5-4

 住民が全員退避したためか、町は不気味な静寂に包まれていた。聞こえてくるものと言えば風の音ばかりで、この辺りを獣が闊歩しているとはとても思えない。しかし、争う音は聞こえなくとも、もうここは獣が何体も発生している獣災指定区域なのだ。


 いったいこの、小綺麗な建物ばかりが並ぶ住宅街で何があったのか。

 その説明はここに来るまでの間、車中で受けていた。


「――対獣課に通報が入ったのは朝十時半頃のことです」

 車を走らせながら、鍋島さんはそう切り出した。現在時刻は午前十時四十五分。対獣課からの通報を貰ったのはもっと早かったが、現場までは距離があった。どんなに急いでも、事務所から車で二十分以上はかかるだろう。

「通報したのは当時付近の交番に勤務していた警察官の方でした。その方は午前十時前頃に通報を受け、いまは封印区域となっている場所にある住居に向かったそうです」

「まず一般の警察官の方が現場を見て、それから対獣課に……?」

「そうなりますね。とはいえ……かなり偶発的な発見だったんだと思います。その方が県警に応援を要請する際、しきりに『化け物が!』と叫んでいたそうなので……そういう経緯があって対獣課に仕事が回された形になります」

 つまり、現場に向かった警察官は獣についての知識が全く無いままに獣に遭ってしまったことになる。「じゃあその人は」と思わず口にすれば、鍋島さんは小さく頷いた。

「通信は途中で途絶えたそうです。恐らく……生きてはいないでしょう。最悪の場合、獣になっている可能性すらあります」

「……でも、襲った獣と襲われた人だけで、獣災に指定されるんですか?」

「場所と状況によりますね。今回は、椎名さんが僕たちに先んじて現場に到着し、状況を確認してくれています。その上での判断ですから……封印区域と指定するに足る規模の事件と見て間違いないでしょう」

 この時すでに、椎名さんからの電話は貰っていた。獣災のど真ん中にいる、という情報以外にも、最低でも三体の獣を確認したという報告もあった。通勤や通学の時間からはやや外れた時刻だったものの、それでもまだ人の往来がある時間帯だ。被害者は……まず間違いなくいるだろう。

「そもそもの通報の内容は『会社に出社しない社員がいる』という通報でした。こういった内容ではあまり警察は動いたりしないらしいのですが……その人は、去年警察官になったばかりの方で、しかもいまから向かうニュータウンにお住まいの方だったそうです」

「……親切心が仇に、ですか」

「痛ましいことですが、その方が現場に向かわれたからこそ獣災の発覚にも繋がりました。できることなら、無事逃げ延びて、生きていてほしいものですが……」

 一縷いちるの希望だった。ほとんどその見込みが無い、というのは鍋島さんの顔を見ていても分かる。私たちができることは、その人が獣になる前に獣災を治めるか、もしくはその人が獣になっていた場合、誰かを殺す前に祓うことだけだった。


 そういった経緯を聞いていたからこそ、獣の爪痕が滲むような、荒れた様相を呈した町を想像していた。


 しかし実際に来て目の当たりにした現場は、恐ろしいほどに静かだった。各家庭がそれぞれ夢や願望を詰め込んだ一軒家たちは、日常の顔を異常な空気にさらしたまま無言で佇んでいた。静止画として見せられたなら、異常など一切無いいつもの光景に見えただろう。だが、ここはもう獣の縄張りに近い場所だった。

 気を引き締め、まずは獣を探すためにヤタガラスのお札を放つ。この手のものはともかく数を確保しろ、と椎名さんに言われていたけれど、こんな形で役に立ってしまうとは。……いや、こんな形以外では、一気に五枚ものお札なんて使わないか。

 五枚のお札は、それぞれ互いに距離を開けて飛んでいく。けれどそれを待って悠長に構えてはいられない。鍋島さんがダウジングロッドを片手に先行する。私はその後を、一枚の丸い板を持って歩く。

 板には十二支を表す動物が描かれ、さらに動物の絵の中心には水晶が埋め込まれていた。椎名さんに譲って貰ったもので、祭器の水盆と同じレーダーの役割を果たす。あの水盆と違うのは、こっちは常時魔素を供給しなければ力を発揮しないということだった。歩きながら魔素を与えていると周りに注意が向けられなくなるというか、歩きスマホみたいなことになるので魔素を自動的に吸い上げて供給する指輪を左手の中指にはめていた。

「……事ここに至ってはあまり関係の無い話ではありますが」

 前を歩く鍋島さんが言う。何気なく、杖を片手に歩いているだけのように見えるが、そういった体勢から即座に動ける達人だと言うことを私は知っている。

「会社に出社しない社員がいる、という通報が事件発覚のきっかけだ、というのはお話ししたとおりですが……その社員というのが、例の連続殺人事件の、犯人のお父様だそうです」

「父親が? まさか以前から獣に……ああ、でも息子さんの件で、ご家族の方に事情聴取をしてたんでしたっけ。そもそも出社しないという話で連絡が来たのだから、つい昨日までは顔を見せてたとしてもおかしくは無い、と……」

「ええ。昨日までは彼岸と祝日が被る形でしたし、もしかしたら個人や会社がお休みだった可能性はありますが……少なくとも三、四日前までは何の異常も無かったものと思います」

 かなりの速度で獣化が進行したと見て間違いない状態だった。

「獣となった人、時期、範囲が分かっている以上、その過程を見直す必要はこの場ではもう無いのですが……ただ、特に獣化を引き起こしやすい負の感情は、他者と影響し合って増幅しやすいものです。連続殺人の容疑者宅は、そもそもご近所トラブルが絶えなかったとも言われていますし、悪い心が影響し合い、悪い循環を生んでいたのかもしれませんね」

「……獣が生まれやすい環境、ですか」

 この場において、獣祓いをするにあたっては確かに関係の無い話かもしれない。けれど、私にとってはたぶん大事なことだろう。これから先、獣祓いをするときはこういう状況に注意しろ、という話だった。



 三分ほど歩いたところで、式神が反応を示した。空にはなった五枚のうち、一枚が進路を変え、ある地点で旋回を始めた。十二支の盤も、式神が旋回している方角の水晶が白く濁っていた。間違いなく、あそこに獣がいる。

「あのあたり、椎名さんが待機している地点ですね」

「えっ……! じゃあ、急がないと」

「ええ。ここまでの結界を一人で張ってるわけですし、充分な力は発揮できないでしょう」

 急ぎます。そう言って鍋島さんは走り出した。その後ろについて走る。持久力は付いてきたけれど足の速さはどうやっても差があるので、少し離される。が、支援をするのには問題無い範囲だった。


 獣がいたのは、私たちが歩いていた通りの一本横だった。太い道路が横に一本、両端から縦に二本ある他、細い路地が幾つか縦に伸びている。路地を抜けて隣の通りに入ると、相変わらず小綺麗なまま立ち並ぶ家と通りが見えた。そして、路地から出た先の家二軒分ほど向こうに、奇妙に揺らぐ景色があった。範囲はあまり広くない。せいぜい五メートルほどだろうか。

「明星さん、縄張りの解除をお願いできますか?」

「はい! やってみます……」

「解除直後に速攻を仕掛けます。状況に応じて足止めを」

 はい、と返事をしつつバッグから銀のケースを取り出す。こっちは式神ではなく神様のお札がしまってある方だ。ケースを開けて出した札は天鈿女命アメノウズメノミコトだ。距離を少し詰めつつそれを縄張りへ向けて投げる。お札は縄張りに反応し、一直線に飛翔する。

 途端、コロコロと鈴が鳴るような、そして何かが笑い声を上げているような音が響いた。

 ――かと思うと、道路には一体の獣が立ち竦んでいた。見た目は狼男に近いだろうか。人と大して代わり映えのしない風貌だったが、頭部は猫とも犬ともつかない、肉食獣のものだった。そして、生々しいことにその獣は服を着ていた。急速に体が大きくなったせいかシャツはボタンが弾け飛んではだけられ、ズボンは……はいてない。邪魔になって自分で脱いだのかもしれない。

 縄張りを剥がされた獣は、自分の身に起きていたことが分からないといった様子で固まっている。変な体勢だ。家の門に両手をかけ、もたれかかっているような形だった。

 その隙、そしてその体勢は、鍋島さんにとっては好都合だった。

 全速力で疾駆し距離を詰め、背後に立つと躊躇無く仕込み杖の鞘を引き払って刃を出し、それを獣の背に突き立てた。私が足止めをする必要など全く無く、獣はびくっと震えて口を開け、そして悲鳴も無く消えていった。

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