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 獣祓い師になるための書類を一通りダウンロードしてもらい、必要書類に名前やら住所やらを書いていると、お昼になっていた。


 お昼になると、事務所の玄関が開く音がした。神主さんが帰ってきたのかと思えば、黒猫が音もなく澄ました顔をして居間に入ってきた。なんだ猫か……などと思ってると、その後ろから狩衣を着た、どこをどう見ても神主という出で立ちの人が出てきた。顔を見ると結構なおじいちゃんに見えたが、背筋はしゃんと伸びている。神主……鍋島さんは宮司さんと言ってたっけ。分けて言ったということはたぶん両者には厳密な違いがあるんだろう。

「お疲れさまです、望月さん」

「はい、お疲れさまです、鍋島さん。お忙しそうですねぇ、お昼は私が作りましょう」

「いえ! 僕が用意しますよ……っと、そうだ。よろしかったら明星さんもどうですか? って言っても大したものはできませんけど」

「え、いいんですか? じゃあ……」

 本当は、あまり交流の無い人どころか職場の人とも食事を食べるのはあまり好きではない。のだけれど、どうにも職場のような堅苦しい感覚が無いおかげか、幾分か楽な気分でそう言っていた。まあ……相手が相手だからというのもあるけれど。親を亡くし、獣に襲われてからこっち、人に対して気にかける感覚が死んでしまったような感じがある。それがこうして、他人と食を共にするなんていままであまりしてこなかったことを可能にしてるのかもしれなかった。

 鍋島さんがキッチンに向かった。宮司の望月さんは被っていた帽子(烏帽子、だったっけ)を脱いで部屋の隅に置くと、そのままの格好で座布団をちゃぶ台の前に置いて座った。私とははす向かいのような感じで、直接視線が合うことは無い。ちょっと気まずいような気がしたが、それもすぐに薄れた。

 鍋島さんがキッチンから持ってきたコップを受け取って麦茶を飲むと、望月さんはおもむろにこちらに声をかけてきた。

「鍋島さんはね、真面目で良い人ですからね。何か相談事があっても、遠慮無く打ち明けられるとよろしいですよ」

「あ……はい」

「気苦労をかけられる方が、逆に気分が乗る様子ですからね。何もできることが無いと分かると、落ち込んでしまうような人です。迷惑をかけてもそれは、鍋島さんには燃料のようなものですから。変に遠慮するよりも、頼られると楽でしょう」

「……分かりました」

 軽く頭を下げる。鍋島さんはどうやら、真性のお人好しらしい。人に頼るのはちょっと苦手だけど、これが本当なら少しだけ、気分が楽になるかもしれない。

「…………そういえば」

 数十秒ほど経って、また望月さんが口を開く。絶妙に、沈黙が気まずくならないタイミングだった。

「この場所以外で、のく太に会えたみたいですね。あの子は中々気難しくて、気紛れで……会えるのは運が良い証拠ですよ」

「はあ……」

「どれほどの不運の中でも、幸運というのはやってくる人にはやってくるものです。しかし不運の中で小さな幸運を探すのは、雨の日に流れ星を探すようなものかもしれませぬな……」

「まあ、そういうものですかね……見えませんし」

「だからこそ、偶然の運よりも、人は必然を求めるのでしょう。定めや運命といった、不動だと思えるものを。

 まつろわぬものは人を安心させるものです。船乗りが北極星を見るように。いまは見えずとも、かつては見え、そしていつか見えるものを大事にする。変わらなかった部分が、恐らく人にとっては、一番大事なのでしょうなあ……」

 深いような、深すぎて分からないような。こっちが難しく考えているのを察してか、望月さんは「いや、すみませぬ。説教臭いお話でした」と微笑んだ。ちょっとほっとする。何と言うか、押しつけがましくない。望月さんは自分の思っていることを喋っているだけだった。

 同意できない部分も、あると言えばある。変わらないところが大事だとは、自分には思えない。それは変われない自分が大事では無いからだ。怠惰な自分。……本当は、獣祓い師になるのも、普通に就活して仕事をするより楽なんじゃないかって、頭の隅でそう思ってるからだ。ぐうたらな考え。ずっとずっと変わっていない。それが一番大事だなんて――でもそれは、私の考え。そしてきっと、これを言っても望月さんは、ただ微笑んで受け入れてくれるような気がした。だからこそ、言わなかった。結果は分からなくていい。裏切られる不安と、裏切られないだろうという確信があったから、言わなかった。

 代わりに聞いたのは、猫ののく太のことだった。

「ところで……のく太って、宮司さんの飼い猫なんですよね」

「ええ、そうですよ。境内に捨てられていたので……もう十年ほど前になりますかね」

「捨て猫だったんですか……でも、どうしてのく太って名前なんでしょう」

「ああ、それはですね。鍋島さんが付けてくれたんですよ。私が拾ってきた時、ちょうど音楽を流していたんですよ。ショパンの夜想曲ノクターンです」

「あー、それで、のく太」

 鍋島さん、クラシックが好きなんだ。間延びした感じの名前のわりに、意外と高尚な出自だった、のく太。

「でも、鍋島さんが曲を聴いていてくれてよかったですよ。あの時、買ったばかりのスマートフォンの使い方がよく分からなくて。大音量で鳴らしてしまってたんですよねぇ……いやはや、蓄音機でもカセットデッキでもない、携帯電話で曲が聴けるようになるなんて、凄いですよね」

「……あ、宮司さんの趣味でしたか」

 最近のおじいさんは高性能だ。スマホも使いこなすなんて、というのは年齢に対して色眼鏡をかけすぎだろうか。まあおじいさんだろうが宮司さんだろうが、現代に生きてるんだからスマホぐらい使うだろう。むしろ、現代に生きる女の自分がSNSの一つもろくにやってない方が珍しい。珍獣に近い。

「望月さん、明星さん」

 と、鍋島さんがひょっこりと台所の方から顔を出した。本当に、顔だけを出す感じだった。

「お蕎麦湯がいてるんですけど、ざるでいいですかね?」

「私はそれで結構ですよ」

「あ、じゃあ私も」

 この暑い時期、ざる蕎麦以外の選択肢は無いと思うのだが、何故か便乗している感じに言ってしまう。お前に自分の意思は無いのか。いや、意思はざる蕎麦一択なんだけど。



 蕎麦はすぐにできた。そりゃそうだ、蕎麦だ。四角い漆塗りの器に竹のざるが乗った、お店で見るような食器に蕎麦が乗せられていた。三人分の蕎麦がちゃぶ台に置かれた。

 作るのも早ければ、食べるのも早い。

 蕎麦以外の食べ物が無かったというのもあるだろう。一人前より少し多い印象を受ける蕎麦を、各人ひたすら無言ですする。人前で蕎麦すする女はどうなのか、と一瞬思ったが、すすらないで食べる食べ方を知らない。それは蕎麦の食べ方では無い。だし醤油に刻みネギと少しのわさび。それに加えて、オプションでゆずも付いてきた。半分ほど食べてゆずを搾って食べる。いままで食べた蕎麦の中で一番美味かったかもしれない。つい数日前に出会ったばかりの男の人と、今日初めて会った宮司さんと一緒に食べる蕎麦が、何故か家族で食べた蕎麦より美味く感じて、それが少しだけ死んだ親に申し訳なかった。



 望月さんは蕎麦を食べると、また社殿の方へと戻っていった。鍋島さんは申請書類の確認をすると、それを郵送しに近所のポストへ。

 私はというと、人の家で勝手にテレビを見ている。

 人としてどうなのかと少し思う。思うのだが、別にやることも無い。やることが無いというのは楽でいい。それは自分から仕事を見付けていないだけだ、という前の職場の店長が言った言葉が思い起こされる。仕事が遅いと叱られたが、仕事を全部やってほっとしていても叱られていたな。

 ……そういう意味で、私は鍋島さんを侮っているのではないだろうか。

 馬鹿にしてるわけじゃない。でも、鍋島さんなら、失望してもそれを強く言ったりはしないのではないか。そんな甘えた考えが頭を過る。関係の浅いに人に対する甘えなんて、見下しとどう違うのか。少し気が緩んでいるのかもしれない。

 失敗だったと言われた。生き方が。母親から。

 凄いねと言われた。ちょっとした料理を作っただけで。父親から。

 邪魔だと言われた。仕事中にまごまごしてて。職場の先輩から。

 態度が悪いと言われた。具体的にどうすればよかったんですか、上司。

 どうすれば、自分は誰からも、何も言われないような人間になれたのか。当たり前のことを当たり前にして、誰からも、何も言われないようになれたのか。相手が悪かった、鍋島さんならきっと、なんていうのは逃げなのだろう。自分だって、自分の至らないところは分かっている。どうすればいいのか分からなかっただけで。

 鍋島さんなら、教えてくれるだろうか。頼って良いといった望月さんの言葉をどこまで信じていいのだろうか。いつも通りに、よく分からないまま午後は少しずつ過ぎていく。テレビはワイドショーをやっている。世間のことは分かるかもしれない。分かれば分かるほど、世間での生き方は分からなくなっていく。だからただ、何か大変なことがあっても、自分はいつも傍観者だ。頑張れよ。自分の側にいない誰かに対して、たまにそう思うだけ。


 けれどいまから、自分は当事者になりに行くのだ。スーパーで品出しして、後はご自分で選んでくださいうわけにはいかない。自分が獣を探し出して倒すのだ。

 頑張るのはついに自分になった。いつだって、人並みに頑張れなかった、自分が。

 そう考えれば獣祓い師になんて私がなれるはずは無いのだけれど。しかしやりますと言った以上、やるしかなかった。いいじゃないか。人はストレスが無いと自分から死ねないのだ。逃げられない場所に自分を追い込んでいけば、死期だって早まるし、死ぬ気だって強まるだろう。


 死ぬ気になるため、やる気になるしかないのだ。怠惰すぎて、死ぬことすらできないのだから。

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