3-4

 予感とでも言うべきだろうか。失踪者が二人と聞いた時点で、そうなってもおかしくないとは思っていた。

 コテージの外周に沿うように裏へと走る。足音は潜ませたが、効果があったかどうかは分からない。

 なにせ、と目が合った。

 一目見て人じゃないと分かった。同時に、これすらも獣なのかと思った。手が生えている。昆虫のように胴から幾本もの手が生えている。正確に数は数えられなかった。暗かったのもあるし、形があまりにも奇妙だった。便宜的に手と表現したが、それは胴から伸びた長細いものの先が幾つにも分かれていたからだ。イカの足のようにつるりとした長い、人の肌色に近い、白っぽい黄色い色をした関節の無い腕をその獣は大量にぶら下げ、あるいは宙に躍らせるように揺らめかせる。特に太い二本の腕はコテージに向かって突き出されていた。が、顔はこっちを向いていた。

「フゥー……フウゥー……ハァ、ハァ……ウゥー……」

 荒い息づかいが聞こえた。これがこの獣の鳴き声なのだろうか。獣ごとに、声にも特徴があるようだった。私の倍、いや三倍は身の丈がありそうな獣はコテージに体を向けたまま、血走った目で私の方を見ていた。一枚の皮を被ったような薄赤色の塊をした頭部に、目がぽつんと二つある。鼻も口も線と点のようなのに、その目だけが異様に人間味に溢れていた。その目は苛立ちを感じていた。自分がこの中に入れないこと。そして、目の前に、私がいることに。

 感じ取れる? エスパーか、私は。だけど確かにそう思っている、という確信が持てる。初めて会った獣が恐怖を抱いていたように、こいつはこの中にいる何かが目当てで、私は邪魔者なのだ。

 鞄に手を突っ込んだのと、獣が体をこちらに向けて走り出したのがほぼ同時だった。

「フブウウゥゥゥッ!」

 大きく太りすぎた豚のような鳴き声を上げ、突進してきた獣の横に避ける。が、現実はゲームのようにはいかない。大幅に通り過ぎてこっちが体勢を立て直す隙は、与えられなかった。すぐ目の前で止まった巨体が、振り向きざまに腕を振り回す。身を屈める。頭の上で唸る音がした。避けた――と思った途端、腹に凄まじい衝撃が走った。息が詰まり、視界が白く染まる。

 腹を殴られて意識があっさり落ちる、というのはむしろ、運が良くなきゃならないことなのだと、初めて知った。

 きーんと耳鳴りの幕を下ろした鼓膜の向こうで、ばらばらと音がする。鞄の中にしまっていた道具が散乱している。ただ、鞄に手を入れた時点で握った物だけはまだ手の中にあった。蹴られた勢いで転がるのに任せて距離を取り、白黒に明滅する視界の中、無我夢中で右手に持ったナイフの鞘を左手で取り払う。

 ナイフ、と呼ぶには少し大振りだったかもしれない。刃渡りは三十センチ以上ある。大きすぎて、鞄を最初使う予定だったものから二回りは大きくする必要があった。

『本当はもっと、道術の力を引き出す祭具の方が良かったんですけどね。護身用に持っていてください』

 そんな風に、鍋島さんに言われて渡された。申し訳無いが護身もへったくれもない。人から身を守るには充分でも、獣を殺すには色々と足りていない。主に、リーチが。何とか立ち上がって距離を置くと、すぐさまその距離を詰められて、異形の腕が迫ってくる。その腕に切り付けてみたが、切っていると別の腕が飛んでくる。一回二回なら運も手伝って避けられるかもしれないが、長くは続かなかった。

 ちょろちょろと逃げ回る私が気にくわなかったのだろう。獣が唸りながら二本の太い腕を伸ばしてきた。片方はかわしたものの、もう片方の腕に左腕を掴まれる。地面から足が離れ、腕からはみしみしと音がした。

「ぐっ……! ぎ……っ」

 激痛に思わず悲鳴が出そうだった。が、出たのは食いしばった歯の間から漏れる呻き声だった。もうちょっと可愛い悲鳴を上げられれば、近くにいるかもしれない大峠さんや原田さんに気付いてもらえたかもしれない。けれどこっちとしてはそんなことを考える余裕も無い。ともかく目の前の獣をどうにかする、という意識で一杯だった。

 まだ自由な右腕を闇雲に振り回す。自分を掴む獣の腕に刃を突き立て、引き抜いて手近な他の腕を切る。どれも効果は無かった。その間にも腕からは嫌な音がしている。猛烈な痛みも止まない。ただ、変なことに、痛いはずなのに体の動きは止まらなかったし思考も動きっぱなしだった。

 いつまで経っても威勢の良い邪魔者に焦れたのか、獣は私を捕まえ損ねた手をまた伸ばしてきた。今度は頭の方に向かってくる。握り潰されれば流石に死ねるだろう。私がする必要がある行動? 決まっている、動きを止めることだ。

 しかし、それは本能だったのだろうか。それとも本能に引っ張られた殺意や敵意だったのだろうか。そんなものに燃える心だったとは思えないけれど、ともかく肉体は、まるで一矢報いてやろうかという風に動いていた。

 体を振り子のように動かし、ともかく獣へと体を、いや右手を近づける。宙づりにされた体を、そして腕を振り回し、さっきからずっと見えている、そして見ているものへと刃を向ける。瞳だ。血走った黒い小さな目。それ目がけて切っ先を突き立てる。

 狙いを定めて、二度目で当たった。

「――フグウゥゥギイィッ!」

 獣の悲鳴が上がる。柔らかなものに刃が埋まる気色の悪い感覚が一瞬腕を伝って脊髄を這い上った、かと思うと、浮遊感を感じた。獣が腕を振り回した挙げ句に掴んでいた私の腕を放したのだと気付いたのは、地面に叩き付けられた後だった。後々に思う。コテージや木に叩き付けられてたら死ねていたかもしれない。が、ともかくこの時は、猛烈に全身が痛くて息が詰まってはいたが、死んでいなかった。

 土を指先で削り、草を掴みながら、這うようにして体を起こす。四つんばいになってみたが、全身がばらばらになったんじゃないかというほど痛いし、左腕は痛みの塊になって他の感覚が一切無い。顔を上げる。視線の先には、悲鳴を上げて刺された目を手で覆う獣がいた。不思議と、その仕草を見てようやく、獣は人なのだという実感が湧いた。獣はそんな痛がり方をたぶん、しないだろう。その挙動は人そのものだった。

 その痛みに逃げてくれないかと思ったが、そうもいかなかった。怒りの矛先がこちらに向いているのを感じる。片手を目に当てた獣は、残った右の目で私を見ていた。死ぬな、と思った。死を覚悟というには真剣味が足りなかったかもしれない。のしのしと歩み寄ってくるその巨体を、片手で体を支えて顔を上げ、見上げる。見ているだけでも重労働だ。けど、その重労働もすぐ終わる――。

「明星さん! 大丈夫ですか!?」

 だいじょぶじゃないです、鍋島さん。……鍋島さんに限った話じゃなく、たぶんこういう時、第一声をどうして良いか分からないから取りあえず無事を確認するんだろう。だって見るからに大丈夫じゃないはずだし。

 ともかくこれで、死を免れてしまった。こういう時、緊張の糸が切れて気絶するっていう流れなのかもしれないが、意識はずっとあった。それどころか、鍋島さんに迷惑はかけられないという気力でも湧いたか、立ち上がってしまった。痛みで頭が働いていない中、無意識の行動だった。

「下がれますか? ここは僕に任せてください」

「ええ……すみません」

 獣を見据えたまま、後ろに下がる。獣の方は鍋島さんより私の方に敵意を向けていた。一歩、二歩とのろのろ交代すると、獣が一気に距離を詰めてきた。間に鍋島さんが立ち塞がる。目の前に立たれると流石に標的を変えてきた。獣は勢を乗せて腕で殴りかかる。横へのステップでそれをかわした鍋島さんを、さらに他の腕が追尾する。長い異形の腕は、鞘から引き抜かれた仕込み杖に切り払われていく。武術のことなんて分からないけど、こうして見るとやっぱり鍋島さん、武術の達人なんじゃないかというぐらい強い。

「ブフウウゥゥゥッ!」

 獣が苛立った唸り声を上げ、腕をやみくもに振り回す。攻撃が当たることは無いけれど、多すぎる腕に阻まれて鍋島さんも攻めきれていなかった。……そういえば、と思い地面にかがみ込む。この辺に……落ちてたはず。

「……あった」

 銀のケースを拾い上げ、震える手でどうにかこじ開けて中からお札を一枚引っ張り出す。これ、使っても鍋島さんに誤射しやしないだろうか。いっそ使わない方がいいのかもしれない――と思ったら、鍋島さんが体勢を立て直すために一旦大きく距離を開けた。大きくったって数歩の距離には変わりないけれど、ともかく行けると思った。

 獣の方に数歩寄って距離を詰め、お札を投げる。お札は獣に向けて一直線に飛ぶ。そして獣に当たると、

「フギイィッ――――ッ!?」

 バチッ! と鋭い音を立てて閃光が弾けた。お札は表に『建御雷命タケミカヅチノミコト』と御名が書かれ、裏面には下部に下を向いた矢の図柄と『天羽々矢アメノハバヤ』がセットで書かれている。ぼろくそな私が投げた紙の札とは思えない飛び方は、お札の裏に書いた名と図柄の効果だった。

 効果はてきめんだった。雷に打たれた獣の体が硬直する。鍋島さんが獣の背後に回る。腕が密集して生えているのは、体の前面だった。背面から正確に、たぶん心臓のある場所を、仕込み杖が貫いた。

「フグウゥゥッ! ブブゥゥッグボオォォ……!」

 悲鳴に濁った息が吐き出される。獣が膝を折り、背後から獣を貫いた鍋島さんが、その背中に体重をかけるようにのしかかっているのが見えた。ようやく足から力が萎えた。その場に尻から落ちて、這うような姿勢になって崩れ落ちた獣を同じほどの高さで見る。鍋島さんが仕込み杖を一度引き抜き、再度背中に突き刺す。獣がまた悲鳴を上げたようだったけれど、口を開けたのが見えただけで、音はほとんど聞こえてこなかった。耳鳴りすらしない。音が全部ぼやけて聞こえる。視界も、あまり良好とは言えなかった。水の中で目を開いた時に近いだろうか。目蓋が落ちそうだったが、気力で起きていた。獣が消えていないということは、まだ死んでいないということだった。まだ終わってはいないのだ。

「うわっ……!」

 獣が身を捩る。力が尽きかかっているとはいえあの巨体だ。仕込み杖をまた引き抜き突き立てようとしていた鍋島さんが振り払われる。苦しげに目をすがめた獣が這いずってくる。もう一歩だって動けない私の、手が届くほどに近いところにまでそれは来ていた。気付けば息が当たるほどに間近に、獣の顔があった。立った一箇所だけ人間味を残した目が、恨みと憎しみと欲望に血走っているのが、それだけが鮮明に見えた。

 右手を目に向けて振り下ろした。

 嫌な感触が腕を伝う。ナイフすら持たず拳を振り下ろしていたことに気付いた。目を潰し、骨を殴る、とても嫌な感触が手にこびりつく。うぅ、と呻いたのは私だったのか、それとも獣の方だったのか。

 血とも涙ともつかない赤黒い液体が目から流れている。それを見つめていると、獣の頭上から顎にかけてを仕込み杖が貫いた。獣はもう声すら上げなかった。どろりと溶けるように、形が失われて空気の中に消えていった。

「明星さん……! 明星さん、ああ……すみません、僕が、僕がしっかりしてたら、こんなことには……」

 獣が消えると、鍋島さんの顔が見えた。視界が霞んでたせいであまり見えてはなかったけれど、泣きそうになっているのが声の調子で分かった。ああうん、分かる分かる。仕事でミスると泣きそうになりますよね。けど、

「気に……しないで、ください……」

 言葉はちゃんと声になっているだろうか。自分の耳には聞こえていても、相手の耳に届く声量じゃない。陰キャあるあるだ。まあ何にせよ、その一言を言っただけで残っていた気力が根こそぎ尽きた。今日は頑張りすぎた。地面に大の字にぶっ倒れる。


 目を閉じれば、眠りはすぐそこだった。こういう時は眠っちゃ駄目なのだという。意識を保っていないと、そのまま死に向かって転げ落ちるのだとか。

 別にそれならそれで――なんて思ったのは、病院のベッドで目を覚ました後少ししてからだった。

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