正しさ、真面目さが人間の価値、というくらいの心情で生きてきたモモコにはとても理解の及ばない相手だ。
「なんだかさ、ショゲた顔してたから、どうしたのかなって思ってさ」
「別に、なんでも……」
テナはポンポンとモモコの肩を叩いた。
「ま、悩んでることがあるなら、抱え込まない方がいいと思うよ。私でよかったら聞くからさ」
テナはそういって、個室に入り鍵をかけた。
「上手いね。聞いてて気持ちよかった」
個室の中から、声だけ聞こえた。
聞かれてモモコはうつむく。
「ありがと」
モモコは小さな声でいった。
恥ずかしいけど、ちょっとだけ嬉しかった。
トイレを出てすぐのことだ。
「あー、モモコちゃーん」
甘ったるい声がした。
小走りでむかってくるのは、同級生の女子生徒だった。
彼女はクラスは違うが、同じ部活、ケルト音楽部に入っているので面識がある。ちなみにモモコは部内ではアイリッシュフルートを担当している。
ケルト音楽部は校内屈指の弱小部活で、一人だけいる(らしい)三年生の先輩は一度も部室に来たことがなく、顔すら知らない。
結果、二年生のモモコが部長を務めている。
「どうしたの?」
モモコが尋ねると、女子生徒は「あのねぇ」といいながら首をかしげる。
最初はわざとやっているのかと思ったけど、どうやらこれが素のようだ。もう慣れた。
「あのさぁ、今度、公民館に演奏しにいくやつだけどさぁ」
部活動の一環として、公民館で演奏会をすることになったのだ。
そろそろ、みんな集めて打合せしないといけないと思うんだけどぉ」
女子生徒はのんびりとした口調でいった。
モモコはため息をつきたくなったが、我慢した。
「この前、ラインで送ったけど。今日、打合せしようって」
女子生徒はゆっくりとした動きで、スマートフォンを取り出して、画面を見る。
「あ、ホントだー。モモコちゃんから連絡きてたぁ」
モモコがメッセージを送ったのは、ちょうど一週間前のことである。
「私、スマフォってあんまり見ないから、気がつかなかったぁ。今度から直接いってくれると、嬉しいな」
いやいやいや。以前、別の連絡事項を口頭で伝えたときは、次の日には内容を忘れていて、今度からラインで送ってほしいっていっていたじゃないか。
「まあ、そういうことで、今日の放課後、打合せするから」
「はぁい」
そこで、女子生徒と別れた。
決して彼女のことが嫌いではないし、知り合いの中では頼りになる方だ。
だけど、物事がスムーズに進まないのは事実だ。
我慢していたため息が出た。
昼休み、モモコは五百円玉一枚を握りしめて、購買部へやってきた。
普段、モモコは購買部を利用することはない。昼食は母が弁当をつくってくれる。
今日は、朝から姉が調子が悪いといいだした。
だから、今日はお弁当は無し。
時々、こういうことがある。姉が体調不良を訴えると、モモコのお弁当が無くなる。
「あれ? モモコじゃーん。浮かない顔してどうしたの?」
声がした。テナだった。その横には同じくクラスメートの長野シナノだ。
「別に。昼を買いにきただけ」
モモコは短くそういった。
「あの、倉吉さんって、購買部でお昼にするとき、ちょっと淋しそうだよね。なにかあるの?」
シナノがいった。
モモコは驚いた。確かに、シナノは一年生生も二年生も同じクラスだったけど、ほとんど会話はなかった。なのに、シナノはモモコが購買部を利用するとき、不機嫌なことを見抜いていたのだ。
「そうかな? 普段通りのつもりだけど」
モモコはまたつくった笑顔でそういった。
「まあ、なんだったらさ、一緒にご飯食べない?」
テナがいったが、モモコは首を横に振った。
「ごめんなさい。私、ちょっと……」
モモコは手早くアンパンを買うと、その場を去った。
こうしてやって来たのは、中庭のベンチだった。
大半の生徒は自分の教室で昼食をとるから、ここに来るヒトは少ない。
ビニールの袋を破って、アンパンを食べる。
モソモソと食べる。
お母さんは、決して料理上手ではない。でも、食べたかったな。お弁当。
どうして、泣きそうになっているんだろう。
部室にいこうとしたら、スマートフォンにラインのメッセージが入っていた。
母からだった。
『姉ちゃんを病院へ連れていきます。はやく帰ってきてください』
モモコは返信画面で『う』と入力した。予測で『うん、わかった』と出てくるので、それを送信した。
『ごめんなさい。急用ができました。今日は行けません』
部活のグループラインにそう送った。
それから部活を休んで、家に帰ってきた。
公民館の合奏を控えているのに、部長が休んだ。今頃、部員から何かいわれているかもしれない。
学校の最寄駅からJRで数駅。鳥取駅で降りて、十数分歩いたところ、十四階建てのマンションの五階がモモコの自宅だ。
帰ってきた。帰ってきてしまった。
教科書やノートに比べれば微々たる重さなのに、鞄に入れたアイリッシュフルートの重さを感じる。
小学生の時におこずかいやお年玉を貯めて買った。
当初は吹き方自体よくわかっていなかったことに加え、指が短い、肺活量が足りないなど、身体的な事情もあって、まともに演奏できたものではなかったが、練習を重ね、体も大きくなり、少しずつ“音”は“音楽”に変化していった。
これを演奏している間だけは、どれほど嫌なことも忘れることができた。
「ただいま」
玄関のドアを開く。
マンションでは、アイリッシュフルートを吹くことはできない。本当は、学校で下校時間ぎりぎりまで吹いていたかった。
「あ、モモコ。お帰り。お姉ちゃん病院に連れていくから、お留守番おお願いね。病院が混んでたら帰りが遅くなるから、晩ご飯、勝手に食べてて。お留守番よろしくね」
お母さんは、そういってあわただしく出ていった。姉と一緒に。
「うん。いってらっしゃい」
ドアが、パタンと閉った。
まわるCD。音楽が流れる。
曲は『埴生の宿』だ。
映画『ビルマの竪琴』や『蛍の墓』で日本語の歌詞がついたものが使われたが、今流れているのは、ギターとフルートの演奏による曲だけのものだ。
この曲は元々、イングランドの民謡で『Home! Sweet! Home!』というのが原題で『楽しき我が家』という訳題もある。
楽しき我が家。
まったく、皮肉なものだ。
日が暮れるまでに宿題を終わらせた。
モモコは、家の鍵を持たせてもらってはいない。
もう高校生なのだから、持たせてくれてもいいのに、と思うのだけど、お母さんは無くすといけないから、の一点張りだ。
鍵がないのだから、出掛けることもできない。
晩ご飯、勝手に食べててといわれた。一から料理をつくるのは面倒だから、戸棚で見つけたカップラーメンにお湯を入れる。
お母さんのごはん、食べたかったな。カップラーメンよりはおいしいはずだ。
完成まで三分。
ふと、窓の外を見ると、洗濯物が干されたままになっていた。
取り込まなきゃ。
モモコはベランダに出た。
日が暮れた町並み。
街灯りを見おろすマンションの五階。風が吹き抜ける。
もしも、ここから飛び立つことが出来たら、きっと心は晴れるんだろうな。突然、頭にそんな考えがよぎった。
いや。モモコは鳥ではないから飛び立つことはできない。地面へ落ちるだけだ。
でも、仮に地面に落ちても、楽になれるかもしれない。
学校のことも、家族のことも、全部、全部いっぺんに解決して、自由になれる。その手段が、目の前に、あった。
いやいや、なにをバカなことを考えているんだ。
頭を振って、自分の思い付きを否定する。
そのとき、突風が吹いた。
バランスを崩すモモコ。
そして……。
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