サヨナラ、小さな罪

増田朋美

サヨナラ、小さな罪

サヨナラ、小さな罪

九月になった。もう暦の上では事実上秋がやってきたはずなのだが、まだまだ暑い日が続いている。九月と言っても、まだまだ夏が続いていて、暑い日がこれからも続くようだと思う。

そんなわけで、デパートに秋物が売っていることが、一寸むなしいなと思われる季節でもある。何だか時折あるのだが、意味のないことで人間はいさかいを起こしたりすることもあるのだ。それを犯罪用語では、罪という言葉で飾る。でも、本人がそれを自覚するのは、果たしてできるかどうか。それが問題だ。

今日も須藤家では、比較的平穏に日々が過ぎているが、そういうわけでもなさそうだった。

きっかけは、有希がカレーを作ってた時、弟のブッチャーこと須藤聰が、客の一人から、刺身をもらってきたことであった。それを、須藤家では、夕食に食べることになった。そういうわけで、須藤家の食事は、今日は刺身とカレーライスが、同時に並んでしまったのである。それだけで、有希がおかしくなるきっかけになるとは到底思わないだろうが、有希は、それでもう自分はいらない人間だと思うことになってしまうのだ。どうせ、家族の誰も自分の作ったカレーなどいらないのねと言って、大きな声で泣いた。ブッチャーが、そんなつもりでもらってきたわけではないんだと姉に言い聞かせても、姉は、大声で暴れ、鍋の中身をもう必要ないんだとして外へぶちまけるなどした。

姉の有希は、夕食を作ることで、母親からお金をもらっていた。こうしないと、姉が不安定になるからであった。姉が、自分にも何か役割が欲しいと懇願して作ってもらった制度だ。

姉は、翌日、病院へ診察を受けることになっていた。それで、母に五百円をもらうときになって、母が、毎日の通り、五百円を有希に渡そうとしたところ、母の財布には一万円しかなかった。有希は、九千円持っているといった。そこで、いつも診察台としてかかる七千円をその一万円の中から出してくれということになった。それで、有希は、残りの三千円を、母に支払った。しかし、そのあたりの意味がよく分からなかったのか、それとも単に暑さで精神状態が良くなかったのか、有希はそれを理解することができなかった。なぜか、いくら払えばいいのか、わからないと母に詰め寄った。それで母が三千円もらったからもう払う必要はないんだと言っても、わからないわからないと言って、台所にあった包丁で、自身の体を傷つける。姉ちゃん、そういう自己主張は卑怯だとブッチャーは注意するが、有希は本当にわからないと言い続けて泣きつづける。こういうときに、青柳先生であったら平気で木刀などでたたいたりすることもあるだろう。でも、ブッチャーは姉にそういうことはできなかった。

「姉ちゃん!」

と思わずでかい声で姉を怒鳴りつけて、やるせない思いでブッチャーは言った。

「俺の気持ちもわかってくれよ。ただわからないと怒鳴り続けるだけでは、俺たちだってよくわからない。一体何がそんなに疑問なのか、教えてくれ。それだけなんだ、俺たちが知りたいのは。」

こういう時、長文はなるべく使用しないというのも、ブッチャーはテクニックとして覚えている。長々と文章を述べても、その間でさらに混乱する恐れがある。

「姉ちゃん、わからないことは何か教えてくれ!」

と、言ったけれど、有希には通じなかった。ただ、相手は刃物を持っている。それを使って自殺だけはどうしても止めなければならない。だからブッチャーは、ゆっくり話すことにする。

「俺は、ただ、姉ちゃんが、何をそんなにわからないのか、知りたいだけだ。」

こういう風に途切れ途切れに言ってみる。

「姉ちゃん、お願いだ。俺に、姉ちゃんの、困っていることを、話してみてくれ。」

「わからない。」

と有希は答えた。非常に卑怯な答え方だと思うけど、それがおそらく答えである。精神障害とはそういうものだ。成文化できるものなら、精神障碍者というものは存在しない。

「わからない。」

もう一度有希は答える。

「じゃあ、俺、おこらないでちゃんと聞くから、刃物を置いてくれ。」

ブッチャーは、まずこれをさせないといけないと思う。もし、自分を罰するため刃物が必要などと口走ったら、また対処ほうを変える必要があった。

「俺の言っていることが聞こえていて、ちゃんと理解できるんだったら、刃物を置いてくれ。」

と、ブッチャーは言った。有希は、ブッチャーを確認するように眺める。

「俺は、姉ちゃんのしていることについて、甲乙つけることもしないし、善だろうが悪だろうが関係ない。だから、刃物を置いてくれ。」

少なくとも、同じことを三回はいう必要があった。そして、自分は、姉にとって完璧な味方であることを示す必要がある。ここで姉の態度に甲乙つけてはいけないし、そのことについて、善悪の判断をしてもいけない。たとえ姉のほうが悪事だとはっきりわかっていても、だ。

「お願いだよ、姉ちゃん。刃物を置いてくれ。」

と、もう一回懇願して、有希はやっと刃物を置いた。そうしたら、普通の犯罪者であれば、すぐに身柄を確保して手錠をはめるところであるが、ブッチャーは、手錠も警棒ももっていなかったので、言葉で何とかするしかなかった。

「じゃあ、もう一回言うよ。何がわからないのか、それを教えてくれ。」

「わからないわ。」

と有希は答えた。

それでは、やり方を変える。わからないに逃げるなとかそういう批評はしない。其れよりも、自分の言っていることが通じているかどうかを確認する必要がある。

「じゃあ、姉ちゃん。お母ちゃんが、なぜ一万円をくれたのか知ってるか?」

まず、原点に立ち返る。そこを取り違えていたら、大変なことになる。

「あたしが、明日、診察があって、そのお代を払わなきゃいけないから。」

これは理解しているようである。

「それでは、それはいくらかかるのか、俺に言ってみてくれ。」

「ええ、最低でも七千円。」

其れも理解しているらしい。

「じゃあ、今渡したお金の金額は?」

「一万円。」

と、ブッチャーの質問に有希は答えた。

「多いのは何円だ?」

もう一回聞くと、

「三千円。」

ということもちゃんと答える。

「じゃあ、姉ちゃんはいくら持っていたんだ?」

と、ブッチャーは聞くと、

「九千円。」

と姉は答えた。

「それじゃあ、その中から、お母ちゃんに三千円渡したか?」

ブッチャーがもう一回聞くと、

「渡したわ。」

と有希は答えた。

「そうだね。だから、それ以上お金を支払う必要はないんだよ。」

とブッチャーはやっと事実を伝えられたと思ったが、

「でも、九千円渡せって言ったのはそちらじゃないの。」

と、有希は言う。母が、一万円渡すから九千円お釣り頂戴といったのと、明日の診察のお題をその一万円の中で支払えというのが理解できなかったんだとブッチャーは確信した。多分、大方の人は、先に言った九千円のことは切り離して考えるということが自動でできると思う。でも、精神障害というのはそういうものではない。

「だから、その九千円と三千円もこっちは払えないの。だから、困ってるんじゃないの。」

と姉は言うのだった。これは単に頭が悪いで片づける問題では済まされない。立派な障害になるのである。早く姉ちゃんヘルプカードつけて、周りのひとに何とかしてもらうようにしような、とブッチャーは言った。このヘルプカードをつけることだって、ほかの家族は反対している。でも、ブッチャーはどうしても必要だと思う。年老いた両親は、精神障害のあるということを、首から下げて外を出歩くなんて恥ずかしいにもほどがあるというが、ブッチャーはこれから生きていくには必要だと主張していた。

「じゃあ、もう一回言うね。今度は、俺たちが言うこと、ちゃんときけるな。」

と、ブッチャーは、まるで生徒に説明する先生見たいに、そういうことを言った。

「だから、お母ちゃんに支払うのは、三千円だけでいいんだ。それはもうお母ちゃんに渡したんだよ。だから、もう払わなくていい。」

こういうときも理由やいきさつは一切しゃべらない。ただ、結論だけを先に言う。その時も決して、彼女の態度を評価してはいけない。

「姉ちゃん、わかったか。もうお釣りの三千円は払ったからそれでいいから。」

ブッチャーはできるだけ簡単に説明するように言った。これでやっと姉ちゃんの錯乱も治まってくれるか、と頭を振った。

「ええ。」

と有希は言う。彼女の罪も償ってもらうため、ちゃんと言わせる必要がある。其れも頭の中で思い出させるだけではだめ。口に出して言わせる。

「姉ちゃん、今、姉ちゃんがしたことを言ってくれ。姉ちゃんは、今何をするのかだ。」

「明日の診療代をもらったわ。そして、今日の五百円も一万円の中に入っている。それでも、九千円は、払わなきゃならない。」

と、有希はそういうことを言った。それが成文化できれば、八割くらいは解決できるはずだ。

「九千円は、お母ちゃんの独り言だ。」

とブッチャーは先に言った。

「だから、九千円はもう考えちゃだめだ。」

「そうなの?」

有希はもう一回ブッチャーに聞く。

「そうだよ。だから姉ちゃんのすることは。」

「三千円だけお母さんに払えばいいのね。」

そこをやっと理解してくれたようだ。

「そうだよ、その三千円は、今出した。だから改めて払う必要はない。それで解決したんだよ。だから混乱することもないし、ものを壊すこともない。」

と、ブッチャーは、やっと結論を出すことができた。

「そうなのね。ごめんなさい。本当にごめんなさい!」

有希はその場で土下座して謝罪したが、ブッチャーはそういう風に謝罪のテクニックが身についているんだったら、あそこでパニックを起こさずに何とか騒がないでもらえないものかなと思ったが、そういうことはできないようであった。それは、もう無理なこととしてあきらめるしかなかった。金銭的なことに、障害者が敏感なのは、ある意味仕方ないことでもあるから。

「よし、これでいい。これ以上、姉ちゃんもこの話は口にしないでくれ。」

最後にこの言葉を忘れなかった。いつまでも気にし続けて、劣等感を持たせないことも、生活していくための知恵であった。結論としてブッチャーがやったことは、まず、彼女に自分を信頼してもらうこと、そして何を困っているのか、成文化をさせること。そして、姉に結論を導かせるのではなく、結論を先に出してしまうことが必要だった。ただわからないではっきりさせないで終わってしまうのは、一番いけない。何に困っていたのか、何に躓いたのか。ただの感情だけで処理させない。成文化させるのが一番大切だ。そして謝罪をさせ、二度とやらないように誓わせることまでできたなら、理想的な聞き方なのである。

大概の、精神障害者の家族は、まず、この事業に失敗することが多い。大体暴れるのを止めようとして、自分たちのいうことを伝えるのを優先してしまい、この成文化という事業に失敗するのだ。ブッチャーは、製鉄所にやってくる利用者たちが、大体これを経験していることを知っているから、姉に対してもこういうテクニックが身についたのである。でも、このテクニックは大体誰かが教えてくれることはなく、みんな手探りで覚えて行く。精神障害と言っても、かえることができないのは、足が悪くなったことと同じだから、もう、それを変えようということはあきらめて、ではどうやって接していけばいいか、を考えるのが一番乗り越える簡単な方法かもしれない。

「もういいよ。姉ちゃん、次はもうちょっと俺もゆっくり話すから、落ち着いてくれたらそれでいいからね。」

相手に問題があっても自分の罪として処理する。ブッチャーはそのテクニックも身に着けていた。これは非常に理解しがたいというか、むかつく作業だ。でも、これができないと精神障害者と暮らすのは難しいだろう。

そういうことは差別でもなんでもない。ただ、精神障碍者と暮らしていくためのテクニックだ。そのテクニックを伝授する人がないというのが日本社会の問題点と言えるかもしれない。こういう事を学問として教えてくれれば、もうちょっと、障害者福祉という物も変わってくるのではないかと思われる。

「じゃあ、落ち着いたら、また、晩御飯作ってくれや。俺たちのことは気にしないでいいから。姉ちゃんは、今は自分を落ち着かせるのに、専念してくれていいからな。」

こういうときにも、善悪や甲乙はつけない。彼女の態度にジャッジはしない。ただ、俺たちは待っている。それだけ伝える。一番言ってはいけない言葉が、俺たちはこんなに苦労しているのに、姉ちゃんだけがそういう特権を与えられていてずるいということである。それは、彼女自身を傷つけてしまう可能性があるので。

「姉ちゃん、もう気にしないでいいよ。」

それだけ言って、ブッチャーは壁にかかった時計を見た。それ以上は言わない。もう刃物を置いてくれたので自殺の恐れはないだろう。其れだけ言って、俺ちょっと出かけてくるわと言って、部屋を出ていった。こういう風に長時間おなじ状況をつくらないのも、大事なテクニックである。ブッチャーは、たまには、俺の方も、ほめてくれないかなと思う。精神障碍者を相手にしているということだって、それなりに評価されてもいいはずだ。ほかの福祉関係者もそう思うのかもしれないが、ブッチャーは、その日特にそれを強く思った。

有希の事なんかすっかり忘れて、ブッチャーが向かったのは製鉄所。なぜか、困ったことが在るとここに行きたくなってしまう癖が自分にはあるとブッチャーはわかっていた。それは、自分を慰めてくれる人がいるのか、それともその逆をすることを強いられるためかよくわからないけど、そうなってしまうのだ。福祉関係者でもないくせに、ブッチャーは製鉄所の利用者たちと話したくなってしまうのだった。

ブッチャーがタクシーを降りて製鉄所の中に入ると、何人かの利用者の女性たちが、ブッチャーさん、どうしたの?なんて声をかけてくれる。そういう声をかけてくれるのは、やっぱり利用者だけである。

一般のひとに、こんな話をしたって、そんな事、わかってもらえるはずもないからだ。

「またお姉さんと何かあったんですか?」

と、一寸敏感な利用者がそういうことを言ってくれた。ブッチャーは思わずそうだよと言ってしまう。それを言ったら、なんだか楽になれた。それを言ってくれるほど敏感な女性であるはずなのに、彼女は、やはり精神障害者として、ヘルプカードを首にかけている。そのカードには、統合失調症、感情のコントロールができないと書いてあるのだった。

「そうだよ。」

とブッチャーはぶっきらぼうに言った。できれば、大変でしたねとか、そういう言葉をかけてもらいたいものであったが、それはなかった。彼女はブッチャーのぶっきらぼうさに、びっくりしてしまったらしい。人間というのは、なかなか思うようには言ってくれないなと思いながら、ブッチャーは、中庭の掃除を始めた。

と、後ろの方で、誰かがせき込んでいる声がする。誰だろうと考えなくても声は誰なのかすぐにわかる。ブッチャーは庭掃除をすぐやめて、箒を放り出して、四畳半にいった。ふすまを開けると、せき込んでいたのは、布団の上に横向きに寝ている水穂さんだった。ブッチャーは何をすればいいのかすでに知っていた。急いで水穂さんの背中をたたいて、出すものを出しやすくしてやるのだ。そして、水穂さんの口にタオルを当てて、畳の張替えをしないようにさせるのである。幸いこれも間に合って、タオルは真っ赤に染まったが、畳を汚すことはしなかった。水穂さんが最後まで吐き切るには、えらい時間がかかったが、ブッチャーはそれでよいことにしている。痰取り機を使って取ってやるという選択肢もあるけれど、痰取り機は意識がないひとでも嫌がるほど、苦しいということを知っていたので、ブッチャーはそんなかわいそうなことはしたくなかった。そうなると、ブッチャーも結構甘いのかもしれなかった。姉をたたく事もしないし、水穂さんに痰取り機を使わせることもできない。やがて、水穂さんがせき込む音も小さくなった。どうやらやっと、発作は治まってくれたらしい。ブッチャーは人間らしく、大きなため息をついてしまう。とりあえず、水穂さんがもう血を出さないことを確認すると、ブッチャーは、枕元に合った吸い飲みをとってその中身を水穂さんに飲ませた。それをさせるとしばらくはまだせき込んでいたが、次第にそれも静かになった。ブッチャーがとりあえず、良かったよかったとつぶやくと、

「ありがとうございました。」

と水穂さんは一言だけ言って、薬の成分で眠りに入ってしまった。ブッチャーは、なんだかその一言を言ってもらっただけで、なんだか百万円もらったのと同じくらいうれしい気持ちになった。水穂さんにどういたしましてといったが、もう眠り込んでしまっていて、それは水穂さんに通じたかどうかは不明であった。でも、ブッチャーはそれでよいと思った。だって多くのクライアントというか、障害のある人たちは、ありがとうなんていうことはできなくて当たり前だからだ。こういう時は、罪にもなれないし、感謝を求めてもいけない。ただ、さようならという言葉がぴったり。それだけの話だった。ただ、事実があるだけで、それに対して何も甲乙つけてはいけない、というのは、世の中に対して一番肯定的な考え方なのかもしれない。そして同時に、それに対してどうしていけばいいかを考えることこそ、人間に与えられた唯一の知恵というか、生きる力なのかもしれなかった。ブッチャーは、静かに眠っている、水穂さんに、感謝の気持ちを込めて、かけ布団をかけてやった。

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サヨナラ、小さな罪 増田朋美 @masubuchi4996

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