5-6
獣を祓い一段落付いた形になったものの、ゆっくりしている時間は無かった。五枚の式神は相変わらず反応を示している。五体、あるいはそれ以上の数の獣がいるということだった。
「……獣の数、多いですね」
「近隣の住民の方が、犠牲になってしまったのでしょうね……」
やるせない、という表情で鍋島さんは顔をしかめている。いや、渋い顔をしているのは感情的なものだけが理由では無いだろう。獣の手によって切り裂かれた肩口の傷は、見るからに痛々しかった。一応止血を施し、包帯の上から宿星図が天然石のビーズで表された布を巻き付けてある。宿星は
命が芽吹く春を司る青龍は、人の命をも育む――とはいえ、あっという間に傷口が塞がるなんてことはない。あくまでも、現状では気休めぐらいの効果しかなかった。止血に役立ったのは包帯と、鍋島さんが持ってきていた皮膚を縫うためのものらしいステープラーぐらいだ。……皮膚を針でバチンバチンと留めるのだから、見ているこっちが痛くなってくる光景だった。
「ひとまず二体、祓いましたが……どうしましょう。やっぱり、後から来る獣祓い師を待った方が良いんでしょうか」
「……そうですね。明星さんは一旦椎名さんのところに下がって、後続の班と合流した方がいいかもしれません」
「え、鍋島さんはどうするんですか」
その言葉に鍋島さんは微笑んだ。作り笑いだとすぐに分かる、口元が引きつった下手くそな笑いだった。
「僕は行きます。いまは動きを見せていないとはいえ、強い獣素を放つ獣は放ってはおけません。獣素が強い、ということは、それだけ祓うことが難しい強力な獣だということですから……もし、他の獣と応戦している方々が襲われたとしたら、危険です」
「ああ、そういうことですか……じゃあ私も行きます」
「えっ」
何故驚かれるのか分からない。いや、鍋島さんとしては新人でしかない私を連れて行きたくはないのだろう。それが単に心配してなのか、それとも足手まといだと思っているのかは分からないけれど。本当ははっきりさせた方がいいのかもしれない。けれど、役に立たないと言われることが、いまさらになって嫌になった。
前の職場でも散々に、お前は使えないのだとにおわせるようことを言われた。期待されたかったわけじゃない。ただ、蔑まれるような目で見られない働きがしたかっただけだ。
「もしどうしようも無くなったら、二人して逃げるだけの時間は稼げると思います」
二人なら倒せる、そんな自分の実力を勘定しないおこがましいことは言えなかった。鍋島さんは、ふっと表情を緩めて「まいったな」と言った。参らせてしまった。
「僕はいままで、よく一人で戦ってきたんです。でも、それは自分に自信があったからじゃなくて……自信が無かったから、ずっと一人でいたんです。何と言ったらいいか……護れるかどうかという話ですらなくて、人の目があると、どうにも」
「期待させたり、失望されたりするの、鍋島さんも嫌ですか?」
鍋島さんがまた驚いて目を丸くする。けれど、驚きはすぐに引いたらしい。苦笑して頷く。
「……失礼ながら、前から、僕と明星さんは少し似ているところがあると思ってました」
「失礼じゃないです。私もです」
「ですねぇ……」
鍋島さんは一度、二度と深く頷く。そして、私に背を向けて、道の先を見た。
「この先が、連続殺人事件の容疑者が住んでいた、そして通報を受けた警察官が向かった家です。家の中だと戦いにくいので、一度外に引っ張り出したいと思います。……とはいえ、縄張りを上手く使われたら外にすら出られない可能性もあるので、狭い中を逃げ回らないといけなくなるかもしれませんね。明星さんは、いままで通りともかく距離を取ることに専念して、何かあったら退路を確保してください」
「分かりました」
それ以上の言葉は無かった。必要の無いものだった。
通りを真っ直ぐに抜ければ、一分ほどでその家の前にたどり着いた。モダンな外観をした、屋根の代わりに平面な屋上がある、白い外壁の家だ。周囲の家に比べて敷地が広く感じる。塀は高く、中の様子は窺えない。門は閉じられており、電気は点いておらず、物音もしない。ただの無人の家にも見えた。けれど、その家の上を、ヤタガラスの式神が旋回していた。
「二、三メートルぐらい……お互いの腕を伸ばしてもまだ距離が空く程度の距離感で付いてきてください。できれば、庭の方へ誘導できるといいのですが……こればかりは獣がどこにいるかによって立ち回りが変わりますね。ともかく、獣が動き出したら庭へ向かうよう動いてください」
こちらを振り返って言った鍋島さんに「はい」とだけ言って、頷く。返事を受けた鍋島さんは門を開いて、家の敷地へと入った。指示通りに距離を開けて中へと続く。
高い塀と家の間に広がる庭は広かった。芝や雑草は伸びていたが荒れた様子は無い。……しかし、ここが獣災の発生地だと見せつけるようなものがあった。門から玄関へと続く石のタイルの道に、赤茶色の染みが散っている。血溜まりの中には元は白かったのだろうシャツの切れっ端や車のものだろう鍵が落ちていた。出社してこない、と通報を入れた人のものだろう。
血の痕の前で鍋島さんが一度足を止め、両手を合わせて小さくお辞儀をした。私もそれにならう。死者をほんの少しの時間悼み、鍋島さんは玄関のドアを開いた。クリーム色の木のドアはすんなりと開いた。
家の中に入ると、また空気が変わった。
何かが腐ったような、すえたような臭いがする。血の臭いも混じっていた。自然と渋い顔になる、ともかく嫌な臭いだ。玄関から入ってすぐ、他の部屋や上階に繋がる階段しかない廊下には臭いの元となるようなものは無い。どこかの部屋から――と考えていると、ダウジングロッドを片手に構えた鍋島さんが、入って左手にあるドアを開けた。途端、むっとするような臭いが強くなる。
「……いますね。ここからだと頭部しか見えませんが……大きいな」
「部屋の構造って、どんな感じです?」
「広いですね。リビングとダイニングがたぶん一緒になってて……それで、キッチンシンクが地続きにある感じの……」
「アイランド型ってやつですか」
「ああそうだ、それです。その、シンクの向こう側にいる感じなんですよ。少し距離があります。これだけの距離があるなら……僕が獣を誘導します。明星さんは庭に通じる窓を開けて外に出てください」
鍋島さんがドアを開けて中に入る。続いて中に入ると、そこには広々としたリビングがあった。元は一家団欒の場だったのだろ。テーブルセットにテレビ、花瓶や皿が飾られているラック。どれもこれも、獣が居座っている場所とは思えないほどに整っている。
しかし、それでもここは獣の『巣』だった。
――獣は鍋島さんの言うとおり、キッチンシンクの向こう側にいた。うずくまって眠っているのだろうか、毛むくじゃらの背中がシンクの上からはみ出し、横からは犬に似た獣の頭部が見えていた。音を立てないように庭の方に面した窓へと歩み寄る。窓は床から天井付近まである大きなスライド式のものだった。白いカーテンを横に引いて鍵を開け、ゆっくりと窓を開け、それから鍋島さんの方を見つつ後ろに下がる。
鍋島さんが獣の正面に立った。
その次の瞬間、獣が唐突に立ち上がった。
丸まっていた背が伸び、頭が天井近くまで持ち上がる。その姿は、いままでの獣とは異質だった。獣はどれも見た目が違っていたが、いま目の前にいる獣は、いままでの獣とは一線を画していた。
「グルル……オオォォォォ……!」
唸り声が幾重にも重なって聞こえる。その獣は上半身に、三つの頭部を持っていた。先ほどまで見えていた犬の頭を右に、鱗に覆われたトカゲのような頭を左に。そして――ワニ、いやヘビだろうか? 大きく裂けた口を持つ、鱗も毛も無い頭部が、犬とトカゲの頭の間にあった。
獣は鍋島さんの方を見ていた。鍋島さんが後ろ下がると、じりじりとにじり寄って距離を詰める。キッチンシンクに隠れていた下半身が現れる。下半身は上半身に比べて脆弱に見えた。……だがしかし、その足は獣らしい俊敏さを発揮した。
三つ首の獣が走り出す。
私は窓から外に飛び出た。それから走って窓から距離を開け、バッグから銀のケースを引っ張り出して一枚お札を取り出す。その間に、周辺の空気がまた変化した。重くなった、と言っていいのだろうか。妙な圧迫感があり、息が詰まるようだ。空は暗く陰り、塀の向こうにある他の家の屋根が、奇妙に歪んで小さく見えた。試しに地面に落ちていた小石を拾って塀の向こうに放り投げてみると、何も無い空間に弾かれて塀の内側に落っこちてきた。――縄張りだ。どうにかして破らない限り逃げることもままならないだろう。
逃げる算段を頭の中で組み立てようとしたところで、鍋島さんが勢いよく窓から飛び出してきた。そして、それに続けて獣も現れる。
全員が無言だった。鍋島さんも、あれをしろこれをしろとはもう指示を飛ばしてこなかった。死闘の始まりは、とても静かだった。
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