三章『三十路女、獣と戦う』
3-1
魔法のようなものといったものの、説明されたとおり道術はゲームやアニメで見るような魔法みたいな派手さは無かった。
墨に魔素を入れ、その墨でお札を作り、作ったお札からまた魔素を集める――というのを、道具の補助を用いながら繰り返しやる。この地味な作業の繰り返しが『刻印』『放出』『受容』の三つの型の基礎訓練のようなものだった。
刻印の型に該当するお札作りの作業の後に習った、道具から魔素を抜き出す訓練も、地味ではあるが重要なものだ。獣祓い師が魔素の補充する時にも使ったりする手段らしいが、それ以上に、劣化した道具から溢れた魔素に釣られて獣が寄ってこないようにするのが主目的らしい。
そういう作業じみた練習の傍らで、他のことも少しずつ教わっていく。鍋島さん愛用のダウジングのやり方や、獣祓い師にしか分からない目印の付け方。書いて効果のある祝詞や呪文、図形の書き取り。ともかく地味な反復作業だった。
ただ、不思議なことに、単純な繰り返しがきついとは感じなかった。
普通に働いていた時は、何も考えずに指示を聞いて仕事をしているだけだったはずなのに、何故かそれが苦痛だった。自分で考えクリエイティブな仕事が出来るような人間でもないのにそれだから、自分は本当に駄目な人間なのだとしか思えなかった。
あの時との差があるなら、たぶん鍋島さんは比べる材料を見せない、というのがあるだろう。誰かと比べて仕事が遅いだとか、普通はこのぐらいできるだとか、そういうことは言わない。比較対象を出す時があるとすれば、それは『自分ができなかった時』の話だけなのだ。自分も同じぐらい時間がかかった。それ以外の情報は無いから、否応なく『私が知ってる獣祓い師の平均値』は鍋島さんの速度そのままになる。そして、鍋島さんと私の『早さ』は、どうにもマッチしているようだった。
気楽だった。気楽だと、本当に楽で良いのかとまた思う。楽ならばいいじゃないかと理性的に反論しても、楽をするなと何故か自分で思うのだ。楽をして、生きていたくせに。
しかし、私がどうあれ、獣が出ないと獣祓い師の仕事というのはほとんど無くなる。鍋島さんはここ最近起きた獣の事件――つまり私が立ち会った二件について警察と何やら話しているようだったが、それも一、二回程度だった。
「いつもなら、もっと各所に説明を施すんですけどね」
そう言う鍋島さんは、微笑みに苦笑を混ぜ込んだ、少し複雑そうな顔をしていた。
「今回は本当に、被害者が少なくて済んでるんです。獣の説明をするのは、獣の被害に直接会われた方や、獣を目撃された方だけなので……」
被害者や目撃者は、先の二件で合計五人。死者三人、生存者が二人。目撃者の一人が私で、死者のうちの二人が私の両親だった。鍋島さんが深くを語らなかったのは、たぶん私に配慮してのことなんだろう。家族の惨殺、というのは普通ならトラウマものだ。親不孝なことに私はこんなだが、きっと、被害者と対面する時には、こうして注意を払うべきなのだろう。
実技についてはできそうだという感覚があった。ただ、鍋島さんのように人に接することができるのかと、そればかりが心配だった。
――しかし、私がどれほど心配し、そしてできればその仕事はやりたくないなぁなどと甘ったれたことを考えても、事件は起きる。
その日は家で自習をしていた。出勤は週五日。週に二回は休みで、その日は土曜日だった。夜、夕食を食べ終えて歯磨きをしたところで鍋島さんから電話があった。
『明星さん。……出たかもしれません』
緊張感に満ちた、固い声だった。獣の出現であり、私の初めての、獣祓い師としての戦いだった。
戦いと言ってもやることは補佐が中心だ。元より前に出て武器を振るうための人員ではない。まずやることと言えば、鍋島さんの代わりに警察と連携を取ることだった。鍋島さんには、出現した獣の追跡に専念してもらう。
「まだ、目撃証言だけなんですよね」
車中。ハンドルを握る鍋島さんに尋ねる。柔和な顔を緊張に引き締めている鍋島さんが、首を縦に振る。
「確定情報ではありませんが、ただ、先日キャンプ場で二人、行方不明者が出ています。目撃証言もその辺りです」
「……獣が見える人が、偶然そこにいたと?」
「獣が常に、縄張りの中にいる人に気付くとは限りません。獣の縄張りに取り込まれたものの獣に発見されず、被害に遭わずに見逃された可能性もあります。獣は警戒状態になると、自分から人を遠ざけるために縄張りを拡大することがありますから……後から入ってくることはできなくとも、近くにいた人を取り込むことはあります」
獣が目撃されたのは、北地神社からだいぶ北に行ったところにある山の中だという。山、といっても標高はそう高く無い。人が多く訪れるキャンプ場があるぐらい、気軽に行ける場所だ。そこで獣を見たという人が現れたのだ。
「でも、どうしてそんな目撃情報があったって分かったんですか? 鍋島さんのところに通報があったりするんですか?」
「ああ、いえ。事務局の方から……事務局というのは、つまり本庁にある獣祓い課のことなんですけど。そこから、ネットに獣の動画がアップロードされたっていう話がこっちに来て」
「ネットに、ですか……」
現代社会ならあり得る話だった。ここ一ヶ月の研修期間中にも鍋島さんには色々と教わっていたが、幽霊が非物質的な存在であるため目に見えないのに対し、獣は物質的だから目に見えるし、写真にも写るのだという話だった。当然動画も撮れるし、画像や映像をネット上に流すこともできるというわけか。
「それ……拡散すると、ヤバくないですか」
「だいたいはクマやイノシシの見間違いで片付けられたり、あとはコラ画像とかCGだとかそういう風に片付けられてるみたいですね。……もし信じてしまった人がいたとしても、どうにかして『無かったことに』するのもこちらの仕事です」
「どうにかして……」
「あまり、気分の良い話じゃないですよ。でも……後でお教えします。獣祓い師としては、やらなければならない仕事なので……」
本当に、胸を痛めているみたいに鍋島さんは目を細めていた。口を閉ざせば空気が重くのしかかる。景色はいつの間にか山野に入っており、暗い道を車のライトが照らしているが、光の当たらないところは気味が悪くなるほど暗い。夜の雰囲気も相まって、重苦しいとすら感じられる空気だった。
「その……まずは現場に行って実際に獣がいるかどうかを確認して、それから警察に連絡という手順でいいんでしょうか」
重苦しい空気に耐えかねて、そんな話をする。目の前の問題に対処する話の方が、まだ多少は明るい話題だろう。こういう目論見は、思い付くことも試すことも成功することもそれぞれあまりないことなのだが、鍋島さんの表情を見る限りではどうやら上手くいったらしい。
「そうですね。ネットに流れた画像を解析する限りでは、獣だろうと推定されていますが……実際に見間違いでは無いと断定する材料を得て、それから行動範囲を推定しつつその情報を警察に伝達します。警察の方も、この間の行方不明事件とこの件を関連付けて捜査しているみたいなので、何か良い情報が得られるかもしれませんね」
「分かりました。……獣の捜索と追跡、私もやった方が良いですか?」
「そうですね。実地での訓練も、やれる時にやっておきましょうか」
鍋島さんの返事を聞いて、肩にかけた鞄へと無意識のうちに手をやっていた。側面から手で軽く押さえた鞄は、登山道具のメーカーが作っている頑丈で撥水性のある生地の鞄だった。ごつめの肩かけ鞄の中には、財布やスマホと一緒くたになって、獣祓いの道具が詰め込まれている。銀製のケースが一つと、厳重に封がされた墨壺が一つ。先端にキャップがされた筆が数本。ピルケースに入れられた数個の指輪。お下がりのダウジングロッドが一組。基本的に使うのは、たぶん追跡に使うロッドと、後は銀のケースに入れたお札だけだろう。
車は、ヘアピンカーブを二、三回曲がって山を登り、やがてキャンプ場へとたどり着いた。
駐車場に車を止めて降りる。キャンプ場にはテントが幾つか設置されている他、コテージもあった。駐車場の近くにはレストハウスとコテージの管理棟を兼ねた建物があり、建物の前に周辺地図が描かれた看板が立っていた。一応、それをスマホの写真で撮っておく。
一方、鍋島さんは近くのキャンプ場を見下ろしていた。そして呟く。
「……人が結構いますね」
「夏、ですし……シーズンなんじゃないですかね」
独り言だったのかもしれないが、一応会話してみる。「そうですねぇ」と鍋島さんはまた呟く。潜むような小さな声は、どこかでキャンパーがやってるらしい花火の音にかき消されそうだった。
「……縄張りがあるとはいえ、人目のある方にある方にとなると目撃者も多く出そうなもんですけど。でも、みんな知らずに生きてるし、ここの人たちはまだ襲われてもいない」
「ここにいるかもしれない獣には、人を襲う理由が無いのかもしれませんね……もっともその意識も、いつまでも保つものではありません。獣は人ですが、時間が経てば経つほど、死体が土に帰るように、身も心も人の形から崩れていくものですからね……」
それは繰り返し聞かされた話でもあった。獣は強い感情を持ち、それを基に人を襲う。……しかし、獣は人であり、人と獣の意識を行き来している。時間が経てば経つほど、獣が人を襲う確率は増えていくと言われている。鍋島さん曰く――『まるで自分だけが獣であることに、耐えられなくなったように』と。
鍋島さんの体感がどこまで合っているかは分からない。ただ、時間をかけるのはともかく危険なのだということだった。
鞄からダウジングロッドを引っ張り出す。鍋島さんもウエストポーチからほとんど同じ形のロッドを出していた。夜のキャンプ場、男と女が集まって、両手にダウジングロッドを持ってうろうろ。果てしなく不審者だ。キャンプ場の利用客に見つかりませんように、と思いたくなってしまう。
まあ、こういう時は良い方に考えるに限る。一人じゃなくてよかった。そう考えるしかない。一人でこんなところをしているのを見られるのは、たぶん二人でやってる状態よりもいたたまれない。
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