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世良一郎と伊吹マリが棲んでいるアパートの部屋は、すでに二人にとって快適なものだった。
改善の余地はいくらでもあるのかもしれないが、二人とも思いつかなかった。
それぞれの頭の中にある理想のすみか、たとえば、ガレージ付きの一軒家だったり、花火には絶景の高層マンションなどは、想像してみることはあっても、まるで要らないのだ。
恐ろしいほど安普請であっても、広さは間に合い、換気や採光がちょうどよかったせいもある。
しかしなんと言ってもこの部屋の主人公は一郎とマリの二人だ。
礼儀正しく、しかし軽い、暗黙の掟のようなものはあっても、お互いを責めなじるようなものではなかったし、仮にそれが、まだ慣れないころあったとしても、今は順調に運転されているのだ。
こういうことは、口に出して祝うと、そこからヒビが入るものである。
二人は慎重に、しかし萎縮も遠慮も無理もせず、気取りもせず、そこは何とか乗り越えたのである。
彼らがこの部屋にすんでもうじき二年になる。
二人が出会ったきっかけは、世の中のすべての男女のように、ささやかであっけない。
街のあるデパートのそっけない書店で、趣味の映画雑誌を取り寄せた一郎が、そのときに世話をかけたのがマリだった。
いまにしてみれば一郎は、好意の種を、すでに自分の心に植えていた。
果たしてその種は、出芽し、かわいい双葉になった。
あるとき、冷静を努めながら、マリを食事に誘ったのである。
マリはと言えば──
書店の仕事は忙しいので、動かない建物などの周りで、群衆だけが渦を巻く映像のような、そんな日々を過ごしつつ、その中にひとつだけ・ひとりだけ、動かず自分を見ている目を、何か温かいものとして、感じていた。
あまり意識すると、切れてしまう細い糸のように、それは確かに、マリは感じていて、ただ、それだけのことだった。
だから、一郎に礼儀正しく誘われた時には、ごく自然に、
「はい」と答えた。
言いながらマリは、何かいい意味でひとつ大人の女になったような、そんな気もしていた。
約束通り駅のモニュメントで待ち合わせてみると、そのときお互い初めて、思いがけずうろたえた。
一郎は当てにしていた小奇麗な中華料理店と、ほかにいくつかの素朴なレストラン、ただしなるべく静かで空間的にも落ち着けそうなところを提案し、マリは「どこでもいいわ」などとも言わず、二人の意見は中華で一致したのである。
ぎこちなく並んで歩いた。
二人の背丈や歩調は、公平に見ても、釣り合っていた。
二人とも比較的しずかな声で話したが、話に何かピントが合うと、思わず高い声が出てしまうところも似ていた。
そういうわけで、彼らのディナーは、質素でリッチで楽しく、サービスは気にもならぬ温度と湿度の空気のように、心地よかった。
料理の皿たちは正当な視線と評価を受け、褒められて、もし料理に気持ちがあるなら、かなり喜んだ。
ここですでに、一郎とマリは、れっきとした、世界の主人公だったのである。
名残り惜しい別れはあっさりと、しかしくっきりと、ある、まだ交わしていない次の約束をどこかに刻みながら、済んだ。
二人はお互い、離れたところに住んでいることを互いに知ったが、それはもうどうでもいいことだった。
何度もデートを重ねた。
お互い、もっと会いたくなったが、伸び縮みする会えない時間が、不思議なリズムになった。
それぞれに故郷があり、両親や兄弟やその他の係累がいて古い友人がいて、つまり基本的に幸せな人同士だ。
ありそうで、必ずあることでもない。
恵まれているのか二人は、いつも落ち着いて、だから少し情熱的な話し方がどちらかから出ると、新しい味覚のような、新鮮な気持ちになった。
一郎には実は自分の人生を「まるで映画のようだ」と思うところがあり、それは満足され続けていた。
マリには親友にもまだ言ったことのないような、恐ろしいけれど飛び込みたい、むしろ溺れたい、自分でもまだ説明できない、恋愛の世界があった。
お互い楽しく無邪気で単純なカードゲームを楽しむように、位の低い札から、楽しみながら少しずつ出していた。
かけひきではなく、むしろ恥じらいのようなもの。
しかし、決して退屈とか、まして倦怠というのではないが、カードはだんだん切り札に近づく。
ついにあるとき、
「ぼくはマリさんが好きです。とても好きだ」
「ありがとう。わたしも」
そう言い交わしたときまで、彼らはある意味では効率の悪い、丁寧すぎる言葉を使っていたのだ。
一郎としては、スペードのエースを切った。
マリがそれに重ねたのはハートのエースである。
つまり、つまりそういうことだ。
いま二人は、ちょうどいい広さの、その部屋に暮らしている。
野心も無ければ諦めがあるわけでもない。
とくに大人しすぎるとか、何か信仰めいた確信があるわけでもない。
似た者同士でもないし、異文化が立ちはだかってもいない。
改善の余地はあるかもしれないのだが、とても気持ちよく暮らしているのだ。
都心からはやや遠いその駅は、それなりの駅前の猥雑さと旧さを備えていた。
あえて言えば、マリにとっては書店の会社の斡旋で入ったワンルームマンションより、通勤に時間がかかるようになったことがあるが、とくに問題ではなかった。
少々飽きてきていたし。
一郎にとっては、学生時代の仲間で、ガヤガヤとシェアしていた一軒家も、どことなくルールが崩れ、少しではなく嫌気がさしていたのだ。
なにもかもがうまくいく。
理由はなく、そういうものらしい。
部屋探しの楽しさや難しさ、いざ契約するときの面倒は、世界中の恋人同士と、そうは変わらない。
どうでもいいような家財道具を集結してみると、あれほど可能性のあった部屋が、がっかりするほど圧迫されるのも、同じだった。
おたがいに礼儀正しく相手を尊重し、しかし譲れないものは譲れず、ある二人の空間は今後は裂くことが難しいように、噛み合い、混ざってゆく。
そのとき一対の人たちは、そのことに思いを寄せるいとまなどなく、ほがらかに混ざっていくのである。
その時の緩やかな温度変化か、あるいは酸とアルカリの混交は、科学の世界では何か、もう引き返せない値という言い方がある。
つまり一度つながった砂山は、もう元には戻らないという理屈。
しかし一組の恋人たちには、そうした科学の法則をはるかに超えたものがあるし、あると願いたいのは、すべての人の実感である。
難しい理論めいたような説教臭いこの説明はもうじき終わる。
ただ一組のカップルが、ここでひとつ、幸せに結ばれ、かんたんに言うと恙なく、二年が過ぎたところである。
それがちょうど、いま。
濃すぎるが最大にうまい紅茶だとか、強い酒のテキーラと炭酸を混ぜたカクテルとか、うまく炊きあがったご飯や、世界一辛いというペッパーソース。
二人は未知のものを二人で試し、笑ったり驚いたりした。
その一方で、何度も観て信頼しきっている映画を繰り返し観た。
世界のどこかで、何かは起き続けている。
ある日、一郎は、うまいチャーシューを作った。
マリは、全世界と自分の過去現在未来を言い当てたような名言を発見した。
「はらへったか」
「さっきから、お醤油が煮えてるいい匂いを出しまくってる」
「へへへ。ご飯係はどうだい」
「いつもどおりよ」
白くふっくらとしていて、艶と弾力のあるそのうまい飯については、二人ともただ、
「おいしいごはん」と呼んでいた。
煮えたての、一郎の言葉で言えば「ちょっと別格」という、五〇〇グラムの塊の豚バラ肉を、質素な醤油とネギやニンニクやショウガをベースに煮たそれは、ふたりの大皿に載っていた。
「どうぞ」
「あたしから?」
「ぜひぜひ」
「ではでは」
と差し出す箸は、とろけるように刺さっていき、落とさないように運んで、手元の小皿で眺めて、口にするとき、一郎が自信たっぷりに見ている。
しょっぱくて香り高く、肉の風味と脂の甘みが渾然として、マリは唇は閉じたまま微笑んで、たまらない笑顔で頭を斜めに振る。
「じゃ、ぼくはご飯をいただきます」などとわざと慇懃に言いながら、輝くような飯を盛り付ける時、マリはまだ、チャーシューにうっとりしている。
冷たくてうまい水もあるし、早めに封切りしなくてはいけない日本酒もあるし、安いがその値打ちは二人が安心仕切っているワインもある。
静かに豊かな一口ずつ二口ずつを味わったあと、何もタブーではないテレビをつけてみると、少し気象には知識のある一郎の興味を引くような天気図が映っていた。
聞けば聞くほど曖昧になる気象予報士の解説は小さな音量にする。
天気図は、模様として見ても、不思議に美しいような、しかしどこか禍々しいような、輪の重なりだった。
「お天気悪くなるの?」
「うん。これはなるね」
「そっか」
「でも、なんだろこれ。見たこともないし、不思議だ」
醤油のタレと脂で濡れたチャーシューは、まだ皿にたっぷり残っていた。
白いご飯は土鍋に、堂々とまだまだあった。
素晴らしいが、もはや二人は特に大げさに驚きもしない夕食が、豊かに進む。
窓に何か硬くも柔らかくもないものが、トンと当たる音がした。
ひとつではなく、徐々に数を増して当たった。
夕食が、終わりかけのころである。
「あのね、さっき、すごくいい言葉を思い出したというか思い浮かんだのよ」
「うん」
「過去と今と未来、みたいな」
「へえ」
「忘れちゃった」
「なんだよそれ」
窓に当たるものは、しだいにその大きさと重みを増すようだったが、二人とも見てみようとしなかった。
横着者なのは二人ともにしても、そんなことより、相手が大切だった。
外界の自然などへより、もっと大きい無限大と言いたいほどの関心があるのだ。
何度か話したことのある、幼少期の思い出話をした。
どんな音楽よりも、いつも新しく楽しい話題のひとつだった。
洗いものを志願する「フリ」は卑怯だと思っていたので、意を決して立ち上がった一郎に、
「いいわ、あたしやる」と留めたマリは、洗いたかったのだ。「すごく洗いたいんだよ」
「ではでは、お言葉に甘え」
一郎は窓を開けた。
生ぬるいが決して不愉快ではない風とともに、見たこともない大きな雨粒、それも肌に当たってから微妙に粘るようなものが、かなりの速いリズムで吹き込んできた。
「なんか変な雨が降ってるよ」
「え?」
水を流しているマリには聞こえなかった。
一郎も繰り返さず、その不思議な雨を観察した。
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