一章『三十路女、獣に遭う』

1-1

 親が死んだ。それ以外のことが、上手く頭に入ってこない。


 たぶん……親戚とかに連絡を入れた方が良いのだろうけれど。母も父もあまり親戚とは連絡を取り合っていなかったし、ほとんど絶縁状態だった。それでも、警察の人が親切にもいろいろ相談に乗ってくれた。相談といっても彼らにも仕事があるので、手短に、相談できる役所とかの窓口を教えてくれた。

 が……何をするにも無気力な自分が、ことここに至って急に気力を取り戻すわけもない。二三日は本当に何もできなかった。丸一日食事を取らず、次の日になって腹が空いて炊飯器を開ければ、カリカリに干からびた米が炊飯窯の中にあった。

 悲しいとか悔しいとか、何か思うのが普通なのだろうか。分からない。ただ呆然としていた。空虚とはこういうことを言うのだろう。ただ、悲しめない自分がまた惨めだった。親不孝だと思うのだ。きっと世間の人はもっと悲しみ、そして怒り、それを生きる糧にするのだろう。

 状況としては、明らかに他殺だった。

 両親は何者かに殺されていた。私は疑われるものだとばかり思われたが、そうはならなかった。

 疑われなかった理由は、死体があまりにも損壊していたからだ。

 腹を空かせた熊や、野犬の群れに襲われたような有様だった。あちこちの骨が折れ、皮膚が削げ、肉が千切れていた、らしい。あまり死体は見ていない。流石に、親の惨殺死体をまじまじとは見られなかった。警察から聞いた話だった。道具が無ければできないことだろうし、道具があったとしても、スポーツ歴も無い貧弱な体をした三十の女では、やりようが無いだろうということなのだろう。

 ――犯人は、人じゃない。

 そんなことを思わずこぼした、まだ年若そうな警察の青年が、年かさのいかにも刑事な感じのおじさんに叱られていて、少し可哀想だった。誰でもそう思う死に姿だったとは思う。本音を言えない職というのは辛いだろう。まだ小学生の頃、ミカちゃんは正義感があるから警察官なんてどう? と母に言われたことが思い出される。ならなくてよかったと心底思った。絶対に向いていない。



 ――で、だ。

 結局親族には、知る限りの人に連絡をした。父方と母方の実家だ。連絡はすぐに来た。ただ、実際に顔を合わせたのは、二人の葬儀の時だった。葬式のためのお金なんてうちには無いからと、本当に簡素な葬儀をしようとしたら、父方の伯父が費用を工面してくれた。伯父は、生き方が不器用だった父と違って秀才だった。弁護士をやっていて、事後処理から何から何まで引き受けてくれた。暮らしの相談までしてくれそうだったけれど、なにぶん互いにほとんど面識が無い。

「何かあったらお電話します」

 と言うのが、何とか伝えられた伯父さんへの言葉だった。

 故人のために集まったわりに、我が一族は凄まじく寡黙だった。ろくに言葉のやり取りが無い。そもそも、集まった人だって父方の伯父と母方の叔母だけだ。祖父は両方すでに亡くなっている。そして祖母も、在宅介護と老人ホーム暮らしだ。とてもここに来られるような状態では無い。特に叔母は介護の母の面倒があるから、とそそくさと帰っていった。

 意外なことに、叔母は泣いていた。母とは不仲だったから泣きもせずさっさと帰るだろうと思ってたけど、一族の中ではたぶん一番泣いていた。

「気をしっかり持つんだよ」

 と言われたものの、いや、あなたの方が私の百倍は泣いてますよ、大丈夫ですか? と思った。思っただけで、実際言えたのは「お忙しいところ、すみません」という言葉だけだったけれど。


 そうしてまた、一人になる。それぞれにはそれぞれの生き方がある。三十にもなった女を引き取る人間はいない。一人で勝手に生きてくれという話だ。

 そういうわけで、核家族から一気に独り暮らしになった。遺産は特にない。借金は無かったが貯金もそう無かった。相続税でさっ引かれ、残りは奨学金を辛うじて全部返済できるぐらいだ。つまり暮らし向きはいままでと変わらない。どころか、諸経費の問題上もっと苦しくなるのは予測が付いた。一応自分の貯金もあるから、しばらくはいままで通りのフリーターでも生きてけるだろうけど。


 生きてけるだろうけど。別に生きている理由は無い。


 いままで、圧倒的に無気力ながら自分が死ななかったのは、死ぬのが恐いからだと思っていた。そんな勇気も苦痛も抱えてないのだから、だらだらと生きていくしか無い。

 が、親が死ぬとあっさりと『まあ、もう死んでいいかな』という気分になった。

 ストレスを感じたという風でも無い。生きていく理由は無くなったのだ。死んだら親不孝だ。辛うじて、そんな意識があったのだろう。しかし親が死んだいま、何だか解き放たれたような気分だった。


 死に場所を求めてさまよい始めた。


 といってもそんな大仰なものじゃない。車を走らせどこかへということも、飛行機に飛び乗って遠くにということもない。親が死んだあの日のように、家の近所の河川敷へと歩き出した。この前と違い、空は青く澄み渡って晴れていた。川からは水が引き、中州が見えている。橋の上から飛び降りれば頭がかち割れるだろう。そんなことも考えて橋の上に来てみた。

 塗装が剥げた欄干に寄っかかって、頬杖を突いて遠くを眺める。夏の濃い青い空に、飛行機雲が一筋くっきりと走っている。ずっと向こうの空には入道雲も出ていた。爽快な、ようやく来た夏だった。立っているだけで汗が噴き出すような暑い空気を、蝉時雨が打っている。

 飛び降りなくともこのままここで干からびるまで、ぼんやりと目を閉じるのもいいのかもしれない。

 夏はあまり好きじゃない。好きじゃないけど、世間に言う夏が嫌いという人ほど嫌ってもいない。私が生まれた季節だ。季節は平等に同じ回数だけ来るのに、妙に馴染み深い。閉じた目蓋に陽光が突き刺さっている。赤い血潮が見えるようだった。


 良い夏の雰囲気に浸っていると、足元から、にゃあという鳴き声が聞こえた。


 目を開けて下を見てみると、寄り添うように、しかし触れ合うことは無い距離に、黒猫が座っていた。見覚えがあった。顔の見分けは付かないけれど、白と黒の首輪は、この前見たものだった。あの豪雨の日に、猫のわりに濡れるのも厭わずに外にいた、あの黒猫だ。

 ――久しぶりだね。

 声はかけなかった。こういう時、自然に話しかける人もいるのだろうが。あいにくとそういうタイプじゃなかった。

 それにしても、妙に視線を感じる猫だ。目力があるというのか。しかもその目力でじっとこちらを見てくるのだから、どうにもいたたまれない。この目の前で死ぬのも気が引ける。人の目を気にしすぎてるだけでも、客観的に見れば少し馬鹿らしいのに。猫の目を気にしてできない自殺なんて、大したものでもないのだろう。……はなから自殺なんてものは大した話じゃ無いのだろうけど。特に、私のような人間が死ぬ分には。

 興が削がれたというか。

 気分が移った、とも言えた。

 猫が不意に目をそらして歩き出した。私はその後ろをついていく。猫の歩幅は狭くて、太陽に焼かれながらゆっくりと、歩を進めていく。


 猫の散歩道は、家から離れていくルートだった。


 橋を渡って、その向こうにある区役所の敷地内を横切り、建ててからわりと年を経ていそうな一戸建てが建ち並ぶ地区を抜ける。歩く内にモダンな外観をした住居は減り、瓦屋根と漆喰がぎらぎらと太陽光を反射する和風の住居が増えていく。

 車一台がやっと通れるような細い道を幾度か折れると、神社があった。

 黒猫はそこに入っていく。後に続いて境内に入る。鳥居を見上げると『北地神社』とあった。北地。市町村合併やらで名前が変わる前の、この辺の地名というか通称みたいな名前がそんな感じだった気がする。別に北の大地にあるわけでもないのに。まあ単純に、城から見て北ってだけの話だろう。

 そんな見知らぬ神社の鳥居をくぐることなく黒猫は境内を横切って、境内の奥にある建物へと歩いて行く。日本家屋だ。家の前に立派な木が生えていて、木の葉がその家を半ば隠してしまっている。社務所、というか宮司の家だろうか。どうやら黒猫はそこのペットらしかった。玄関にある猫専用の入り口にひょいっと入っていく。

 ちょっとした散歩は、呆気なくそれで終わった。

 面白いことは何も無い。そう思ったが、ふと家の玄関先に妙な物を見付けた。表札のように、縦長の木のプレートがかかっている。

『獣祓い受け付けます』

 獣祓い? 獣狩りとかではなく。祓うってことは、除霊とかそういう方針だろうか。家から歩いて十分程の距離の神社にこんなオカルトめいたものがあるなんて、と思わずまじまじと見てしまう。しかし、いつまでも見ていてもしょうがない。

 別に取り憑かれているわけでもない。ここには何の用も無かった。小銭でも持ってくればよかった。賽銭箱に放り込む五円玉も無い。完璧にやることが無くなって、今度は一人で暑い道を歩かなきゃならないのだ。限りなく、面倒くさくて気怠かった。

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