1-4
獣の話は興味深かったものの、ひとまずは検査した方がいいということで、説明は一旦打ち切りとなった。指定医療機関はいま私たちがいる北地神社から車で三十分ほどの場所にある病院で、親切にも鍋島さんの車で送ってもらった。
「僕はちょっと報告を兼ねて警察に出向かなきゃいけないんで……検査がもし先に終わりましたら、ロビーの方で待っててください。それと、何かありましたら名刺の番号にかけてもらって大丈夫ですよ」
「はい。何から何まで、すみません」
「いえ! こういうのも、仕事ですし」
鍋島さんはぺこぺこ頭を下げて言う。頭を下げるのは癖なのかもしれない。きっと電話をしながら、相手に見えてないのに頭を下げるタイプなんだろうな、とふとそんなことを思ってその背中を見送った。
さて、検査だ。
とはいえ何か変わった様子もほとんど無い。この辺では五本の指に入るぐらいに規模が大きい総合病院で、私が向うよう言われたのは一般的な検査控え室だ。健康診断とかで行くようなあの場所。そして行ったのも至って普通の健康診断だ。いや、普通よりちょっと豪華かもしれない。心電図と血圧と、あと血液検査とCTスキャンと。鼻と口に綿棒も突っ込まれた。どちらかというと健康診断に、インフルエンザとかの病気の検査をプラスしたような感じだった。
一つ違う点があるとすれば受付時間だ。到着時点ですでに夜の七時を越していた。いくら日が長い夏とはいえ、検査が始まる前から空は暗い。病院の検査なんてやらない時間だ、とは思う。つまり獣になること、それに触れるというのは余程のことなのだろう。――にもかかわらず、被害者の娘である私にほとんど連絡が来なかったのはどうしてだろうか。不満があるわけじゃない。他に考えることが無かったのだ。特にCTスキャンを取ってる辺りは。
たぶん――鍋島さんの様子からして、獣についての事件はあまり大っぴらには言えないのだろう。警察が早々に捜査線上から私を外したのも、そういうことを知っている人がいたからかもしれない。しかしそうだとすると、獣祓い受け付けます、という看板は大丈夫なんだろうか。……まあ、たまたま獣を目撃して、たまたま生き延びた人がどうしようも無くなった時の救済措置なのかもしれないが。そこら辺のさじ加減が難しい職なのかもしれない。
――考えているうちに検査は終わった。全部で一時間、いやそれ以上はかかっただろうか。ロビーから外を見ると、街灯と車のライトが眩しかった。鍋島さんの方も長引いてるらしい。広いロビーにその姿は無い。ズボンに財布を突っ込んだままだったのが幸いして、自販機で飲み物を買って待っていた。
検査は一週間以内には出るらしい。私は獣が映ってるんだろうか。もし獣になりかけているのだとしたら、鍋島さんに殺されるんだろうか。まあ、私のことはいいんだけれど。鍋島さん、辛いかもしれない。あんなに人に同情する人が、獣に殺された人を見たり、獣になった人を見たりしたらそれこそ危ないんじゃないかという気がする。もし悲しくなりすぎたまま、申し訳なさ過ぎたまま鍋島さんが死んでしまったら、あの人は獣になってしまう気がした。
私はどうなんだろうか。獣が持っている心に近い人が映ってしまうのだという。私は果たして、そこまでの感情を持ってるんだろうか。怠惰、というのは感情なのだろうか。感情の鈍化という現象を指しているだけな気がしてならない。
「逆ならなぁ……」
誰もいないのにぼそりと呟いてしまう。立場が逆ならな。鍋島さんは死んでしまった人を沢山悼んであげられるだろうし、私はたぶん淡々と獣を殺せるんだろうと思う。被害者とか遺族とかに会うと、ちょっとだけ心苦しいかもしれないけれど。……まあ、武器を振り回してあんな巨大な獣を殺すだけの技量や力は無いのだし、逆だとそもそも瞬殺コースかもしれない。でも、殺されてもたぶん、獣にはならずに住むような気がした。
――しかし、遅いな。
流石に三十分も待つとちょっと遅いなという気がしてくる。暇を潰すために考えることは色々ある。あの獣が現れた時、どうして急に、背後に車が現れたのかとか。あんな巨体が誰にも見られず、マンションにいた私の親を殺せるんだろうかとか。ただ、それでも三十分は待ちすぎたかもしれない。電話でもかけてみようか、と思い、病院内で電話は駄目だろうと一度外に出る。
生温い風が緩く吹いていた。まだ暑い。いつになったら夜が涼しくなってくれるのかと思いながら、財布から名刺を出す。確か、外に公衆電話があったはず。あいにくとスマホは家に置いてきたままだった。問題は小銭があるかどうかだ。さっき自販機でお茶を買った時に、小銭を全消費したような気がする。一枚でも十円玉が残ってれば電話できるんだけれど……と、小銭を探っていると、妙な臭いが鼻をついた。焦げ臭い。魚を燃えるほど焦がしたような異臭だ。
――火事? 一見、どこからも火の手や煙が上がっているようには見えない。気のせいか、それか近所の家で料理でも焦がしてるのか。でも近所には民家らしきものはほとんど無いし。……やっぱり気のせい?
気のせい、ということにして財布の中から見付けた十円玉を公衆電話の中に入れる。あれ、硬貨入れるのって受話器取る前だっけ。公衆電話なんて初めて使ったから勝手が分からない。何よりそもそも、電話が苦手なのだ。……やっぱり大人しく待ってようかな。なんて思って周りを見る。タイミング良く鍋島さんが来てないかと思ったがそんな好都合なことがそうそう起こるはずもない。
むしろ、こういう時に限っていつも、悪い目を引く。
さっきは見えていなかったはずのものが見えていた。病院の前の歩道。道路沿いにある幅広の歩道は、道路との境に並木が生える景観の良い道だった。その景色が変にぶれて見える。ゆらゆらと揺らめく、それは陽炎のようだ。夏に、雨上がりのアスファルトの上で見るようなあれに似た揺れる景色……ただ、いくら暑いとはいえこんな時間に見られるようなものでもない。
そんな不安定にぶれるスクリーンの向こうに、大きな影が見える。嫌な予感がした。しかも見て見ぬフリができないタイプのものだ。使い方が分からないなどと言ってられない。名刺を見ながら数字のボタンを押し、鍋島さんの番号にかける。
「………………出ないか」
出るって言ったのに。いや、あの人だって忙しいんだ。……とはいえこっちも一大事だ。どういう原理で現れたのか。陽炎の向こうにいるのは恐らく『獣』だ。暗く赤い、揺らめく影が焦げた臭いを発している巨体はどう見ても人のそれではない。獣は増えている、とは言うけれど、こんなに頻繁に出てくるなんてあり得るんだろうか。それとも私の運が死んでるだけか。
ともかく、私の運がどうだろうがいるもんはいる。その現実にいるもんをじっと見ておきたくないし、いますぐにでも建物の中に引っ込みたい。……けれど、あれがもしこの辺を荒らしたら? いや、病院に入ってこられたらそれだけで大事だ。総合病院。入院して、動けない人も大勢いる。そのうち死んでやろうという怠惰な自殺志願者ではあるけれど、それまでに周りの人がいくら死んでもいいとも思えない。死ぬことすら負い目や逃げのような気がしてくる。いや、自殺なんてそんなものだろうけど。
何にせよあれを見過ごしておくなんて発想は無かった。どうせ死ぬなら人の役に立って死んだ方が、まだ名誉だ。死んだ後の名誉なんて何にもならないけど、それを妄想しながら死ぬのは気分が良いだろう。
走り出してから、三つのことに気付く。
まず、あの陽炎は、透明な板にそんな景色を描いたような感じで――何と言うか、ともかく境目がはっきりとあるように見えると言うこと。もう一つ、ゆっくりと歩く獣から逃げ惑う人間がいること。最後に一つ。陽炎は案の定、スクリーンというか幕のように境界を区切っていて、その中に入った後で自分が丸腰だったことに気付いたということだ。
丸腰。しかし目の前に獣。
その獣は陽炎の外から見た時と変わらず、ぼんやりとぼやけた像を見せていた。全身に炎を纏っているようだ。そしてその獣から、悲鳴を上げて逃げ回っている人が一人いた。
「ひぃ、ひいいい……くそっ、くそっ、くそっ! なんなんだチクショウ……こんな街中に熊がいるもんかい!」
おじさんだった。三十の女から見ておじさん呼ばわりされるのだから相当なおじさんだ。でも、おじいさんではない。髪はぼさぼさ、髭はぼうぼうになっていたが、なんとなく五十代くらいに見える。そして、ちょっと失礼な言い方をすると、まあホームレスっぽい見た目だった。近くには道路沿いに公演を兼ねたような緑地帯がある。そこで寝泊まりしている人はいまでもたまにいるらしい。こんな炎天下で外にいたら死ぬ気もするけど、日中はきっと死なない場所にいるんだろう。
観察もそこまでにしておこう。獣はふらふらとおじさんの方へと歩み寄っていく。もしかしたら目が見えてないのかもしれない。だったら、
「おーい!」
自分が出せる最大限の声を出した。それでも情けなく叫んでいるおじさんとやっと同じ程度の声しか出せない。むしろこっちが情けなくなってくる。が、獣はこっちに気付いたらしい。ゆっくりとした足取りでこちらに振り返り、その顔を向けてくる。
熊だ。確かに熊みたいだった。ただ、顔の皮膚が溶けたようにめくれ上がっている。顔だけじゃない。全身の皮膚が焼けて……酷く焦げ臭い。焼けた人。焼死、っていうのは凄く死ぬとき苦しいとどこかで聞いたことがある。どういう感情を持って獣になったかしらないが、決して良い感情じゃないだろう。焼けただれた顔を見ながら、ゆっくりと、足音を立てないようにカニ歩きで移動する。
「お、おい、そこのねえちゃん……! あぶねぇって……」
おじさんが小声で助かった。獣の注意はまだこっちに、というかさっきまで私がいたところに向いている。別に獣と殴り合いをしようといわけじゃない。そんなことしても、勝てると思えない。一方的に殺されるんじゃ意味が無い、時間を稼がないと。……鍋島さん。鍋島さんが迎えに来るなら。病院の前に来るなら気付くはずだ。なにせ素人の私が気付けたんだ、本業の鍋島さんが気付けないはずは無いだろう。それまでなんとか保たせられれば。
「ウウゥゥゥ……ウウウウウウゥゥ……!」
獣が唸る。喉も焼けて潰れてるのだろうか、大型の金管楽器のような低音が空気を揺らしたかと思うと、焦げた臭いが一段と強くなった。息が詰まるほどの臭気。……いや、実際に息が苦しい。意識して深く息を吸っても、まるで空気が入ってこない。しかも、吸い込んだ空気は燃えたように熱く感じる。
もう、おじさんの方に目を向ける余裕も無い。ともかくじりじりと後退して距離を空ける。獣はまた、丸太のように太い両手を突き出してふらふらと歩き始めた。時間を稼ぐだけなら――そう思ったものの、息苦しさは刻一刻と増していく。このままだと、窒息して……そのままあの手で頭をかち割られるだろう。……ふと、火事になった時の動きを思い出す。火事になった時は上の方に煙が行くから、体勢を低くして――いや苦しいな。どう足掻いたってこの焦げ臭いのはどうにもならないらしかった。つまり耐えるしか無い。何もしなければ、声さえ上げなければ襲われる可能性はぐっと下げられる。
ただ、恐い目にあってるときに何もしない、というのは案外難しい。ましてや、何もしないで助かるという確証が無ければなおのこと静かに待つのは難しい。というかたぶん無理なんだろう。
「ひっ……く、来るなぁ! 来るなバケモン!」
「……!」
不味いことになった。たぶん偶然、獣がおじさんの方に顔を向けた。その動きが、自分に狙いを定めたと勘違いしたんだろう。おじさんがついに大声を上げてしまった。数歩後退ると後は身を翻して陽炎の壁におじさんは向かっていく。その体はすぐに、開いてないガラスの自動ドアにぶつかった見たいにべたっと陽炎の壁に張り付いて止まってしまった。もしかしたらもう何度も外に出ようと試したのかもしれない、けれどそれでも諦めきれなかったのかもしれない。おじさんは必死になって陽炎を叩いて叫んでいる。
「出せよぉ、こっから出してくれよ……げほっ、げほっ! 何の手品だよ……くそっ、くそ……! ごふっ、うう、バケモンが……!」
おじさんは咳き込みながら叫び続けている。それまでふらふらと歩くばかりだった獣は、それで完全に狙いをおじさんに定めてしまった。唸るような声をまた喉の奥で出して、鈍重だが確かな歩幅でおじさんに近付いていく。
考えてる暇はもう無かった。少し動くだけでも息が切れるほどに息苦しかったが、四の五の言ってられない。叫ぶこともできないほど苦しいなら、もう動くしかなかった。息が切れないよう早歩きで、獣の背後に駆け寄る。たぶん腕が届かないだろうぎりぎりの距離まで来ると、ずっと持っていたお茶のペットボトルをその背中に投げつけた。一口か二口ほど飲み残していたペットボトルは上手い具合に飛んでいき、獣の背中に音を立ててぶつかった。
「グゥッ……」
短い呻き声を上げて獣が振り返る。大声よりも効果があったらしい。その獣の視線からゆっくりと外れるように動く。
――が、どうやらいい加減、得物に中々たどり着けないことに獣はしびれを切らしたらしい。
「ウウウゥ……グウウウゥゥゥッ!」
くぐもった吠え声が上がる。途端に、空気がむっと熱を帯びる。炎天下すらも生温く感じる程の熱。喉が焼けそうで、とっさに地に伏せる。伏せたところで熱はほとんどどうしようも無かった。ただ一つ良いことがあるとすれば、即死するのを免れたというところだろうか。獣は手当たり次第に腕を振り回し始めていた。頭の上を、ぶぅんと音を立てて腕が通り過ぎる。背中にべちっと当たったのは、想像したくもないが、獣の垂れ下がった皮膚だろう。
腹の奥が冷えたような感覚。肝が冷えるというのがこれほどしっくり来たことはない。けど、肝が体に付いたまま冷えているのだから状況としてはマシだろう。
獣に殴られ、あるいは踏み潰されて肉の塊、ということにはならなかった。
「明星さんっ!」
背後から声が聞こえた。鍋島さんの声だ。振り返っている余裕は無い。力を振り絞って、ほとんど転がる感じて獣から距離を取った。反射的な動きだったけど、どうやらそれで良かったらしい。避けたところに鍋島さんが突っ込んできていた。どういう動きかはほとんど見えない。地面にすっ転がったせいで鍋島さんの足しか見えていなかった。体勢はこの際どうでもいい。伝えなきゃならないことがあった。
「静かに……」
ほとんど声になっていなかった。ただ、鍋島さんが一瞬こっちを見た。ようやく顔を上げて鍋島さんを見ることができた。最初に会った時と同じように、杖を片手に持って構えている。音は駄目だ。よく考えたら口頭で伝えられないことだ。目を押さえ唇に指でバツ印を作って押し当て、身振り手振りで伝える。――どうやら伝わったらしい。
「……こっちだ!」
カンカン! と杖で地面を叩きながら鍋島さんが言う。獣が改めて鍋島さんの方に鼻先を向け、今度は一気に走って距離を詰める。けど、獣が動いた時にはもう、鍋島さんも動いていた。飛ぶような動きで獣を横にかわし、獣の背後を取ると杖の先の方を握り、まるでゴルフのスイングのように振り回す。足を叩かれた獣はよろめき、べたっと両手を地面に付いた。それを見ながら鍋島さんは左手で杖の先を持ったまま右手で握りの方を持ち、捻るような動作を加えた。握りと先の方が二つに分かれ、細く長い刃が現れる。仕込み杖だ。それこそゲームや漫画でしか見ないような、実際あったら使い勝手が凄く悪そうな武器。今日の昼、私を襲った獣の胸を貫いた凶刃の正体がそれだった。
昼と同じように、そして昼よりもはっきりとその姿を私に見せつけながら、仕込み杖の刃が獣の背に振り下ろされる。
「グウゥゥ……!」
獣は短い断末魔を上げた。一度、爛れた皮膚をぶら下げた右腕が地面を引っかき、動かなくなり――黒いもやのように、その姿は溶けて消えていった。
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