session03:花火と雷雨

花火の音が上がった。カッカッと下駄の音が行き交う。いつもよりひとはまばらだが、みなめいめいに華やかな格好をして、暮れ行く夏の終わりを味わおうとしている。

カスミはタイヨウと連れ立って出店を冷やかしていたが、編集から急に連絡が入り、取り残されてしまった。遠くの人の行き交いを眺めながらベンチに座って焼きそばを食べていると、笑いざわめく若い学生の集団を見つける。誰かがとてつもなくおもしろいことを言ったのか、どかん、と笑いが巻き起こる。花火みたいだな、と思った。その中の向日葵の浴衣に目が留まって、向こうもこちらに気づいたのか近づいてきた。


「やっぱり。カスミさんだ」

「見つかっちゃいましたね。潮風さん。外で会ったのは内緒ですよ」

ハルカはにっこりと笑った。縁日の柔らかい電球の光りを受けて、汗ばんだ額がきれいに輝いた。

「友だちと来ていて。ほら、前に話しましたよね。中学校時代のユズちゃんグループ」

「ああ、きみが、でしたね」前回のセッションでの話を思い出す。

「はい。でもどうでもいいんですよ。だって、過去の話で……って後悔したほうがいいのかな? あれ、でも、わたしは傷つけてないから……大丈夫ですよね?」

カスミは笑った。友達を待たしているので。またと、ハルカは黙礼した。

「今日あったことは忘れてくださいね」

「はーい!」

下駄を軽快に鳴らして駆けていく後ろ姿にカスミはなぜか懐かしい気分になった。こんな体験をしたこともなかったのに、どうしてか、遠くの方で談笑するハルカの横顔がかけがえなく価値のあるものだと、傷つけてはいけないものだと思ってしまって、ため息をついた。

ハルカは過去の話をまだ全然切り離せている。ただたんに自己の過去を悔めるようになるだけでは不十分。傷つけ、そして傷つけられたことにも深く後悔してもらわないと。

「わたしは、あなたを人間にしなければならないから」

もう一度ハルカの集団を見ると、これから別の場所に移動するところだった。最後尾ですこし離れて、こちらをじっと見ている人影がひとつ。呼ばれたのか、その影は慌ててグループに追いつこうとした。

「あ、コケた」


❇︎


「うわびっくりした」

「失礼だ」

もう帰ったかと思ったよ。とタイヨウはカスミの隣に座った。出店はもう店じまいを始めている。ひとびとはもう去って、あとは静かに睦あう二人連れをたまに見かけるだけになった。


「お祭りの日なのに悩み事かい。もう終わりかけだけど」

「そう、悩みごとだよ。深い、深〜いね。」


タイヨウが来るまで、カスミは前回のセッションを、先ほどの横顔を思い返していた。


––––わたしはほんとうに治るべきなんでしょうか。友達にも、ユウギリにも悲しい顔をさせて、わたしは過去を悔めるようになるべきなんでしょうか?


真昼の診察室。ハルカは、横になりながら、天井に向かって呟いている。カスミは、その横に立って、ハルカを眺めている。診察台はこんなに大きかったのか、ハルカの手足は、台の上にすっぽりと収まっていた。窓に置いた観葉植物の複雑に伸びた影がハルカを覆っている。


「きみの物語だね」タイヨウは買ってきたサイダーを開けた。もう店仕舞いだからってまけてもらったんだ。

「そう、わたしの」ハルカはありがとう、と言った。口のなかにぱちぱちと青い泡が広がった。


小さなハルカを見下ろしながら、カスミはその横たわった姿にじぶんの過去を見た。雨に濡れた幼い姿を。


「天使を愛する者がいるなら、天使は人間にならなくてもいいのか?」サイダー瓶の中のビー玉を降る。

「ぼくはいつもそう言ってるじゃないか」タイヨウは微笑んだ。


カスミは、診療室で、クライアントの病を治す。治すことで癒されていく。

だが、クライアントの病をなぜ治さなければならないのか?

なぜハルカは物語を語らなければならないのか?

カスミは、じっとハルカを見つめる。亡霊のように浮かぶカスミを見つめる。


「だとすれば、わたしはいったい何をしているんだ?」


❇︎


7度目のセッション。今日は朝から強い雨が降っていた。さっきから雷も鳴りはじめた。時間はいつでも変更してくれていい、と言ってあったので、昼休憩の頃事務にチェックしたが、連絡はなかった。予定より20分過ぎた頃、扉が開いた。

「すみません遅れました!」

汗ばみ、制服を濡らしながらハルカが息を切らしながら入ってきた。カスミはいつもと変わらない笑みを浮かべる。わたわたと焦りながら診療台に横たわろうとするハルカを制して、椅子に座るように促した。最近はどうですか? と訊ねる。

「前よりずっと……物語の意味が分かるようになりました……って言うのは、その、後悔がどんな風かとか、過去に苦しむのがどういうことかとか」

カスミは頷いている。それで?

「それで、だから、気分は……気分はとてもわるいです。いつも、過去のことを思い出して、暗くて、前みたいに何も考えていなかったのが想像つきません……これが人間らしくなるってことなんですね」

カスミは微笑んだ。あなたは頑張っています。それは見ていても、そしてもちろん、あなた自身もよく分かっていると思います。あなたはとても力強く、より人間らしくなっていっていますよ。それは、人生を深く生きられるようになってきたということでもあります。いつもの柔らかく低い声で語りかける。


嘘だ。とカスミは心の中で思う。カウンセラーとしての言葉を再生しているだけだ。ほんとうに過去に苦しむことが、クライアントにとって正しいのか、それがよいことなのか、分からなくなってしまった。


わたしは間違っている。物語に生きなければならない。そうでなければ、わたしは人間ではない。わたしは幸福になる資格がない。


だが、この若い少女は? 夏祭りの横顔、彼女を慕う友人、誰も彼女に変わって欲しいと願ってはいない。なら、なぜわたしは彼女を変えなければならないのか?

わたしは変わらなければならない。わたしは罪を犯したから、だが、彼女は何を犯したのだろうか? 何も。少なくともわたしの知る限り。

「でも、どうしてか分からないんです。ごめんなさい先生。わたしはときどき、いまはもうずっと、先生の言っていることが分かりません。なぜ物語がそんなにも大切なんですか? 物語なんかなくても、幸福になるかどうかなんて関係ないんじゃないですか?」

「関係ある」カスミは低く唸るように言った。

「先生……?」

「あなたは間違っている。あなた物語に生きなければならない。そうでなければ、あなたは人間ではない。あなたは幸福になる資格がない」

あなたは、幸福になるために、不幸にならなければならない。

「でも……先生はどうなんですか?」

「わたし?」

「だって……先生もわたしと一緒でしょ? わたしと一緒の病気、物語不在病でしょ!」

カスミは思わず立ち上がった。その直後、急いで自分の表情を繕おうとしながら、なぜこの少女がそれを知ったのかと考えて、

「何の話ですか? その発言であなたは何を求めているんですか?」

「先生の話です。先生自身がなぜ物語不在病を治そうとするのかを訊きたいんです」

「それはさきほど言ったように、人間になるためには物語が……」

「それは先生の言葉じゃないと思います。先生はなぜこの病気を治さないといけないと思うんですか」

「それは……それは」

あのまなざしに責められているから。あの父のまなざしに。

カスミはそのことに思い当たって、鳥肌が立った。いつも知っていたことなのだ。だが、なぜいま彼女に突きつけられたのか。カスミは治療者としての立場と少女の前に立つ大人としての立場が揺らいでいるのを感じた。足の感覚がなくなり、立っているのが不思議に思える。どこかでまた雷が鳴った。

「先生? 大丈夫ですか?」

カスミは眼を瞑った。遠くから聴こえるハルカの問いかけが頭に響く。

「わかった」

カスミは椅子に倒れ込んだ。

「きみの言う通りだ。わたしはもうきみを治療する必要はない」

カスミの眼には、突然のことに眼を開くハルカが映る。

だが、わたしは、わたしは治療されなければならない。

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