四章『三十路女、道術を鍛える』

4-1

 最初に取り戻した五感は、嗅覚だった。病院特有の、薬っぽいというか消毒液っぽいというか、そういう匂いと、微かな洗剤の残り香を含んだシーツの匂い。目蓋を押し上げれば、白っぽい天井が見えた。

 しばらく呆然としていた。しばらくがどのぐらいか、というのは分からない。一分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。体のあちこちが痛かったけれど、その痛覚すら鈍らせるほどの気怠さに支配されていた。何もしたくない。それが全てだった。


 そうしてぼーっとしていると、部屋に人が入ってきた。近付いてくる気配に目を向けると、看護師さんだった。女の人で、結構な美人だ。染めているのか明るい栗色の髪をしていた。

「あっ……気が付かれましたか?」

「あー……はい。ここ……病院ですか」

「はい、中区市民病院ですよ」

 この前検査を受けた病院だった。検温に来たのだという女の看護師さんから、担ぎ込まれた時の話を聞いた。

 まず真っ先に「獣傷じゅうしょうが酷かったんですよ」と言われた。

 獣傷、というのは獣に付けられた傷だ。獣素が接触箇所に大量に付着したり、あるいは傷口から入り込んだ傷が獣傷だ、というのは研修中に鍋島さんから聞いたことだった。獣素は人体を、まるでがん細胞のように侵食する。普通の傷のようには治らず、魔素を照射して治さなければならない。

「本当なら命の危険があってもおかしくない程の獣傷だったんですけど……魔素が高い体質だったのが幸いでしたね」

 体内に元々持っていた魔素が、獣素の寝食を弾いていたらしい。思っていた以上に獣相手には死ににくい体らしかった。まあ、ストレートに頭を叩き割られるなり心臓を抉られるなりすれば、獣傷も何も無く死ぬのだから、普通より格段に死にやすい職場であることには変わりないだろうけれど。

 何にせよ、死に損ないはしたけれど、魔素を扱う専門の医者を呼ばなければ傷が治らないと言うことに変わりはない状態だ。

 傷の状態は、左腕の骨が砕けていたのと、全身の打撲と擦り傷。昨晩集中治療室に叩き込まれて腕の骨は治療を施されたらしいけれど、魔素を取り除かないと骨が中々くっつくないらしい。いまはギプスでガチガチに固められて、指一本動かせなかった。腹部も思い切り殴られたはずだけれど、運良く内臓破裂には至らず、打撲だけで済んでいた。

 ちなみに、あの後救急車で集中治療室に運び込まれたらしいけれど全く記憶に無い。麻酔を打たれて寝ている間に全部終わっていたらしい。何とも幸せというかのんきなもので、看護師さんが言うには、付き添っていた鍋島さんの方が泣き腫らして痛々しい様子だったそうだ。

「鍋島さん……大丈夫なんですか」

 思わずそう聞けば、看護師さんは笑って答えた。

「明星さんの方が大幅に大丈夫じゃないので、それに比べれば全然ですよ」

 そりゃそうか。世間的に見れば私の方がだいぶ大丈夫じゃないんだった。

「鍋島さん、お呼びしますね。近くのホテルに滞在されてるので、すぐ飛んでこられると思いますよ」

 何だか申し訳無い。結構な重傷だけど、私にはあまりその自覚が無い。たぶん鍋島さんの方が気を揉んでいることだろう。心配と迷惑をかけているのに他人事のように感じているのは、失礼なような気がしてならなかった。


 ――十分後。


 病室に入ってきた鍋島さんは息を切らしていた。その顔を見て、とっさに「私、大丈夫ですよ」と言っていた。酷い顔をしていた。目の下にうっすらとくまが見える。

「大丈夫じゃないです……!」

 ごもっともです……実感は本当にないのだけれど。

「すみませんでした。ご迷惑とご心配をおかけして」

「とんでもない! 明星さんがこんなことになったのは僕の判断ミスです」

「いえ、あの時……物音を聞いて一人で現場に向かったのは私の判断ですから。鍋島さんが出てくるまで待っていたら、こんな怪我してませんよ」

 これは事実だと思う。コテージに封印を施していたのだから、人はもちろん獣だってそうそう入れる余地は無かったはずだ。私がすべきだったのは、鍋島さんを待って合流し、支援に徹することだったのだ。単独で獣と退治する危険は極力避けるべきだった。……そう思うのだが、それでも鍋島さんは自分を責めていた。

「僕が明星さんを一人にしたから、こんな……」

「適切な判断でしたよ、きっと。大峠さんたちは泊まり客を避難させなきゃいけなかったし、私が一緒にコテージの中にいても邪魔になるだけでしたから」

「でも、それでも……」

「私は鍋島さんに助けてもらいました。二回目ですよ。それで、生きてるんです」

 私としては、死ねなかったに近い。けれど鍋島さんの目で見れば、命を助けられた。そう見ることができるはずだ。鍋島さんは、ようやく首を縦に振ってくれた。

「分かって……います。でも、僕は自分が不甲斐なくて。師匠ならもっと上手くやれたんじゃないかって」

「それは師匠さんが凄すぎるだけなんですよ、たぶん。私からすれば、鍋島さんだってできすぎてますよ。私、鍋島さんの指示を聞いて動くことしかできませんでしたし。自分で判断した行動はうかつでした。人に指示を出せて、獣相手に一歩も引かず戦える鍋島さんは、充分私の目から見れば凄い師匠です」

 励ますことしかできなかった。もしかしたら、傍目から見れば変な状況かもしれない。仕事でミスして大怪我した新人と、きっちり仕事をこなしたベテラン。普通、落ち込んだり励ましたりするのは逆だ。そう思うとやはり恥ずかしかった。鍋島さんのような優しい人を、死にたがりという悪癖で困らせているのだから。

 けど、たぶん無謀な動きは止められないのだろうと思う。それどころか、自己弁護めいたことも思い浮かぶ。自殺という手段を取ったって鍋島さんは悲しむかもしれない。だったら、獣との戦いの中で死んでいく方が、よくあることとして済ませられるのではないだろうか? 悲しみは同じだろうけれど、きっと同じ立場の人と悲しみを分かち合い、乗り越えられるのではないだろうか――そんな、どのツラ下げて偉そうなことをというようなことを考えていた。最低。

「……ありがとうございます、明星さん。そうですね、僕は……あなたの上師ですから。しっかりしないと。だから、明星さんも弟子として、僕のいまから言うことを聞いてほしい」

「はい……分かりました」

 鍋島さんは小さく頷くと、言った。

「僕たち獣祓い師は、死と隣り合わせの戦いの中に生きてます。そしてそれは、相手の獣も同じことです。一度死んだとしても、彼らは獣として生きている。彼らは二度も死ぬんです。業苦の中で、残酷に……そんな相手の命を奪う以上、僕はその死に重みを持ちたいんです。

 明星さん。死を、軽んじないでください……誰かの命を奪う人が己を軽々しく扱うと、相手の命まで軽くなってしまうような気がするんです。殺し合いなら命を落としても仕方がない。けれどその中で、お互いが死にたくないと思うことを、僕は大事に思っているんです。殺す相手よりも自分の命が重いからこそ、相手を殺してでも生きるのですから……」

「……はい」

 続けて何か言おうとしたが、口が重かった。軽く返事などできなかった。肝に銘じますだとか、決して忘れませんだとか、言えなかった。

 そんなことを言ってしまえば、嘘になる。

 私は鍋島さんの考えには賛同できなかった。理解はできた。きっとそれはとても大切なことだ。けれどそれでも、私は私が大切ではなかった。獣の命にも重みを感じなかった。あるいは、鍋島さんのように沢山のことを大切だと思えたなら、死にたいなどとは思わなかっただろう。

 一つ分かることがあるとすれば、私の命より、獣の命より、鍋島さんの命の方が大切なものだと、私は感じている。口に出して言えないそれこそが、私の中では真実だった。



 重い空気は長くは続かなかった。その後、私の体に溜まってしまった獣素を排斥する治療が行える、道術医という医者の話になった。普通の病院には道術医は常駐していないらしく、その免許を持っている獣祓い師がこちらに出張してくるのだという話だった。

「たぶん明日には到着すると思います。それまで、不便をかけますが……」

「いやあ……早すぎる速度だと思いますよ……」

 不便を感じる暇も無いような気がする。利き手も両足も無事なのだし、動くのには困らないだろう。そもそも動く気力も無いので本当に問題にならない、と思う。

「そうですね、メチャクチャ早いですよね……あの人もちょっと乗り気すぎるんですよね、他の仕事もあるはずなのに……」

「お知り合いなんですか?」

「ええ。姉弟子なんですよ。内の一門にしては道術に明るくて……明星さんがいまよりもっと強い道術を覚えることになったら、その方を頼ろうかと思ってたんですよ。ただ……」

 鍋島さんは顔を曇らせた。「どうしたんですか?」と尋ねると、鍋島さんはちょっと苦笑して、

「少し、アクと押しが強い人ですから。明星さんと反りが合うかな、と」

「ああ……」

「結構変わり者なんです、あの人。ちょっと困ったな、と思ったら遠慮無く僕に言ってください。その……本当に、ちょっと凄い人ですから」

「……それは……どういう方面で凄いんですか」

「うーん……」

 鍋島さんは唸ると、一言。

「ちょっと……変態かなって……」

「変態ですか……」

 いつもなら、言い過ぎたと思えばすぐ取り繕うのにそれも無かったので本当に変態なのだろう。流石にちょっと身の危険を感じないでも無いけれど、まあ……百聞は一見にしかずと言うし、見ないうちからあれこれと実態を想像しても仕方がない。

「ど、道術の腕前だけは確かですし、犯罪行為を働くような人では無いので。その点だけは、安心してください!」

 力強く言われても、いまのところ不安要素しか無かった。とはいえ嫌だというのも面倒だった。何かあってから嫌だと言えばいいのだ、こういうのは。そんな投げやりな気持ちになっていたのは、ひとえに全身に鈍く走る痛みのせいだろう。意識がはっきりしたせいか、体をちょっと動かすどころか何もしなくても体のあちこちが鈍く痛んだ。この痛みをどうにかしてくれるなら、多少変態だろうと気にならなかった。



 それから、事件の経過や今後のことについて二、三話すと鍋島さんは病室を去って行った。深い話はあまりしなかった。事後処理で、まだ分かっていないこと、決まっていないことが多すぎるのだろう。さっさと退院して仕事を手伝いたかったけれど、残念ながら二週間は入院していろと言われてしまった。二週間も、と思ったが冷静に考えて、左腕の骨がバキボキに折れているのに二週間で済む方が驚きだ。まあ、退院してもしばらくはギプスで固定されっぱなしだとは言われたけれど。

 その日は、特にやることも無いのでベッドの上で一日を過ごした。

 ベッドの上、殺し合いを繰り広げたあの獣と、そして鍋島さんが戦ったというもう一体の獣のことをぼんやりと考える。彼らがキャンプ場で失踪した二人なのか、それはこれから捜査を重ねて証拠を探さないと分からないことだ。鍋島さんが言うには、コテージの中にいた獣は強い恐怖から来る攻撃性を発揮していたように見えた、らしい。

 ……そういえば、初めに会った獣や、二番目に会った獣はどういう経緯で獣になったのだろう? 今度聞いてみるのもいいかな、と思ったけれど、獣に対する鍋島さんの心構えを聞いていると、獣の話はしづらかった。鍋島さんは獣に対して、何と言うか、心を傾けすぎてるんじゃないかという気がした。祓った獣の話をすれば、思い出して苦しむかもしれない。そう考えると、話を掘り返そうとも思えなくなった。


 一日はあっという間に過ぎた。というか、寝て起きて食事を取って寝て起きたら次の日だった、ぐらいの感覚だった。

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