二章『三十路女、獣祓い師(見習い)になる』
2-1
そうだ、獣祓い師になろう。
恐らくそんな気軽になるものではないと思う。ただ、死にたいと漠然と思いながらも、死ぬための行動を起こす踏ん切りがつかない以上、貯金を切り崩しながら生きる日々はいつか限界が来る。切羽詰まって死ぬのは死に方の自由が無さそうで嫌だ。もっとも、自殺なんてものは普通切羽詰まってからやるもので、何も無いのに死ぬのはただのめんどくさがりなだけだ。生き方がだらしないのだ。
ともかく、思い立ったからには、やる。
昔から、やらなきゃいけないことには時間がかかるくせに、どうでもいいタイミングで急に行動する悪癖があった。三十年生きていて治らない悪癖など抗ってもしょうがない。
決めたタイミングと示し合わせたように、鍋島さんからも連絡が来た。健康診断、いや
外は相変わらずの暑さだった。夜にはもう、昼夜が分からないセミが鳴くこともなくなって、代わりに秋の虫の声が聞こえるようになってきていたけれど。昼間は相変わらずの猛暑だ。それでも徒歩よりだいぶ気分はマシだった。
北地神社の境内では、相変わらずセミが合唱をしていた。風が吹いていたし、アスファルトのように熱が照り返してくることも無い土と砂利の境内は幾分か涼しかったのかもしれないが、セミの鳴き声のせいで暑さが割り増しされているような気もする。念のために、と珍しく要領良く持ってきていたタオルで首回りの汗を拭く。ほったらかしにしていた首が背中を覆っていて暑い。切るとまでは言わなくとも、せめて括ってくればよかった。
……ところで、自転車はどこに止めればいいのか。ああ、あった。ちょっと大きな神社だからか、駐輪場がある。自分以外に止めてる人は誰もいなかった。がらんとした駐輪場に自転車を止めると、境内を横切って鍋島さんの事務所に行く。チャイムを鳴らすとすぐに鍋島さんが顔を見せた。挨拶もそこそこに、居間に通してもらう。
「すみません、本当は僕が明星さんのお宅に向かうべきだったんですけど」
「いえ……猫ちゃんも見たかったですし」
建前である。鍋島さんにはまだ、獣祓い師になりたいという話を持ちかけていない。電話口で「そちらに向かいます」と言ったためにこういうことになっているのだった。
「ああ、のく太ですか。あの子は気紛れで……境内のどこかにはいると思うんですけどね」
「鍋島さんが飼ってるんですか?」
「僕が、というより神社の飼い猫なんですよ。僕は出向職員というか、長期出張でこちらに間借りさせていただいているような身分なので……」
「……あれ、この神社って神主さんいるんですか?」
「宮司さんなら、本殿の方にいまはいらっしゃいますよ」
意外だ。神社ってよほど大きくないと、神主さんが常駐してないものだと思っていた。というか、そうなると鍋島さんはもしかして神主さんと同居してるってことなんだろうか? 境内には他に建物も見えないし。
「それで、診断の結果ですが」
「あ、ああ、はい。そうでしたね」
主題はそれだった。少なくとも鍋島さんにとっては。「こちらが結果になります」と言って手渡されたのは大判の封筒だ。本当に普通の健康診断みたいな感じだ。
「ここで見させてもらっても?」
「ええ、いいですよ」
封筒を開ける。中身を見ると、もはや『みたい』ではなく九割方が健康診断だった。血圧とかコレステロールとか糖質とかが書いてある。獣に関する資料は、別の用紙に書かれていた。一枚の、少し厚めの紙だ。下の方、三分の一ほどは数値の説明のようだった。
「ええとですね……一番大事な、獣化に関する数値が一番上の欄なんですけど」
「はあ、これが……高かったら獣になってるってことなんですか?」
「一定数以上で獣になる、ということは無いんですけどね。ただ、高かったら変化しやすいというのは確実です。なりやすさとしては、その獣素という数値が、魔素の数値を上回ると変化しやすい状態と言えますね」
「魔素……ですか」
獣素はまだ何となく分かる。ウイルスみたいなものだと思えば。魔素。急に非現実な要素がまた出てきた感じがする。いや、獣素の時点ですでにいままで生きてきた常識から大きく外れてるのだけれど。まあいいや。
獣素の欄を見てみる。ああ、魔素よりは低い。だいぶ低い。どこまで信じていいかは分からないけれど、ちょっと安心する。自分の命の価値は置いておくとしても、流石に獣になって人を襲うのは色々と具合が悪い。
「大丈夫……みたいです。魔素よりだいぶ、獣素が低いみたいですし」
「そうでしたか! よかったですね」
「ところで、魔素って何なんですか?」
下の方にある説明欄を見れば分かるのだろうが、読むのもちょっと面倒だった。
「魔素、というのは獣素の活動を抑えるものですね。人だけじゃなくて色んなものに宿るんですよ。パワースポットってありますよね? 本当に、土地に魔素が沢山含まれている場所があったりするんですよ」
「……あの、適切じゃないかもしれませんけど、ゲームとかでいう魔力みたいなものでしょうか」
馬鹿っぽい質問だったけれど、鍋島さんは大きく頷いてくれた。
「似た感じかもしれませんね。魔素が高いと、魔法みたいなもの使えますし」
「えっ」
「あ、魔法って言ってもこう、ファイアー! って叫んで炎が出るとかじゃないんですよ! 似たようなことはできなくもないですけど……どちらかというと、道具を使って何か効果を及ぼすことの方が多いですね。獣は物理的な存在ですけど、同時に超常の存在ですから。完全に消滅させるには、どうしてもそういうものに頼ったりするんです」
つまり、魔法道具みたいなのを使うために魔素を使う、と。真っ先に思い浮かべたのは、神社に引っ張られてかお札だった。
……まあ、それはそれとして。
「魔素の数値が高いと、やっぱり獣祓い師はやりやすいんですかね」
「あ……ええ、そうですね。……あの、ちょっと見させてもらってもいいですかね? ええと、獣素と魔素の数値だけでいいので」
何故だろう。思うところは一緒なのに腹の探り合いをして、実は別のことを考えてるかもしれないという発想が思考の大半を占めている感覚がある。お互いに。
「失礼します……わぁ」
鍋島さん、反応が素直すぎる。たぶん高かったんだろうなぁ、魔素が。獣素が高いってことは無いと思う。2って書いてあったし。
「あ、いえ、すみません。ちょっとびっくりして」
「……やっぱ高いですか?」
「高いですねぇ」
「高いですか……」
格ゲー初心者同士の差し合いのような、微妙な距離で恐る恐るパンチを出してるようなやり取りをしている気がする。本題が、本題が遠い。
「あ、あの……鍋島さん」
「はい?」
「私でも、獣祓い師になれるんでしょうか」
「あっ! な、なれますなれます。一応国家公務員なんで、正式になるにはちょっと時間がかかりますけど……でも、獣祓い師の従卒や見習いという形なら、それはもういつでも!」
「武器持って振り回したり、とかやったことないんですけど……」
「大丈夫ですよ! 最近は未経験どころか知識ゼロから始める人の方が一般的ですし! 武器を振るう以外にも獣を撃退する方法は色々とありますから!」
心なしか言葉の端々が力強い。本当に人材不足なのだろう。しかし、ここまで力強く言っていた鍋島さんは、急にその勢いを消してふと口をつぐんでしまった。「鍋島さん?」と呼びかけると、
「あ、いえ……すみません、つい。興味を持っていただけて、もしかしたらこっちに来ていただけるのかと思ったんですけど。本来的には、獣による被害者の方を獣祓い師に、とこちらから引き入れようとするのは……あまり良いことではないんですよ」
「え……そうなんですか? でも、獣のことを知ってる人の方が、なりやすいような気もしますけど」
「そうですね。獣被害から生還した人が獣祓い師になるケースは珍しくないです。でも、ご自身や親族の方が獣の被害に遭われてる方は、それだけ獣で恐い目にあった、ということなので……そもそも獣の話をするだけでも結構な精神的負担になるかもしれないんです。それを失念していて……すみません、でした」
「あー、私は大丈夫ですよ……」
たぶん、私があんまりにも落ち着き払ってるから鍋島さんとしては話しやすすぎたんだろう。別に気にしなくていいのに。畏まられるとこっちが逆に話しにくい。
「……その、今日ここに来たのも半分くらいは、獣祓い師になれるかどうか聞くためってのもありますから」
「そうだったんですか……もちろん僕としては助かりますよ! 本当に、本当に人手が足りないですから。でも……事務員としてならまだしも、現場は危ないですよ。命の危険もありますから」
それは承知の上だった。いっそ、獣祓い師になった方がすっぱりと、後腐れ無く死ねる気がする。だからこそだった。
「それでも……やってみたいと思ってます、私は」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます……ああ、そうなると色々手続きしないと。何よりもまずは、師匠になってくれる獣祓い師を見付けないと」
「え、鍋島さんが師匠になるんじゃないんですか?」
「えっ!? あっ! そ、そうか、僕が師匠になればいいのか!」
本気でその可能性に気付いてなかった、というか念頭に置いてなかったのだろうか。それとも、師匠になるにもそれなりに制約があるんだろうか? と思ったがそうでも無いらしい。
「それじゃあ、とっ取りあえず、そのための書類をまず用意しないと……ああっ、申請書類とかどこしまったっけ……! そもそもあったっけ……」
「……ダウンロードとかってできないんですか、書類」
「! で、できる気がします!」
書類をダウンロードできる……つまりこういうことを受け持つホームページがあると? 一般人の目に付かないようアクセス制限があるとか、あるいは会員制になっているとかなんだろうか。お役所のホームページというかネットに対する策は微妙に信用ならないが、ともかく利用しないことには始まらない。
とはいえ、私はやることが何も無い。取りあえず、暇になったのだから手始めに冷えた麦茶を飲み、そして診断書を眺める。見る人が見れば、こんな健康なのに死ぬなんてもったいないと説教しそうなほどに健康だった。強いて悪いところを言えば、血圧が低いぐらいだった。
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