3
海はその朝、固まりかけたゼリーのように、あいまいな艶をおびて、うねりも平たかった。
灰色の雲が空を満たし、水平線のあたりではかなり黒かった。
桃色の稲妻が、一番遠いところで、ひんぱんにチカチカしていた。
音はとくに何も聞こえなかった。
一郎の仕掛けには何もかかっていなかったが、教わって真似をしたマリの罠には、エビがかかっていた。
鮮やかな紅色で、大きく、元気だ。
数えると五匹もいたので、マリは有頂天だった。
一郎はやさしく丁寧に褒めてくれたが、それからはずっと海を見ていた。
釣り人の嫉妬心を思って、マリはあまり調子に乗らないように気をつけた。
一郎があまりに長くそうしているので、少し怖くなった。
コーヒーを一郎の好み通りの濃さで沸かした。
「ねえ。エビは一郎ちゃん、お料理してね」
マグカップを手に、後ろから声をかけながら、白いTシャツの背中を丸めている一郎に近づいた。
胸をくっつけた。
一郎の温度はいつもどおりだったが、筋肉は硬くこわばっていた。
「ほら」と、いい香りの湯気を立てているカップを差し出したが、動かない。
(こういうことになるなら、私はもう二度と、釣りなんかはしないわ)
本当の真横から見る一郎のプロフィルは、少し久しぶりのように感じた。
それは、マリの基準では完全に美しい形だった。
暖かく湿った風でヒヨヒヨと揺れている短い前髪。
頭が良さそうな額。
男らしく盛り上がった眉は、その下で一度くぼんで、かっこいい鼻につながっている。
上唇の輪郭は、無精髭でギザギザしていて、唇があって、下唇があって、少し短いかもしれない、顎の輪郭までを目でなぞった。
「なんか怒ってるのでしょうか」
返事は無く、一郎の今朝は少し腫れぼったい瞼の下の目は、遠い沖を見ているようだ。
その瞳の色ですら、マリは大好きだったので、曇天の拡散光の中の、もしかすると貴重かもしれない自然石のようなその目を、マリは真横から、不思議に長く感じられる秒数、見た。
二人の頭上から、見たことのない大きな鳥が、ほぼ羽ばたきも無くやってきて、窓枠の視界に入り、恐ろしいような速さで、大きな半径のカーブで、視界の真ん中の奥へ飛んでいって、やがて見えなくなった。
マリは我に返った。
一郎を見た。
まるで動いていない。
湯気を出していないコーヒーカップを、心を沈めながら窓枠に置いた。
一郎は動いていない。
叫んでしまいそうな動揺と動悸を感じて、空いた両手が、へんな形に開いた時、一郎の首がくるっと回った。
「あれれ? いたのか」
「いたよ」
「今日は曇りだな。真っ黒な雲だよ」
一郎はまた、視線を海に戻す。
「あの鳥、見たことないわよね」
「え?」
「すごくおっきいやつ」
「何のことだよ」
いいながら一郎は、コーヒーカップを見つけて手を伸ばし、一口飲んで、満足そうに微笑んだ。
まだ海が二人を囲まない頃、それはもちろん楽しかった。
実を言うとその頃からマリは、親しい友達との連絡が、特に意識もなく、減っていった。
一緒に暮らすようになってから思ったことは、
(離れていたときは別々の電車で遠ざかっていたんだね。こんな、嫌な匂いのする込み入ったものに、圧迫されて)
二人で暮らすようになってからは、遅い時刻の満員の電車は、もちろん、怖くはなかった。
一郎と軽く抱き合うように釣り合っていた。
周りの人達の密度が濃くても薄くても、失礼ながらそれは溶けかかった何かのようで、ほぼ無意味で説明のしようもない色と温度で、ふたりを囲んでいた。
我慢出来ないような匂いを感じたときには、一郎の首筋に鼻をくっつけた。
とくに無臭だったが、たまに軽く、それを嗅ぐとじつは少し調子が狂うような、甘い匂いがあった。
そうしたことを、マリは一郎に話したことはなかった。
秘密主義者ではない。
でも言うと、一郎はそれを受け入れて咀嚼し、解釈して、返してくる。
それは要らなかった。
わけのわからない小さい動物の鳴き声を含んで暑苦しくじめじめした空気も、耳がキンとするような思考停止を矯正する季節でも、一郎にくっついて歩いていると、周りはやがて、二人の背景色になるように思えた。
それは真っ白に近いときもあり、緑と赤のうずまきのようなこともあり、エナメルのように黒光りすることもあった。
だから一郎に対して、秘密はもうひとつも無かったが、これが愉快な秘密と言えば秘密だった。
その、まだ海が二人を囲い込んでいない頃に、エビのことがある。
いつもたいてい、一郎が提案してくれる店で夕食をとり、かならず満足した。
あるとき、とてもモダーンでアットホームそうな、南ヨーロッパのどこの国だったかの料理店に行ったときのこと。
それはぜんぜん一郎のあやまちではなかったが、何かぜんぶの食べ物んい、鮮度が頼りないように感じたが、もちろん言い出すことはなく、いつも通りだったが、大きなエビの料理が出たときに、一郎が、それでも紳士的な苦笑いをして、
「ぼくは腹いっぱいだ。用事も思い出した」
「わたしもお腹いっぱい」
道に出てから一郎が、
「口にトマトソースみたいなのついてるよ」
「やだ」
「拭いてやるよ」
「ねえほら、用事ってなあに?」
「ちょっと寄り道だ」
と言ったものの一郎はさんざん迷い、行き当たったのは、アーケードの青色も褪めた、魚屋らしきものの店頭で、
「開いていますか」
「とっくにしまっていますよ。おかずならありますよ」と、感じよく店主が言って、
「うまそうだな」と一郎は無造作にいくつかを選んで買って、お金を払いながら、照れくさそうに、
「エビはありますか?」
「エビなに? 車エビ? バナナエビうまいよ?」
「それください」
マリは完全に一郎に任せっきりだったので、惣菜にも冷凍エビにも関心はもてず、その夜はとにかく早く帰って、多く溜めたお湯に、二人で浸かりたかった。
部屋に着くと一郎は、いつもらしくない早さで着替え、なんだかニヤニヤしていた。
「お風呂入りたい」
「入っといで」
「何度にする?」
「え?」
「いっしょに入りたいのよ」
「いいね」
四十二℃と四十四℃の平均値は、それでもけっこう熱い四十三℃の湯を小さな湯船に溜めて、二人は、向かい合った形で絡み合うように屈葬された縄文人の夫婦のように、それでも肩まで浸かったのだ。
おたがいの体を指でつかんだり、顔を濡らしあったり、見つめ合ったり、そむけたり、自分のお腹をつかんだりした。
「そうだ。用事ってなんだったの。あの魚屋さん?」
「へへへへへ」と一郎は、得意げな顔だった。
「きっと、あのエビなんでしょ?」と、馬鹿馬鹿しいような問いにはもう一郎は答えず、ニヤニヤ笑いのまま、唇を触れてきた。
なのでエビはその夜、またしても一夜を、未知の冷蔵庫で過ごしたのである。
愛し合った二人が起きる時、お互いの寝起きに関して相手を許していることは、自分を許してることだ。
部屋からは、どの季節にも直接見えない角度の太陽は、昇っていく。
触れ合ったり、手の届くあたりの水分を飲んだり、おしっこをがまんしたりできなかったりしながら。
季節に関係なく、寝床の計測できない温度は一定で、気持ちいいのだ。
マリの体を、ポンポンと軽く叩きながら、一郎は起き出して、台所を整えた。
さすがに眠りつくしたマリは、まだ着替えもせず、ガーゼのタオルケットを体に巻き付けながら、そばの小さな椅子にいる。
「きのうの店のエビは、ぼくはうまかった」
「うん。わたしも」
「だけど、思いついてさ」
「今からなんかするの?」
「そうだよ」
一郎はその立派なエビらの頭をもいでから、殻をむき、きれいな身を取り出して並べて、たぶん白胡椒の粉末を振り、塩をガリガリと、かっこよく高いところから撒き散らして、いつの間にか薄く刻んであったらしいニンニクを、まだ熱くないオリーブオイルに沈めると、やがていい香りがした頃、エビは並べられた。
二人の中では少し神聖化されている大きな皿に、エビは移されて、すぐに二人に食われた。
「で、何だって、鳥って」
「そう。すごい大きな鳥よ」
「それが」
「飛んでったでしょ」
「だからそんなの見てないのさ」
「ふうん。へんね。寝ぼけてたんじゃない?」
一郎はその朝のマリが獲ったエビを、残酷なのか大切なのかの手付きで、おちついて分解した。
透明な身に触れながら、
「動いてるの触ってみるかい」
「そういうのいや」
あの時と同じ手順なのかどうか知らないが、胡椒と塩をかけていた。
すぐに出来上がった一皿は、すでにかなり空腹だったのを引いても、うまかった。
もちろん、マリにとっては、自分のエビだったことが最高の調味料だった。
プリプリするエビの肉を、しっかり噛みながら、マリは気になっていた。
「ほんとに、鳥を見なかったのね」
「ほんとに見なかったよ。ところで、このエビは味がいいね」
と笑う顔は、いつもとまったく違わない一郎なのだ。
海の様子はまるで変わらず、凪いだような、何か底意があるような色で、陰険にうねっていた。
雲は少し疲れたのか、色がわずかに薄くなり、遠くの稲妻ももう、見えなかった。
甘い海 浦瀬 剛 @HARRY_G
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