5-2

 鍋島さんの怪我は軽いものだった。軽い、と言っても普通なら縫合した方がいい程の傷ではあるのだけれど、翌日事務所に向かうと鍋島さんはぴんぴんした様子で出迎えてくれた。

「鍋島さん、怪我は……」

「ああ、もう大丈夫ですよ。椎名さんの治療術もありますし」

 ――と、玄関先ではそう言った鍋島さんだったが、後に椎名さんが事務所に顔を出した際に、治療術だけですぐ傷が塞がったわけでは無いことが分かってしまった。


「私の力なんて三割ぐらいなもんよ! 一葉ったら可愛くないやっちゃ!」

 やっちゃ……? は、いいとして。

「三割?」

「そう、三割よ!」

 麦茶を飲み、コップをちゃぶ台の上にたん! と音を立てて置くと、若干不機嫌そうに椎名さんは言う。

「道術の中には気功術とかヨガとかそういうのも含まれてるってのは前説明したと思うけど、一葉の数少ない道術での特技がそれなのよ。おかげで怪我しても怪我しても、傷口塞いでちょっと大人しくしとけば治るって思ってんだからタチが悪いわ!」

「鍋島さん……もしかして、普段相当な無茶をしてるんですか……?」

「あ、あはは……まあ……その、本当にすみません、椎名さん」

「それもう何回も聞いたー!」

 投げやりぎみに椎名さんが叫ぶ。こういうやり取りはもう何回、何十回としれずやって来たのだろう。

「はあ……あんたのスタイルなら生傷絶えないってのは分かってるんだけどさ。あんたから怪我しましたーって電話が来るときは基本自分で治しきれない、時間かけてたら死ぬタイプの怪我じゃん? 『怪我しました』の一言メッチャ心臓に悪いのよねー……」

「はは……」

 怒られるからか、もはやすみませんの一言も出ない様子だった。しかしそんなに怪我が多いなら、治癒の道術も教わった方が良いかもしれない。後で椎名さんに頼んでみよう。

「ったくー……予後を気にして来たけど聞くまでもない感じね」

「ええ。おかげさまで、ほとんど塞がってます」

「はいはい、そりゃよござんした……で、例の件の話は? もう美夏ちゃんとしたの?」

「椎名さんが来る前に、対獣課からの書類をちょっと確認した程度ですね」

 例の件の話とは、連続殺人の容疑者とその被害者のことだった。容疑者が死んでしまったため余罪の追及すらも難しいらしく、いまは地道な証拠と容疑者家族からの事情聴取でどうにか捜査をしている状態らしい。

「椎名さんも読みます?」

「んー……めんどくさいけど一応ざっと読んどくわ」

「分かりました。こちらが資料です。……現状で被害者としての疑いが持たれているのは四人。先日の獣祓いで、この件に関連すると思われる獣は四体になりました」

 とはいえ、その四体全員が、事件の被害者だとも限らない。確定しているのは、キャンプ場の獣と、そして私が初めて遭った獣だけらしい。……そう、あの獣も被害者だったのだ。

「堀さんたちの捜査が進めば、獣が被害者かどうかの判断もできますし、何より獣化してしまう前に遺体を発見できるかもしれませんが……希望が持てる状況ではありませんね……」

「事件の中で、被害者と見られる失踪者で、一番古く出された捜索願は三年前のもの、ですよね。そして最近のものは、二ヶ月前……」

「獣化の進行は人によって違いますすが、埋葬もされず無碍に扱われた遺体は、無念から死してなお獣素を溜め込みます。ましてや犯罪被害者なら……本当は一日二日でなってしまってもおかしくはない。ただ……おぞましいことに、被害者は子供ばかりです。瞬間的な恐怖や嫌悪といった感情は計り知れないものですが、それが溜め込まれ怨念とも呼べる領域には、中々到達しないものです……中には、何が起こっているのか分からず、ただ混乱しているだけの被害者だっていたでしょう」

 鍋島さんは顔をしかめ、これ以上は口にできないという風にうつむいた。一方、何故か女二人の方が平気そうな顔をしている。男女の差か、それとも鍋島さんが良い人過ぎるだけなのか。

「結局感情は実のところ数値化が可能だし、獣素も同じなのよねー……物事を深く考えれる程度に脳が発達してアイデンティティが確立された後の方が、むしろ思念を溜め込みやすいってわけ。感情は単純なものだって思われがちだけどさ。経験と思考がそれを深めるものだから……美夏ちゃん、ここポイントよ?」

「あ、はい。つまり……大人になってあれこれ考えられるようになると、余計に思いを抱え込みやすい、ですか」

「そゆこと。楽観視できない、とはいえ子供の獣化はかなり進行が遅いってのも事実だからね。ただ、キャンプ場の件みたいに、やっぱり人によっては死亡してそう時間をかけず……って例もあるから何とも言えないよねー。そもそも彼女、自殺志願者としてそこにいたわけだし、思い詰めてたところに……って考えると、しょうがなかったんだろうなー」

 ふと、以前も考えたような、あまり考えなかったようなことを思い浮かべた。私が自殺したら、獣になるのだろうか? そこまで生にも死にも真剣に向き合ってもいない。自殺だけではそう心配することもないだろう。どちらかというと、獣祓い師として獣と接触することでことの方が危険な気がする。

「……状況がどうあれ、いま僕たちにできることは、獣になってしまった人を祓うことだけです。僕は、被害者の足跡をたどる形で町を見回ってみようかと思います。明星さんもそれでいいでしょうか?」

 頷きかけたその時、横から「待った」という声がかかった。

「椎名さん?」

「事が事だからさ。そろそろ、明星さんにも単独で動いてもらえば?」

「ちょ……なに言ってるんですか、椎名さん。明星さんは怪我を……」

「そりゃ怪我してるけど、私のおかげで治りは早いわけだし? もうギプス外してるんだしさ。まあ、上師は一葉なんだし決めるのは一葉と美夏ちゃんだけどねー」

 鍋島さんは椎名さんを見つめ、そして私の方に視線を送った。自然と、頷いていた。鍋島さんも小さく頷き返した。

「分かってはいるんです。ただ……あ、昨日言いそびれたことなんですけど……僕のせいで、判断ミスが原因で明星さんがまた怪我をしたらと思うと、たまらなく恐くて……」

「鍋島さん……私は大丈夫ですよ」

 本当に、気にしなくてもいいのだ。痛いのはまあ、嫌だけど。傷も死ぬのもまあ別に。そんな感じなので、鍋島さんには悲しんだり苦しんだりでほしくない。でも、鍋島さんは苦く笑って「すみません」と謝る。

「情けない上師で……本当にすみません」

「鍋島さんは、情けなくなんかないですよ……私からしたら、凄く頑張ってて、強いですし……それに、あれは私のミスです」

 そんなことを言っても納得はしてくれないだろう、というのは分かっていた。実際、鍋島さんは小さく首を振っている。でも、お互いに感じていることを主張しても納得はできないと、私も鍋島さんも思ってる。

「僕は……いえ、いまは……言わないでおきましょう。……いまは優先すべきことが、沢山あります。どちらがどこを回るか……椎名さんは椎名さんで、仕事があるんですよね?」

「ちょっとね。こっちはこっちで色々、調べなきゃならないことが出てきててねー。二人で頑張って。もし無理そうだったら一葉、ちゃんと師匠を頼りなさいよ」

「そこは心得てます。獣は僕一人の問題ではありませんから……じゃあ、椎名さんは抜きにして、僕と明星さんがどこを担当するか決めていきましょう。それと、見回りが終わって事務所に戻ったら、護身術をお教えしようと思います」

「はい。よろしく、お願いします」

 自分の身を守る。自殺とはますます遠くなる。しかし――もう、理屈としては分かっている。


 いまの自分は、死ぬに死ねなくなってきている。少なくとも、自分から命を絶つのは難しい。あるいはもっと、生きていくための苦痛があれば、他者を顧みずに死ねるのだろう。しかし鍋島さんや椎名さんと一緒にいては、苦痛を得る方が難しい。

 後はもう、獣に殺されるだけだ。しかし獣に殺されるのも、迷惑をかけることには変わりない。もはや真剣に、全力で殺し合う他無いのだ。

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