1-2
暑すぎて、死ぬ気力も尽きていた。
自殺というのは案外力強い行いなのかもしれない。だからといって、自ら命を散らす世の人たちが力に満ちあふれているわけでも無いだろう。残っている力をかき集めて、ようやく自分を殺す力が出るのだ。死ぬ元気があれば生きろなんて詭弁だろう。活力というエネルギーは、無限に湧いてくるもんじゃない。
何が言いたいかというと、怠いのだ。
家に帰るとクーラーをガンガンに付けて、財布だけ持って外に出た。近所のコンビニに駆け込んでアイスとコーヒーを買う。もうちょっと先のスーパーで、今日は冷凍食品が半額だということを思い出したのは家に帰ってアイスの蓋を開けた瞬間だった。どうせ死ぬのなら好きなだけアイスやケーキでも買って食べて死ぬかと考えたが、それすらも労力を使う気がする。この季節、やっぱり適当なところで茹だって干からびて死ぬのが一番相応しい死に方なんじゃないかと思う。無気力に死んでいけるだろう。
アイスを食べてコーヒーを飲んで、ぼーっとしてると気付けば夕方だ。
脈絡も無く立ち上がった。あまりに怠惰でどうにも恥ずかしい。懸命に生きてる人は世の中にごまんといるし、死ぬにしたってもっと決然として死ぬ人の方が多いだろう。自分はただ現実を楽しめないという自堕落な感慨で死ぬのだ。しかしそれすらも上手にできないのだから情けない。
仕事が遅いといつも言われるのだ。何をするにも鈍い。そう思うと、きびきび動こうという気になった。
とはいえそんなもの、発作的な衝動でしかない。考え無しに外に出てどう死ぬというのか。まだ暑い、むしろ昼よりも強い西日に目を焼かれながらぶらつくのはやはり土手沿いの道だ。惹かれるものでもあるのか、自然と足はこっちに向く。
土手沿いの道にはほとんど人がいない。少し前の季節なら、ランニングや犬の散歩にいそしむ人が多くいた気がするが、暑いせいかすれ違ったのは自転車に乗って走り抜ける人一人だけだった。だというのに、死ぬという世間的に批判されることへの負い目からか、人目を避けるように、土手を下る道を入って行ってしまう。川へと下りていく道は草が生い茂っており、細い道を半ばほどに隠してしまっていた。ズボンにざらざらと草が当たっている。
少し歩くと橋の下に来た。夕日が作る影は濃い。一瞬、真っ暗になったように見えてまばたきする。すぐに目が慣れて、それが見えた。
黒い影の中に『何か』がいた。
「……っ!?」
思わず息を飲んだ。冷静だとか、感情の起伏が薄いだとかよく言われてたけれど、単に顔に出ないだけだ。犬に吠えられるだけで足が竦むし、ホラー映画は絶対に見ない。ゲームをやってても、ドッキリさせる演出だけは勘弁してほしいと毎度思う。
驚きすぎると身が竦むというのは、よく知っている。いまもまさにそれだった。視線すら動かせなかったから、それをまじまじと見ることになる。
直立した犬、という感じだった。
けれどそれは決して、犬では無い。あり得ない。人間の倍以上はありそうな体つき。そして、頭から生えた角。二本の角が頭から垂直に伸びている。人でも犬でも無い。着ぐるみだとか、そんな仮定すらできなかった。そこにいるのは見たこともない、しかしリアルな獣だった。
熊。熊に出くわした時は、目を見ながら後ろに下がる。幸い、正体不明の獣は私を見つめたままぴくりとも動かない。危険かどうか知らないがともかく逃げてしまおう。ようやく動くようになった足を半歩、後ろに下げる。網一方の足も下げる。獣は動く気配を見せない。ただ射竦めるようにこちらを見るばかりだ。嫌だ、見られるのは。たとえその目に何の感情も宿っていなくとも。視線から逃れようとさらに下がる。
背中が壁に当たった。
思わず顔だけで後ろを振り返った。壁なんてものは無かったはずだ。そこには草に半ば覆われた道があるはずだ。しかし妙なことに、そこには車があった。黒塗りのボックスカーだ。道を塞いでいるそれは、異様に大きく見える。まるで小さな子供になって車を見上げているような奇妙な感覚に陥る。
何でもいいが逃げられない。思考は完全に止まっていた。
辛うじて、正面を向く気力だけは残っていた。
のしのしと歩いてくる獣が見えた。視線は相変わらず私を見ている。しかしさっきとは違い、全く別の感情が浮かんでいる。大きく見開かれた目は、恐怖の感情を直感させる。……恐怖って? こっちだって恐ろしくて仕方ないんだけれど。縄張りに入ってきたから恐れて襲いかかってくるとかそういう話なんだろうか?
怖がることは無いのかもしれない。なにせ死ねそうだ。しかし死ぬにしろ極めて無惨な死体になりそうだ。
無残な――
「まさか、お前が……?」
聞いて返事が来るはずもない。それでも勝手に口がそう言っていた。思考回路が止まって口と脊髄が直結しているのかもしれない。頭の中に浮かんだ言葉をそのまま言っていた。
お前がやったのか? 父と母を?
目の前の獣は答えなかった。いや、もしかしたら答えたのかもしれない。
「キオオオオオオォォォォ――――――ッ!」
獣はその口を大きく開けると、金切り声のような吠え声を上げた。鼓膜が破れそうなほどの轟音に耳がきーんとなる。他の音は何も聞こえなくなった。無音の空気を鈍く切り裂き、一直線に獣が近付いてくる。頭が真っ白になる、っていうのはいまの状態を言うのだろう。走り寄るのではなく大股で歩くだけのそれから、逃げようと思えば逃げ回れたのかもしれないけれど、何もできなかった。ただ呆然と、よく研がれた鋏のように鋭い爪を持った手が振り上げられるのを見るしかない。
あれで死ぬのは大層痛いだろう。それでも、死ねることには違いない。
――そう思っていたのだけれど。
ガツン! と音が鳴った。自分の頭が割られた音かと思ったのは一瞬で、痛みが一切無いことにすぐ気付く。ずっと前を見て目を見開いていたせいで、何が起きたのかすぐ分かった。
まず、目の前に人が立っていた。その人が、何か棒のような物を頭上に掲げていて、振り下ろされた獣の手を防いでいた。助かった……? 呆然とその光景を見つめていると、目の前に立った人――男の人がさっと杖を引っ込めた。獣がつんのめるように前に倒れ込む。男の人はそれに合わせて横に動き――そこからはあまり挙動が見えなかった。次の瞬間には、男の人の手が獣の胸の辺りに埋まっていた。そして打ち込まれた手の下から、黒いものがどっ、と溢れる。血……だろうか。赤さが全く無いから血には見えなかったけれど、黒いものを大量に流した獣は、男の人が手を退かした途端にゆっくりと仰向けに倒れていった。獣は音も無く地に落ちると、空気に溶けるように消えていってしまった。
「……大丈夫ですか?」
声をかけられて、ようやく男の人が振り返って自分を見ていることに気付いた。獣の方に注意がいっていた。
「ええ……まあ、はい」
「怪我も無いみたいですね、良かった」
男の人は柔和に見える顔に、ほっとしたような微笑みを浮かべていた。この人がさっきの獣を倒したとはとても思えなかったが、右手に握られた棒、いや杖が獣と相対した人だということを裏付けていた。
「あの……事情、説明した方がいいですよね」
「まあ……そうですね」
「じ、じゃあ、事務所の方まで行きましょうか? その、暑いですし」
しどろもどろの声が裏返っている。話すのが苦手な人らしい。分かる。よく分かる。できることならさっさと去りたいが、状況が許してくれない。ここは説明聞くのを辞退してあげた方が良かったのかもしれない。が、こっちだってそういうことに気付くのは、いつも返事をしてからだ。申し訳無い。
……よく考えれば、知らない男に付いていくのは無防備だろうと思う。しかし、そんなことに気付いたのは、この人が言う事務所の近くまで来た時だった。
罰当たりにも、神様のことを考えるよりも前に、鳥居の前でそんなことを思ったのだ。鳥居には『北地神社』とある。彼の事務所は今日の昼に見た、境内にある『獣祓い受け付けます』の看板がある社務所だった。
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