5-7
真っ先に動き出したのは、三つ首の獣だった。ヘビの頭がシューッと空気の漏れるような鳴き声を上げたかと思うと、
「ガアァッ!」
犬の首が一声吠えて鍋島さんに飛びかかった。鍋島さんは大きく横に動いて避ける。獣と私を隔てるものが無くなった。そのタイミングで、あらかじめ持って置いたお札を投げた。
「グゥッ……シャァァァ!」
「……くっ!」
しかし。怯んだかに見えた獣はヘビの一鳴きで体勢を立て直していた。獣は毛に覆われた太い腕を振り回した。杖を振りかぶっていた鍋島さんがとっさに体の前で杖を構えなおす。直撃はそれで回避できたらしいが衝撃で鍋島さんは吹っ飛ばされた。
鍋島さんをあしらった獣は、次に私の方を見た。その時にはもう次のお札をケースから引き抜いていた。記された名は
お札は前にはほとんど飛ばず、すぐに地に落ちた。そしてお札が地に落ちると、猛烈な勢いで水が噴き出した。実体の水ではない、魔素でできた幻の水は膝の上程まであっという間に上がってきた。魔素の水は獣素の働きを抑え、獣の動きを鈍らせた。
「シィィ……グルルル……」
獣が唸りながらも距離を詰めてくる。が、その速度は庭に飛び出してきた時よりも格段に遅かった。正面に見据えたまま後ろ歩きで距離を取りつつ、バッグの中に手を突っ込んでそこにあった物を掴む。獣が攻撃に移った時のためだったけれど、その必要は無くなった。鍋島さんが獣の横っ腹から飛びかかり、下から思い切り犬の首目がけて仕込み杖を振り抜いていた。獣も鍋島さんの動きに気付いていたようだったけれど、鍋島さんの動きの方が早かった。
「ギャアァッ!」
叫びが上がる。犬の首が下から上へと切り裂かれていた。傷口からは黒い獣素が溢れ出す。――けれど。
「ガフッ、フウウゥ……ウオオオッ!」
傷が浅かったらしい。犬の首はまだ生きていた。首を揺り動かし、その勢いのまま鍋島さんに噛みつく。
「鍋島さんっ!」
とっさに鍋島さんの腕を掴んで引っ張る。踏み込み、剣を振り上げた体勢では回避のしようが無い――なんてことをきっちりと考えていたわけではない、とっさの動きだった。もしかしたら鍋島さんの動きを邪魔したかもしれないが、ともかく噛みつく犬首からは逃れられた。
「犬の首を潰します! 明星さんは獣の攻撃を潰してください!」
叫びながら鍋島さんが再び獣に突っ込む。どうやって攻撃を潰すかなんて指示は無い、自分で考える――いや、前から想定していた事態に合わせて作っておいたお札を、ほぼ直感に近い形で運用するしか無い。
「さあ、こっちだ!」
見せつけるように鍋島さんは、獣に杖を突きつける。直後、犬の首が一声吠えて右腕を振り下ろした。ぐちゃっと音を立てて、毛に覆われた手がぬかるんだ地面を叩く。鍋島さんは攻撃を軽く飛んで避け、獣の右半身に回り込み、仕込み杖を振り抜いた。ドスリ、という湿り気を帯びたような重い音が空気を不快に揺らした。
「ギャアアァァッ!」
犬首が悲鳴を上げる。それは断末魔の悲鳴だった。しかし、痛みの感覚を共有していないのか、獣は動きを止めない。動き出す直前にお札を投げる。朱の墨で記された文字は
「……鍋島さん?」
目を離した瞬間、鍋島さんの姿を見失った。その姿を再び認識する前に、爆炎が晴れて見えるようになった獣の胸部から、鋭い刃が生えているのが見えた。背後に回った鍋島さんが、獣の心臓を貫いたのだ。
だが、獣は心臓を貫かれたというのに動きを止めなかった。
胸元から刃を覗かせたまま、獣は身を捩って腕を振り回した。その勢いに乗って鍋島さんは距離を取ったらしい。獣から少し離れたところに飛び退き着地するのが見えた。
見ている場合じゃない。
「グッ……ゲッゲッ……」
鍋島さんを振りほどいた獣が、カエルのような鳴き声を上げて急にこっちに走り出した。攻撃を見てから避けるなんて芸当はできない。というか、振り下ろされる腕を見つめ続ける根性も無い。獣の腕が届くくらいの距離で、全力で獣の首があった右半身の方へと飛んだ。ぶうん! と頭上で風を切る音がした。バッグに手を突っ込む。もう次を避けている暇は無い。そこにあった物を、さっき使いかけたそれを両手でひっ掴んで体の前に突き出し、全力で魔素を注ぎ込む。
バァン!
まるで銅鑼を打ち鳴らしたような音が響いた。鼓膜が、いや、全身がビリビリと震えたような感覚に遅れて、目が現状を認識する。体の前に突き出された自分の手と、その手が持っている八角形の鏡。
魔素を込めた八卦鏡は、獣に対する強力な盾だ。魔素を込め続けなければただの鏡でしか無いのが難点で、集中しすぎると身動きが取れなくなる――というのは単に私が未熟なだけなんだけど。ともかく、獣を弾き飛ばせる程に強い魔素を込められたのは不幸中の幸いだ。鏡を持ったまま体を起こし、獣が体勢を立て直す間にできるだけ距離を離す。
自分からすれば、それらは一瞬の間に起きたことだった。けれどその間に鍋島さんは体勢を整えて攻勢に転じていた。
「明星さん、無事ですか!?」
鍋島さんが私に声をかけつつ、獣にまた斬りかかる。牽制のためなのだろう、獣の眼前を払うように杖を振るっている。
「大丈夫です!」
叫んだつもりだったが、荒く乱れた息と一緒に吐き出された声は震えていた。運動不足? いや、八卦鏡に魔素を込めすぎたらしい。獣を弾いた瞬間、込めると言うより吸い出されるような感じになっていた。それだけあの獣の獣素がおびただしいということだろう。容量が多いとはいえ一気に消費すると反動が来るらしかった。
立ち上がり、鏡をしまって再び銀のケースを取り出す。八卦鏡のもう一つの難点だった。手が塞がるから、他の対獣道具と併用しにくい。鍋島さんの支援を考えると防御に時間を割く暇は無い。極力使わずに立ち回るしかない――いまはともかく、打撃を与えるしかない。心臓、獣の核となるだろう部分を潰して動けるのは、獣素が満ちているからだ。外部から魔素をぶつけて散らし、力を弱めてから必殺の一撃を鍋島さんが叩き込むしか無い。
「鍋島さん! トヨタマ投げます!」
「……! 了解です!」
獣の注意を引き付けていた鍋島さんが一歩、二歩と後ろに飛ぶ。距離が開いたところに一枚のお札を投げ込んだ。トヨタマ――
次の瞬間、巨大な、二股に大きく裂けた口が魔素の水の中から現れた。その姿はワニもサメともつかない、どちらとも言えるような形をしていた。輪郭すらも曖昧だ。鈍く、深海のような青黒い色をした半透明の
「グェッ……!」
短い悲鳴を獣が上げた。左腕とワニの頭の半分ほどが魔素に食いちぎられ、断面からは獣素の黒い粒子が噴き出していた。効果は強烈だが、万全の力を発揮するには水場が必要になる。いまは魔素の海を作りだしてるおかげで、その力は引き出せているはずだった。
しかし、致命傷にはならない。鍋島さんに気を取られてはいたがそれでも、獣は一瞬のうちに身を捩って直撃を避けた様子だった。
だが、腕を失った痛みによって生じた怯みは、鍋島さんにとっては大きすぎる隙だった。
正面からぶつかるように心臓を貫く。深々と突き立てられた刃に、獣は声にならない断末魔を上げるように口を大きく開く。身体が硬直し、その目は愕然としたように宙を見上げ――。
――そしてぎょろりと、自らを貫く鍋島さんを睨み付けた。
「鍋島さん、危ない!」
叫ぶまでも無い。鍋島さんは仕込み杖を抜きながら距離を取っていた。そこに火之迦具土神のお札を投げつけるのと、獣の残った右腕が振り回されるのはほぼ同時だった。右腕は空を切り、爆炎が獣のヘビに似た顔の先で炸裂する。
だが、獣はもう怯まなかった。強い憎しみに満ちた黄色い目が、炎に赤々と照らされているのが見えた。
怒りだ。あの獣は、自分の邪魔をする、自分の意のままにならない者を激しく憎んでいる――意識が流れ込んできている! 慌てて我に返る。感情の奔流が自分の目を通して血管に流れ、全身を巡ったような錯覚があった。ぞっとするような感覚。いまのが映るという現象? いいや、そんなこといまは気にしてられない。
もう一枚、今度は建御雷命の札を投げる。手傷を負わされ、獣素が離散したいまなら通じるかもしれない。効かなくなった火之迦具土神のお札を投げるぐらいならそっちに賭けるしかない。効果が現れるほんの一秒二秒の間に、鍋島さんと獣は攻防を繰り広げる。獣が勢いに任せて突進し、右腕を振るう。赤い血が宙に散るのが見えた。量は多くない、鍋島さんは無事のはずだと自分に言い聞かせながら次の手を考える。建御雷命のお札は確かに効果を発揮したが、隙を作るには不十分だった。足は止められたが、獣はあらん限りの力で、残された右腕を闇雲に振り回している。鍋島さんも迂闊には近づけない様子だった。
それはまるで、最後の力を振り絞っているように見えた。そうだ、二度も三度も、鍋島さんの攻撃をもろに食らって立ってられるはずがない。――もはや願望に近い考えだったが、次で決まることを祈って、あの獣の動きに隙を作る作戦を考え……動く。
銀のケースから一枚、取り出したのは
このお札でやれることは限られる。お札に追加の魔素を叩き込んで投げる? けれど、どの程度の効果が発揮できるか、経験が少ないせいでどれも未知数だ。事前にどこまでのことができるのか聞いておけば、もっと良い立ち回りができたのかもしれない。そんなことすら私はできなかったのだ。だから、さっき経験した中で、結果を予測できるものを使うしかない。
一番獣に打撃を与え、隙を作れたもの。それは――
「明星さん……!? いけません、無茶だ!」
叫ぶ鍋島さんの声を聞きながら、前へ、獣へと向けて走る。無茶でもやるしか無い。勝算はあったし、あてが外れて死んでもまあ、それはそれでという話だ。激戦の中で死ぬのなら、それは自殺じゃなくて必然だとか、そんな卑怯なことを元から考えて獣祓い師になったのだ。――死なないだろうという勝算あるのにそんなことを考えるのは、ただの言い訳なような気もした。
どっちでもいい。考えている余裕はすぐに吹っ飛ぶ。獣の姿が迫り、浮き足立つような焦るような気持ちが生まれる。鞄に手を突っ込み、八卦鏡を掴む。意識を、特に右手に集中させる。右手の手の平に心臓ができたような脈動を覚えた。瞬間、気が遠くなるような、貧血を起こしたようなめまいを覚えながらも足に力を込めて、獣の前に立ち、鏡を掲げる。獣が私を見た。煮え立つような憎悪に目を輝かせ、獣が右腕を振り下ろした。
途端、八卦鏡がその効果を発揮した。
天照大御神のお札を通じて膨大な量の魔素を得た八卦鏡は、先ほどよりも遙かに強い穢れを弾く力を生んだ。穢れ――獣素を跳ね返すその力は、振り下ろされた獣の右腕の勢いを数倍にして跳ね返した。衝撃は右腕のみならず、獣をも吹き飛ばした。
ドスン! という音が聞こえた。
かと思うと、同時に私も吹っ飛んでいた。当たり前だ、獣を吹っ飛ばすような衝撃が生まれたのなら、その反動で私も吹っ飛ぶ。とっさに頭をかばったものの、地面に体を二度、三度と打ち付けた挙げ句にごろごろと転がる。全身、息が詰まるような痛みを発している。それでもどうにかうつ伏せの体勢になり、顔を上げた。
鍋島さんと獣が見えた。
獣は壁を背に押し付けており、その獣の胸目がけて、鍋島さんは仕込み杖を手にした右腕を突き出していた。状況からして、どうやら獣は壁に叩き付けられたらしい。無防備になった獣に、鍋島さんはついに、致命傷を与えたのだ。
獣の形が崩れる。魔素がどろりと溶け出し、魔素の海に沈んでいく。それを見届けてから、仰向けに転がった。うつ伏せの体勢から身を起こすのがしんどかった。
仰いだ空から、獣素で編まれた縄張りが消えていく。空は青い。長い死闘のように感じていたけれど、あの獣とあって戦った時間は、一時間どころか三十分にも満たないだろう。少しだけ高く昇った空から降り注ぐ太陽の光が、秋に混じる残暑の熱をじわじわと上げていた。
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