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 鍋島さんが走り出した。遅れてその背中を追って走る。大峠さんに一言何か言った方がよかったのかもしれない。が、あっちもプロだし長年の経験だってあるだろう。言わなくたって自分で判断してくれるはずだ。……どっちにしろ、足を止めてる暇は無かった。

「鍋島さん、どうしますか!? 対獣課に連絡は……」

「まず状況把握に努めましょう! 縄張りを確認次第連絡を……それともし獣を発見しても、明星さんはまだ縄張りの中に入らず周囲の警戒と、一般の人が寄り付かないよう誘導と場の隔離を!」

「分かりました!」

 話してるうちにキャンプ場へと下りていた。鍋島さんはロッドを握り締めている。テントの間を走り抜けていく私たちを、キャンプ客が不思議そうな顔をして見ている。テントがある地帯を突っ切ると、その先にはコテージがぽつぽつと森の際に立っているのが見えた。そこまで来ると声がはっきりと聞こえるようになった。唸るようなくぐもった、吠え声。――獣だった。

「建物の中……! 明星さんは、僕が合図したら建物を囲むような感じで封鎖してください! 中にまだ人がいるかもしれません!」

「わ、かり、ました……!」

 走りすぎて息が切れていた。体力作りもしないと不味いかもしれない、と場にそぐわないことを思いながらコテージの前で足を止める。鍋島さんは止まらなかった。コテージの中へとドアを開けて入る。コテージはオートロックではないのか、鍋島さんは建物の中に姿を消した。鍋島さんの合図を待ちつつ息を整え、周囲の様子を伺う。コテージ同士はかなり離れている様子で、別のコテージが木の陰の向こうに辛うじて見えている。こっちの様子には気付いていないかもしれない。いや、吠え声があるし何かには気付いていてもおかしくない。だとすれば、少なくともこの建物の中に入れないようにしないと。

 鞄の中から銀のケースを出す。名刺入れのようなそれにはお札が入れられている。そこから、マネークリップで束ねられた数枚の札を引っ張り出す。

 お札には、表に『天太玉命アメノフトタマノミコト』とあり、裏に『天児屋命アメノコヤネノミコト』とある。その文字を縁取るように、上下にしめ縄の絵が描かれている。字も絵も下手くそだが、辛うじて判読できる範囲には収まっているはずだ。どちらも、天照大御神の岩戸隠れに出てくる神様だそうだけれど、これを作るまでは名前すら知らなかった神様だった。不信心をお許しくださいなどと、いまになっても大して信仰していないくせに思いながら、鍋島さんの合図を待つ。

 しかし、合図よりも先に中から飛び出してくるものがあった。人だ。人がごろごろと四人一気に出てきた。その先頭にいるのは、原田さんだった。

「ひーっ! なんだあのクマ! ちょっと鍋島さーん!? 無理ですよ、猟友会の人呼んできましょうって!」

「くっそ! なんでクマがこんなとこに出んだよ! 責任者に訴えてやる!」

「んなもん後にしろよ! 逃げるぞ!」

「やべえスマホ忘れてきた!」

「取りに戻れねぇよ置いてけ馬鹿!」

 原田さん以外の三人、恐らくここの宿泊客だったのだろう男三人が凄い勢いでコテージから逃げていく。一瞬呆気に取られていたが、彼らが出てきた直後に、一筋の光がしゅっと開いたドアから飛んできた。鍋島さんが携帯している、信号用の手持ち花火だった。合図だ。

 まずは出入り口を塞ぐ。鍋島さんが恐らく内から閉じたドアに走って近づき、持っていたお札を貼る。天太玉命と天児屋命としめ縄――岩戸の内にこもった天照大御神が岩戸から出た後、しめ縄で岩戸を封じたとされている二柱の名前としめ縄は、封印の意味だ。込める魔素の量によって、強度と範囲が変わってくるらしい。数値的に何メートルか(私のお札は一枚で半径5メートルほどだと言われていた)は聞いているけれど、本当に効くところは見ていない。頼むから効果があってくれと祈るような気持ちで、コテージの周りを時計回りに回ってお札を貼る。合計五枚。星形に配置することで効果が強まるのだと聞いていた。

「鍋島さああああん! 明星さああああん! 逃げましょうよおおぉぉ! 無理、無理ですって!」

 ドアの前まで戻ると、原田さんがまだ大声を出していた。周りの人に気付かれるから止めてほしい。いや、むしろ気付かせた方が良いかもしれない。もしこの封鎖を破って獣が出てきたら――そしてもし、別の場所に逃げ込み、逃げ込んだ先で人を襲ったら?

「原田さん、周囲の人にクマが出たって……管理棟の方に避難誘導を」

「わ、わっかりました! 行きましょうすぐ行きましょう! …………って、明星さん! 行きましょうって!」

「私はここで待機します。何かあったら鍋島さんをフォローしないといけないんで」

「いやフォローって、鍋島さんに何かあった時点でフォローなんてできっこないですよ! 中のあれ、めちゃくちゃ恐かったですよ見た目!」

 ところで、獣祓い師以外の人から見た獣は一律クマにしか見えないようになっているんだろうか。いや、もう外見なんてどうでもいい。ともかく、

「私はここを離れられませんので」

「だっ、駄目です、逃げるんなら明星さんも一緒に」

「――原田ぁ! なにをやっとる!」

 ああ助かった、と思ってしまった。別に原田さんだって悪気があるわけじゃないんだろうけど、申し訳無いが仕事の邪魔です。

「明星さん、鍋島さんは? もしや中に!」

「ええ、獣が出ました。すみませんが、私はここを離れられないので……周りの人たちを、安全なところへ」

「分かりました。どうかそっちもお気を付けて。おい原田、いつまで腰を抜かしとるか! というかお前、スマホはどうした!?」

「なっ、中で落としちゃったんですよ! しかもクマが踏んで……ああ~まだ買ったばかりだったのに!」

「そんなもんどうでもいいわ! 早く避難誘導しろ、お前はあっちの方からだ!」

 原田さんと大峠さんが、二手に分かれてまずはコテージ客の誘導に入る。私はただ待つことしかできない。中で何が起きているのか――縄張りと化したコテージの中からは、一切の音が聞こえてこない。縄張りそのものが、ある意味では現世から隔絶されたような異界の一種なのだという。そこに封印まで仕込んでは音どころか空気一つ漏れ出る余地すら無い。

 一瞬で暇になった。暇になっている場合では無いのに。こういう時、自分から仕事を見付けなさいと前の職場ではよく言われていた。一方、勝手に仕事をやればそれはそれで叱られることもあった。確認をすれば面倒くさそうな顔をされる。何をしても叱られるなら、何もしないのが一番楽だ。

 楽なことが好きだ。しかし、いまは楽をしたくなかった。中に入って少しでも力を貸せれば、そのまま獣に八つ裂きにされてもよかった。正義感とかそんなものじゃなかった。ただ、自分が何もせず、全てを鍋島さんに任せているのがいたたまれなかった。

 それでも待つしかない、と我慢して待つ。


 バチン!


 待っていると、どこからともなく音がした。近い。建物から聞こえたような音だったが、中からの音では無いはずだ。だとすれば外――コテージの裏手辺りだろうか。何かあったのか。この場に待機するかどうか、迷ったのは一瞬だった。

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