5-5
獣が消え、後には衣類だけが残されている。一瞬の騒音が響いた通りはまた静寂に包まれていた。動くものは私と鍋島さんしかいない。鍋島さんは一つ息を吐くと、こちらを振り返った。
「この辺りに椎名さんがいるはずです。電話で連絡がつけばいいんですが――」
喋っている間に、通りに面した家の門が開いた。さっきまで獣が門を開けようとしていた、低い塀と高い生け垣に囲まれた家だった。身構えて数歩下がり、距離を取った鍋島さんの前に現れたのは、
「一葉! と、美夏ちゃんも。元気そうね」
「椎名さん……良かった、無事でしたか」
「私が無事じゃなかったら、封印が解けちゃうでしょー」
ごもっともなことを言って、椎名さんは鍋島さんの背中を一度叩く。それにしても……
「椎名さん……どうしてこの家の中から? もしかして、ご実家とかですか?」
「え? いや、全然知らない人の家だけど。どこでも良いからこの辺り一帯を結界で隔離できそうなポイントが必要でさー。でも、道の真ん中でやったら色々と都合がね?」
通行の邪魔になるからとか? と思いきや、椎名さんが言うには「家や囲いって、それだけで一種の結界なのよ」とのことだった。
「ともかく、内外をはっきりする境界になるものが欲しかったのよねー。この辺を全部封鎖して獣を出られなくするとなると、相当な量の魔素消費するでしょ? で、しかも魔素に獣は引っ張られる。自分の身を守る結界を張りつつ、そのコストは控えめにーって考えると、どうしても家を間借りするのが一番楽なわけよ」
椎名さんが軽く門のところを指差す。よく見ると、門にはしめ縄がかけてあった。なるほど、これで門を閉じれば、しめ縄が境界を明確に区切る役割を果たしてくれるっていうことなんだ。
「まーそういうことだから、私は平気ってわけ。ただ、いまはちょっと離れてるけど、やっぱ祭器を正常に稼働させ続けるとなるとつきっきりにならないといけない感じだから。後はもう二人に任せるしかないのよねー」
「分かっています。椎名さんは、ともかく結界の維持をお願いします」
「言われなくとも。ああ、そうそう。ここから西の地点には対獣課の獣祓い師が向かったよ。残った魔素でちょっと周囲の獣素を探ってみたけど、反応は西に集中してて、他には無い感じだね」
「西ですね。了解です。行きましょうか、明星さん」
「はい。椎名さん、お気を付けて」
「そっちこそね。ともかく生きて帰るの優先で、何かあったらここに逃げ込みなさい」
心強い限りだが、ここに逃げ込むような事態というのはよっぽどの緊急事態だろう。できればそんなことが起きずに済めばいいのだけれど。……けれど最悪の事態というのも考えられる。ともかく、ここまでの道のりは覚えておこうと思いつつ、私は鍋島さんについて、椎名さんの拠点の前から離れ、西へと向かった。
獣災の中心地と思われる、通報を受けて警察官が向かった家へ向かうにつれて、徐々に空気に変化が出始めた。垣根や通りに何か硬い物で削られたような、あるいは焦げたような痕跡があったり、空に式神が飛んでいたり、と。明らかに普通では無い様子だった。どこかからは吠えるような声が聞こえ、何かが弾けるような音がする。
「交戦状態のようですね。急ぎましょう」
軽く走り出した鍋島さんの後を追いながら周囲を見回す。家の中や路地に獣がいる様子は無い。式神も十二支の盤もほぼ同じ地点を指している。西だ。
指し示す方へと小走りに向かえば、そこには戦場があった。
道の先の景色がいびつに歪んでいる。獣が縄張りを作りだし、獣祓い師を取り込んでいるのだろう。
「鍋島さん、どうします? 助けに入りましょうか」
「そうですね、その方が――」
鍋島さんが言いかけたその時、鍋島さんのスマホが鳴った。急いで電話に出た鍋島さんはスマホをスピーカーにした。聞こえてきた声は堀さんのものだった。
『鍋島さん、すみませんお忙しいときに。先行した班が現在交戦状態なのですが、いま戦っている獣とは別に一体、圧倒的に獣素を強く放つ獣が一体いるという情報が入ってきています』
「なんですって……その獣は?」
『民家の一つに居座って出てこないようです。ただ、その獣以外にも周辺に獣がいる様子で、対獣課の獣祓い師二組が周囲の獣を引き付けてはいますが、それでもまだ二体ほどがいるのではないかと』
「……分かりました。対獣課の方々への支援は必要ですか?」
『現状では必要は無いそうです。こちらの班と合流して残りに対処するか、それとも残りの獣を祓うことを優先するか……その判断はそちらにお任せします』
「そうですか……ならば、このまま僕と明星さんは残りの獣に当たろうと思います。それでいいですか、明星さん」
こちらとしては異存は無い、というかどちらの案が良いかの判断など付けようが無い。首肯だけを返せば、鍋島さんは「では、そういうことで」と言い、
「もし助けが必要ならばお電話ください」
と、堀さんに向けて言い、電話を切った。そして、スマホをしまうと時間が惜しいと言わんばかりに鍋島さんは先へと進み始めた。目の前にある縄張りは避け、路地を通って迂回しつつ奥へ。足取りは確かなもしかしたら、こうなると分かっていて、いまは獣が居座るという家の住所を聞いていたのだろうか? 思索を巡らせる時間は無い。
路地を走り抜けると、その先には獣がいた。
そこにいることは分かっていた。頭上で式神が旋回している。その獣は小さな縄張りを体にまとわせていた。霧の中にいるようなぼやけた肉体に向けて、再び
「――鍋島さん下がってください! 足を止めます!」
相手が誰であろうと関係無かった。いまここにいるのはただの獣だ。祓うべき、倒すべき獣だった。銀のケースから取り出したお札を投げつける。札は獣ではなくその足元に落ちた。途端、バチバチッ! と音を立て蒼白い光が散った。
「ギャアアァァァ!」
獣が悲鳴を上げてその場に膝をつく。
……ふと、地面にちらつく影が見えて顔を上げた。
頭上を旋回する式神はさっきまで一枚だけだったが、二枚になっている。式神は一枚につき獣一体に反応するようにしているはず――。
「鍋島さん! もう一体、左の方にいます!」
「っ!」
鍋島さんがその場から飛びのく。それとほぼ同時、獣が上から降ってきた。一瞬だけ屋根の上にいたのが見えた。猿のような見た目をした、しかし異様に爪が長いその獣に向けて再び建御雷命のお札を投げる。しかし、そいつは見た目通りに身軽だった。お札が着弾する頃にはその場から飛び跳ねるようにして逃げている。
「鍋島さん……!」
次のお札を用意しながら鍋島さんに呼びかける。肩の辺りが切り裂かれて、シャツにじわりと血が滲んでいるのが見えた。
「来ないでください! できるだけ、僕と距離を取って……あの獣の動きから目を離さないで」
思わず駆け寄ろうとした足が止まる。そうだ。あの獣は鍋島さんを狙っている様子だ。ここで近寄っても攻撃の巻き添えになるだけで、鍋島さんの助けにはならない。怪我の手当は後でするしかなかった。
地面に張り付く建御雷命のお札は相性が悪い。ともかく別のものを――そう、素早い動きを阻害するようなもの。……あった。
「こんなマイナーっぽいの、使うなんて……」
教えてもらったばかりだし、それに神の名前でも無かったことに加え、使いどころが難しい。そもそも使うことをほとんど想定していなかったから数もそろえていない。持ってきたのは二枚一組だけだ。ただ、この状況には一番適している。
お札をケースから三枚引き抜き、獣の出方を窺う。猿型の獣は鍋島さんを的にかけるつもりらしい。再び屋根に登り、上からいまにも飛びかかろうとしているところだった。
「鍋島さん、少し抑えられますか!?」
「……! やってみましょう。くれぐれも気を付けて!」
鍋島さんが返事を寄越した直後、獣が動いた。上から両手を振り上げて飛びかかってくる。攻撃の行方がどうなったか――見ている余裕はない。ただ、背後からガギッという硬い物を抉るような音が聞こえた。音がした方は見ない。鍋島さんが隙を作ってくれると信じて走る。まずは道に面している一方の塀にお札を張りつける。そして真反対の塀へ。
「ガアァァッ!」
すぐ近くで獣が吠えた。思わずそちらに視線を向ける。驚いたことに、そこには獣の足を掴んで地面に引き倒す鍋島さんの姿があった。ジャンプするところを狙って足を掴んだらしい。ただ、獣もされるがままではなかった。足を掴んだ鍋島さん目がけて手を振りかぶる。
鍋島さんが杖でそれをいなそうとするところまでしか見ていられなかった。いつの間にか目の前に来ていた塀に、走る勢いのままお札を張りつける。勢いを付けすぎて手がじんと痺れた。が、自分の手に気を使ってる場合ではない。
「鍋島さん、準備できました!」
顔を上げ、声も上げる。なるべく大声で、注意を引くように。左手を掘りに張ったお札に押し当て、最後の一枚のお札を見えるよう右手を高々と上げて。獣と組み合うような形になっていた鍋島さんはぎょっとしたような顔で振り返ったが、すぐに意図を察してくれたらしい。片足を前面に押し出すようにして獣を蹴り、その勢いで一気に距離を開けるとこちらに走ってくる。
相対する獣はそれを見逃すような相手ではなかった。
足の速さだけでいえば確実に鍋島さんより早い。だから獣が動く瞬間には、もう札を放っていた。
「ウゥゥ……キィッ! ギャッギャッ!」
獣は奇怪な鳴き声を上げながら屋根に飛び乗った。その隙に鍋島さんが近くにまで来た。獣は屋根伝いに移動し、上からまたこちらに向けて飛びかかる。――いや、飛びかかろうとした。
その体が、中途半端な位置で宙に留まる。
「ギッ……ギャァッ! キィィィ!」
獣は金切り声を上げてもがく。けれどもう、ほとんど身動きができない。よく見るとその体に、べったりと何かが絡み付いている。
それは、蜘蛛の糸だった。塀に張りつけたお札から、透明に近い白い糸が噴き出し、蜘蛛の巣を形作っているのだ。
――
かなり強力だが、反面難点もある。獣を拘束する蜘蛛の巣はかなりの魔素を消費する。お札に込めた魔素だけでは維持が難しく、こうして手を押し当てて魔素を供給し続けなければ、獣に抵抗されてすぐ解けてしまうのだ。鍋島さんがいないと使う意味が無いお札だったし、そもそも使いこなせるのかどうかも分からない代物だった。
ただ、どういう物であれ、作戦は成功した。
「――お疲れさまです、明星さん」
鍋島さんが、拘束されてもがくばかりの獣を仕込み杖で刺し貫く。短い呻き声を上げた獣はがくりとうなだれ、獣素となって空気へと溶けていった。
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