session04:物語の終り

「あなたは何をしているのですか」

治療中止の診断書を送り返すと、地域保健医はハルカへと説明しているカスミの診療室にやってきた。

「わたしはカウンセラーとして、潮風さんの治療中止を判断しました。わたしが彼女の担当であり、わたしに判断する権限があります」

「いけません。彼女は物語不在病ですよ? それを放置など。ありえません。早急に治療を再開してください。保健医としての勧告です」

カスミはハルカに目をやった。「すみません潮風さん、退出されても構いません」。ハルカは頷いたが、椅子に座っていた。

保健医はすこしばつのわるい顔をして、眼鏡をかけなおす。ふたたび、再開してください、とゆっくりと繰り返した。

「彼女は彼女です。他の物語を無理やり押し込む必要はない」

「あなたはカウンセラーとしての仕事を放棄していますよ」

「違います。わたしは治すべき病を治すだけです。彼女は物語がないことに苦痛を感じていない。ならわたしは介入すべきではなかった」

「未来はどうなりますか。彼女がいつか物語不在病で困難を抱えたとしたら。まさにあなたのように」

「わたしの困難はわたしだけのものです。それはわたしが背負うべき困難で、あなたにその選択をどうこう言われる筋合いはない。それは潮風さんに対しても同様です」

「あの」

立ち上がり、部屋中に響きわたる怒声がふつとやんで、わずかな反響が聞こえた。

「わたしは、わたしはまだわかりません。わたしがちゃんと物語を語れるようにならないとおかしいのは先生に教えてもらいました。でも、わたしはそれはほんとうにそうかな、と思って」

保健医は分かります、と優しく語りかけた。過去のカスミがそうしたように、あの言葉を繰り返すのだ。

ひとは過去を愛する。失った過去を惜しむ。それこそが人間の本性です。もしその気持ちがなければ人間ではないほどのものです。人間は過去を愛するものです。人間は物語を語るものです。人間は物語を生きる存在なのです。

「彼の言うことは間違ってはいません。保健医の彼の言う通り、物語を語れないことは病とみなされます。ですが、潮風さん、あなたは選ぶことができる。それを示せなかったのはわたしの明確なミスです」

「わたしは……」

言いかけたハルカをさえぎって保健医は喋りだそうとした。

「静かに」カスミは制する。

「先生、わたしは、わたしは物語を語れなくてもいいです。わたしは後悔できなくてもいいです。もしかしたら人間じゃなくてもいいです。わたしには、それでも、わたしと一緒にいてくれるひとがいるから……」

カスミは微笑んだ。

「ええ、あなたには可愛らしいお友達がいます」

瞬間、診療室の扉がけたたましく開いた。

「ハルカ!!」

「ユウギリちゃん?」

見ると、肩で息をして、制服の少女が入ってきた。ぽかんとしているカスミと保健医を睨む。

「あなたたちがハルカにいらないことを吹き込んだんでしょ。もう終わりです。ハルカはこんなところには来ません。わたしといっしょに帰ります。ご迷惑をおかけしました!」

ほら行くよ! とユウギリは嫌がるハルカの腕をぐいぐい引っ張る。

「ユウギリちゃん! ちょっと待って!」

「待たない!」

「潮風さんのお友達の方、ほんのすこしだけ待ってもらえませんか?」

ハルカが懇願すると、ユウギリはハルカの手をぎゅっと握ったまま、カスミの真正面に立った。

「潮風さん。わたしと、あなたのことについて、ユウギリさんには話していますね?」

ハルカはすこし申し訳なさそうに肯く。

「ユウギリさん、わたしは潮風さんのカウンセラーの安藤カスミです。これまで潮風さんの治療を行なっていたのですが、いまちょうど、その中止を潮風さんにお伝えしていました。そこにいる眼鏡の方は地域保健医の方です……すみませんが武田さん、この状況では退席していただいた方がよいかと思います」

「それで?」ユウギリが言った。

「もうすぐ終わります。ただ、最後のセッションを潮風さんとさせていただけませんか。潮風さんがよければあなたも腰掛けていただいて」


❇︎


「わたしは、潮風さん、あなたにわたしの物語を押し付けていました。わたしの物語を話すことはできません。それはあなたの物語ではもはやないのですからね」

カスミは、手を繋いで立つユウギリとハルカを見る。その後ろに隠れている幼い子どもの幻影が顔を覗かせた。

「物語を持たないことで、わたしたちは追加の誤りを犯すわけではありません。わたしたちは、過去の過ちを現在も同時に生き続けてはいる。でもその過ちとの向き合い方が違うのでしょう」

子どもがゆっくりとこちらにやってくる。みるとずぶ濡れで、ぼたぼたと水が落ちる。その水滴は診療室のフローリングに落ちる前に、どこかに消えていく。

「先生、先生は物語を持たないんですか?」

「はい。わたしには物語がありません。でも、過去はやはりあるのでした」

「先生、わたしもいつか、過去に向き合うときが来るのでしょうか」

カスミは最後に微笑んだ。

「でもきっと、今ではないでしょうね」

ユウギリは当然のような顔をする。ハルカはゆっくりと肯く。

カスミはそれを確認して、しゃがみ込み、近づいてきた子どもの幻影と目線を合わせた。

「先生?」

「ごめんなさい……すこし、昔のことを思い出していて」

そのちいさく丸い頭を撫でてやる。その度に濡れていた髪がふんわりと空気を取り戻して乾いていく。やがて、天使の輪が光り始める。

いつのまにか、午後の光だけが床を照らしていた。


❇︎


「結局天使の話はどうなったのかな」

よく晴れた日、カフェ席には気持ちのいい風が吹いている。すこし遅い昼食をふたりで食べている。

「天使は人間にならない。そして、他の天使も無理やり人間にはできない。そんな簡単なことを知った」

タイヨウが訳知り顔でこちらを見ているのを無視すると、遠くでふたり連れが見えた。こちらに気づいたのか、連れ立ってやってくる。

「なんだ。カスミさん。いるじゃん。友達」ハルカがしげしげとタイヨウとカスミを見比べる。

「ハルカさんと同じ、いや、ユウギリさんの方が素敵ですね」

「まあね。わたしがハルカのこといちばんよくわかってるから」ユウギリが胸を張る。

「よく分からないがぼくの悪口が言われているということはわかる」

タイヨウは苦笑しながら、ハルカとユウギリに自己紹介した。

「そういえば、ふたりは冬服になったんだね」カスミは言った。

「そうです。冬服のハルカかわいいでしょ」

カスミはまた笑った。

「ねえ、カスミさん。気づいてますか?もう次の季節がはじまるんですよ」

ハルカがカスミの向こうを見上げた。カスミもそれに釣られる。タイヨウとユウギリも目をやる。

高い空にもう一度秋の風が吹いた。夏はもう終わったからだった。

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あなたの物語のはじめ方 難波優輝 @deinotaton17

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