生きる気力も無いので、命がけで『獣祓い』はじめました

羽生零

一部・三十路女、ゆるゆるに死を求める

序 三十路女、初めての家出

 蛙の子は蛙、というか。

 とかくどうしようもない人間だと自分でも思う。

 定職にも就かず、フリーターとして暮らしている。それの何が悪い、正社員として働いていくのが正しいことなのかと理屈を捏ねようにも、自分が感じる劣等感だけは拭えない。

 正社員ではあるが職を転々とする父と、働いて金を稼ぐことを賛美しながらもパートタイマーしかしたことのない母と、そんな父母の間に生まれた私は極めつけに無気力だ。何をしても、それに何かの意味があるとは思えない。早い内から、勉強も仕事もただ生きるためのことであり、人が生きるために何かをするのは種の存続のためだと思うようになっていた。

 自分がいま楽しいと思うことはある。だけど、それを理由にして生きていけるほど、世の中には希望を抱いていない。

 一時は世の綺麗な側面を見て、人の生を肯定して社会を良くしようと頑張ったこともある。とはいえそれも中学生の辺りまでだったが。自分の身近には起きなかったものの、イジメや性の話など、子供の世界だって純粋無垢とはいかないのだ。一人一人が努力すれば社会を良くできるとか、そんな希望は何となく尻すぼみだった。

 ちょうど、携帯電話からスマホへと移行していく世代だったのも問題だったのかもしれない。スマホが普及して、SNSでより多くの人を見るようになるともう駄目だ。社会は良くならないという絶望ではなく、こんな人たちのために頑張って良い社会を作ろうと思えなかった。そして、こんな世の中で力を尽くして良い人生を送ろうというのも。


 高校を卒業する頃にはすっかり怠惰になって、父母の言うままに『潰しが効く』という理由から大学を受験し、結局フリーターになった。


 日々安楽で、退屈と言うことは無い。ただ、将来が苦しいという予測は付く。家計はあまり豊かじゃなかった。


 だから、目の前で金のことで争われると、そこに当事者として会話に参加しなくとも、責められているような気持ちになる。


 ……いや、責められるべきだとは思うけど。就職も結婚もしない娘などただの穀潰しだろう。我が子だからと家に置いてもらってはいるが、父母の頭の中には理想の娘がいて、それに巡り会えなかったことは辛くてしょうがないはずだ。しかし、努力しようと思っても、怠惰癖は治らなかった。無気力なまま生きている。せめて人に迷惑はかけまいと、誰かを糾弾したりすることも無い。息を吸って吐くことを許される側の自分が、あれこれ人に何か言えたもんじゃない。


 大きな声が頭に響いてうるさいだとか、思っていても言えなかった。


 だから、言い争う父母の横をそっと通って、スマホとイヤホンだけ持って外に出た。スカッとするような疾走感のある、ゲーム音楽を流していたが、外は土砂降りの雨だった。



 家から五分と歩かない距離に川がある。その土手沿いを歩いていた。川沿いのマンションからこぼれる明かりや橋の街灯に照らされた川は、増水して勢いよく流れている。豪雨と合わせて水音が凄い。イヤホンを貫通して聞こえる程だ。記録的な豪雨の一日だった。サンダルを履いてきたのは明らかに失敗だった。足はすでに濡れきって不快感が酷い。

 それでも、すぐに家に帰る気にはなれなかった。

 歩きながら、川ではなくマンションの方に目をやってみる。色も模様も様々なカーテンに遮られた光がベランダに落ちている。この雨だからベランダに洗濯物はかかっておらず、物干し竿だけが濡れている。家によっては鉢植えも置いてあった。部屋の中に入れなくて良いのだろうか。そんなことを考える。

 十分ほど歩いた。普段は十分も無為に歩いたりしない。ただ、曲を聴きながらだからそこまで苦痛でも無い。気が付けばそのぐらい時間が経っていた。

 ちょっと歩き疲れた。幸い土手沿いにはベンチや東屋があったりする。屋根の他には壁も何も無い、本当に簡素な東屋に四角いベンチが置いてある。そこに腰を下ろす。木でできたベンチは湿っている。雨が中にまで吹き込んでいた。……尻が少し濡れたかもしれない。ま、傘を差しても雨が体に当たってたんだし、いまさらかな。

 傘を閉じて、ズボンのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出してみる。特に何があるわけもない。スマホに入れてたミュージックのプレイリストは、だいたい五曲ほど進んでいる。音楽を止めてイヤホンを外す。水音が轟音になった。

 数秒、ぼんやりと家のことを考えた。狭い家だ。そろそろ私が出てきたことに親は気付いただろうか。喧嘩を止めてくれてるといいんだけど、と思うが、たとえもう話がついてたとしても、中々帰る気分にはならない。ただ、このまま直線的に歩き続けるのも帰りが面倒くさい。……やっぱ帰ろうかな。流石に十分以上口喧嘩するほど二人も元気じゃないだろう。

 もう少し休んでから、とスマホを納めて顔を上げる。

 ……と、視界の端で何かが動くのが見えた。

 黒い塊だ。一瞬ぎょっとしたものの、すぐに猫だと分かった。人に怯えた感じも無く、澄ました顔でこっちに来る。堂々としてるなぁ君は。その胆力を私に分けて欲しい。

 黒猫は真っ直ぐこっちに歩いてきて、ひょいっとベンチの上に乗った。構えと言わんばかりにこっちを見上げてくる。どこかの飼い猫なのだろうか。首輪を付けていた。黒と白のツートンカラーだ。正直あんまり猫は好きじゃない。というか、哺乳類が苦手だ。妙に温かいものが体に触れると、ぞわぞわとする。動物だろうが人だろうが、触るのも触られるのも嫌だった。

 ……ただ、今日だけはちょっと気まぐれを起こした。

 そこまで寄ってくるのなら撫でてやろう。そう思って、慣れない手付きで黒猫の頭を撫でてみる。途端にぞわぞわした感触が手を伝って這い上り、とっさに手を引っ込めた。にゃあ、と不満げに鳴かれた。勘弁してほしい。どうか他を当たってほしい。人には得手不得手があるのだから。私の得意なことは、何も無いけど。

「ごめんね、人並み以下で」

 猫を上手に撫でることすらできない。いつも感じる惨めな気持ちが、当たり前のような顔をして側に寄ってくる。猫は悪くないけれど、それでも見ていられなくなって視線を反らす。また一声鳴かれたけれど、雨と川の音にまぎれて聞こえなかったことにした。


 黙って数十秒座っていた。何かしようか、スマホでも弄ろうかと思ったものの、猫の視線が気になって何もできない。どこかでパトカーや救急車のサイレンが鳴っている。案外近いのかもしれないが、水の音が空気に膜を作っているようで、方向も距離も分からない。

 しばらく待っても、猫は隣から離れてはくれなかった。

 ……離れてくれないのなら、私の方から離れるしかない。傘を手に取って立ち上がる。顔だけで後ろを振り返ってみると、猫がちょこんと座ってこちらを見ていた。視線から逃れるように、傘を差して雨の幕の向こうへと足を踏み出した。



 また十分ほどをかけて家に帰った。

 すると、マンションの前に人が数人、ぽつぽつ立っていた。仕事帰りの人という雰囲気でも無い。どちらかというと、近所の人が家から出てきて様子を見ているような感じだった。マンションの前の道路には、パトカーと救急車が止まっている。

 どうしよう。この中を割って入る根性が無い。誰の人目にも付きたくない。しばらくここから離れてみようか。というか、何が起きてこんなことになっているのだろう。状況が掴めない。

 ……親にでも聞いてみようかな。パトカーと救急車と野次馬が集まってきてるんだ、流石に言い争ってるってことも無いだろうし。

『なにかあった?』

 SNSを利用した短い発信だった。けれど、返事を待つまでも無く、何が起きたのか、その切れっぱしが見えた。

 開け放たれたエントランスのドアから、ガラガラと音を立ててストレッチャーが出てくる。数段の階段を下りてくる医者――いや、この場合は救急救命士って言うんだっけ? その人たちが搬送しているストレッチャーは二台あった。一台目の上が見えた。

 父の顔が見えた。

 何故それを父の顔だと判別できたのか分からなかった。後で知ったことだが、顔面の皮膚は熊にでも噛まれたようにそげ落ち、頭蓋骨は頭頂部から大幅に陥没していた。だからそれを父だと、分かる要素はほとんど無いはずだった。けれど。

「あの……すみません」

 人の目に付きたくないとか思ってたのに、気付くと近くにいた警察の人に話しかけていた。胡乱げな目で見られる。野次馬が状況を聞きたがってると思ったのだろうか。

「あれ、私の父です」

 警察官の顔色が、変わった。

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