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時計や時報が刻む時間とは違うものが流れたことを、二人とも感じていた。
いつものように良い眠りについたが、一郎は感じたことのない寝苦しさに目を覚まし、ベッドから離れた。
マリの体が火照ったように熱いのはこれまで通りのことで、一郎はそれが好きだ。
それとは違うものだ。
静かに歩き水を汲んで飲んだ。
体を離したことが刺激だったはずもないはずだが、マリもまたゆっくりを体を起こし、洗面所に立った。
これまでもう、七百日より長く寝たり起きたりしていても、初めての構図だった。
一郎は裸のままカウチに腰掛け、うまいことなんとなく辞めたままになっていた煙草を、吸いたい気がした。
水が流れる音が音が聞こえて、マリが戻った。
一郎がベッドから抜け出たことをすべて知っていたような口調で、
「まだふってるの?」
「え。何だって?」
「雨よ。さっきアナタがいった変な雨」
「ああ。知らない」
「寝苦しいね」
「そうだな」
「その雨のせいなのかな」
「それは、いまはよくわからない」
「そっか」
マリは寝床に戻り、すぐに位置を見つけて、また眠りに落ちた。
一郎の体か心のどこかを、何か、冷凍庫の冷気のような冷えたものが、一瞬、触っていった。
恐ろしい夢から覚めた人のように、一郎はいつもの部屋を具体的に確認した。
なにか階段を踏み外したような感じがあったが、深追いしてはいけないような気がした。
頼るようにベッドに戻り、マリの背中に貼り付いた。
それは安定的に、暖かいよりも、はっきり熱かった。
素敵な温度である。
朝に悪意は無い。
何か感じるのは誰かである。
二人が少しも何も感じない朝がすでに来ていた。
「停電でもあったのかな」
「どうした?」
「タマゴがなんかぬるいのよ。それと水が生臭い」
「昨日の雨だろうかもしれないな」
二人は二人でいるとき、外のことは知らないでいた。
もしテレビニュースがそれを報道していても、テレビニュースが濾過する以上に、彼らの濾過器は細かく、つまりほとんどのニュースは、よくもわるくも入ってこない。
テロリズムの炎も山火事の炎も同じであったが、二人が世界に関心が無かったということではなく、お互いをつまり、好きすぎたのだ。
その朝のテレビニュースは、地の果てのような、名前だけは聞いたことのある国で、水が溢れ、よく聞けば、国土も建築も人々、つまり大人も子供も、何もかもが無くなったと言っていた。
ふたりは昨夜の残りの、うまいチャーシュー粥をすすりながら、言葉も無く、いた。
そこで言葉は、不実のようなものだった。
テレビに映る洪水は、汚く凶暴なものだった。
◇
何日と何時間が過ぎたのかは二人にもわからなく、それは問題ではなく、ある時間が流れた。
彼らにとっても世界にとっても、誰にとっても無関係に、ある、測ることのできない時間が過ぎた。
それは、熱烈に愛し合う恋人たちや、はっきりと死ぬときを悟った人には、ありえてもおかしくないことだ。
◇
寝起きにやさしいキスが長く続くことは、もちろん初めてではなかったし、慣れきった挨拶の延長でもない。
キスの始まりを相手のせいにして戯れることはずっと昔に終わっている。
その朝に二人は、何かに、怯えているわけではない、恐れているわけでもないのに、抱き合い、素朴で真剣で清潔だがもちろん医学的・黴菌のことは知らない、安らぐキスで満足しあって、だらしなく起き出した。
象徴性も感じられず、とくに暴力的でもなく、しかし心を許せない海が、掛け値なく文字通り、二人の住むアパートの二階の部屋の窓まで満ちていて、すでに二人はそれを知っていた。
トーストと玉子と、ぽりんとした何気ないソーセージと、まだじゅうぶん新鮮なレタスを炒めた朝食を用意したマリは、食卓にそれを運びかけて、ふと手を止めた。
「ねえねえ、一郎ちゃん」
呼びかける名前は二年が経っても固定的ではなく、それは悲しいことの逆だった。
「なんでしょうか、マダム」
今朝の呼ばれ方は少し気分に合わないと思いながら、
「海のそばで食べませんか?」
「えー。どうだろ」
「窓開けて」
「うい」
と言うなり弾むように動いた一郎が一気に窓を開け放った。
輝いていた。
色については簡単に言えないもので、いつも二人で言い合いになったり、分析的に考えたものだが、答えは特に出たこともない。
「ああ。金色ぽいね」
「そうね」
落ち着いた銅の色を帯びたような、表面はおろし金のように鋭い海が、静かにうねっていた。
風もあった。
窓のそばにできるだけ寄せたテーブルの、すぐそばに窓枠があり、海はそれに触れるほど膨らんでいる。
かなり遠くに陸地のようなものが見えるのだが、確信が持てない。
陸地かもしれないが、いや、ただの錯覚だ、いいえ、もっと遠くのものが屈折して見えるあれ、蜃気楼。
ではそういうことにしておこうとなった、あいまいなものも、今朝はなく、どこまでも海だ。
子供が描いたような、素直であけすけな、海と空が、ある。
「少し増えたみたいじゃない? 海水のことよ」
「たしかにな。入って来られても困るよな」
「でも今日、きれいね」
「うん。すごくきれいだ」
言い交しながら玉子を、一郎には目玉焼き、マリにはその都度のものを口に運び、トーストをかじりながら、朝はお互いの顔はとくにじっと見ることはなく、食事は済むのだ。
残さず食い終わった皿を、マリがキッチンに持ち去るとき、一郎は窓辺に寄って、かつては有線テレビのものだったかと思われる頑丈なケーブルを探る。
種類も太さも異なる紐が結ばれている。
一郎は真面目くさった顔の中に楽しみを隠しながら、その一つを引っ張ってみる。
いい具合に、重い。
手応えを感じながら手繰り寄せる。
不細工な針金細工の中に、生き物がいる。
「獲れたよ。獲れたぜ」
「何が獲れた」
「ウナギちゃんだよ。かなりデカい」
「よかったね」
「見てごらん」
「うん。すぐ終わるから」
太くて長く、黒くて白く、腹が鮮やかに黄色い、よく動く、ぬめりのある魚がたしかに獲れている。
一郎は慎重に、窓枠の内側まで仕掛けを手繰り寄せ、慣れと慎重さに加え、やさしい手付きで、獲物を手にする。
仮死状態なのか、おとなしくなったその魚を、ウナギを、一郎はついさっきまでの食卓に載せる。
「こんなデカいのは初めてだ」
「おおきいわね」
少し観察する。
不気味で不思議で、少し滑稽で、食うと特別にうまいので二人が大好きなウナギだ。
いつしか自己流で覚えた段取りで、一郎はそれを上手に捌く。
大皿の上に、整った形の長い魚の身が、二枚揃う。
二人のこの朝の仕事は、これですっかり、済んだ。
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