session02:天使と水路
今日は猛暑日になる予定です。みなさんマスクを着けると熱中症の恐れがありますので、お気をつけて! と誰かのラジオが声をあげた。
パラソルが地面に濃い影を作っている。閑散としたカフェのテラス席で、カスミは遅い昼食を取っていた。開かれた窓から店内のジャズが微かに流れ出てくる。汗をかいたレモネードのプラスティックボトルがきらっと光った。物憂げに若い緑色のストローを咥えて、感染を恐れてか誰もいない昼下がりの街の通りを眺める。並木の草木が燦々と光る太陽を気持ち良さそうに浴びている。
「きみにしては珍しいね」
「そう? 別に誘ってくれたらいつでも暇だから」
「そうかな。この前は既読無視されたけど」
「そう? たまには忙しいこともあるね」
「嘘だ。いつでも忙しい、たまには暇、だろ」
カスミは大空タイヨウの言葉を聞き流した。ストローを噛みながら、上目遣いで睨む。
「理屈っぽい男は嫌われるよ」
「きみにしては珍しい失言だね。ワンナウト」
ばーん、とタイヨウは人差し指を立ててカスミを撃つふりをする。うわーやられたーと棒読みのカスミは椅子からずり落ちそうなほど凭れる。見上げた空はひたすら青い。まだ夏は終わっていないようだった。
「それで? 今日はぼくとのデートに来てくれたからには、おもしろい話が聴けるんだろう? ちょうど次の小説のアイデアを探していたんだ」
「デートじゃないし、おもしろい話かどうかはわからない」カスミは小さくため息をついた。「とてつもなく厄介なわたしの物語の話さ」
「とてつもなく?」
「とてつもなく」
「きみを脅かすような」
「わたしを脅かすような」
カスミは寓話を語った。天使の話だ。ある日天使は地上に間違って墜落した。天国で暮らしていたはずなのに、人間の世界に紛れ込んでしまったのだ。天使は持ち前の明るさ、天真爛漫さでひとびとに愛された。だが、天使は天使だ。人間ではない。だから、天使は少しずつ人間たちに疎まれていく。天使は、すべてを赦すがゆえに天使であり、そして、人間たちはすべてを赦す存在を許せないのだ。
「へたな寓話だ。小説家のぼくに聴かせようとよく思ったね」
「お前が訊いたんだろ。茶化すなら帰る」
「ごめんごめん。あんまり下手だと守秘義務にも引っかかるんじゃないかと心配で」
「わたしは、わたしの物語しか話してない」
「たしかに。何度目かな、何度も聴いたきみの物語だ」
「そんなに相談してはいないと思うが。してないよな?」
「さあ。頭のよさと記憶力のよさは独立だというのがぼくにとっての知性の理解の重要なポイントのひとつだね」
タイヨウは熱いコーヒーを啜った。挽きたての豆を思わせる匂いが漂った。
「きみは悩んでいる。きみは天使だ。そして人間になりたいと思っている。その白い翼を自ら捥いで」
「安い比喩だな。それでよく小説家を名乗ろうと思うもんだ」
「だが、どうして天使は天使のままではいれないんだろう。いいじゃないか。天使を愛する人間もときに存在するのだから」タイヨウはウインクした。「ぼくは、きみには価値がある、と信じているよ」
「趣味が悪いな」
カスミは食後に頼んでおいたデザートのティラミスを頬張った。甘さとナッツの香ばしさが口いっぱいに広がる。そして、最後に少しだけ苦味が薄っすらと舌に残る。
「天使は人間にならなきゃいけないんだ」
※
夕焼けが鏡のようなビルに反射して、きつい光にカスミは目を細めた。疲れてゆるやかに家路に向かうスーツのひとびとがそこここに群れをなして、長い影を連れて歩いている。複雑な色をした遠くの空を鳥の影が飛んだ。
少し早い帰り道、久しぶりに手の込んだ料理をしようと寄ったスーパーの、ずっしりと重い袋を手に提げて歩いていると、コツコツ、後ろからついてくる足音にカスミは気づいた。早歩きをすると、足音は合わせて追いつこうとする。カスミは笑みをこらえた。クライアントに尾けられるのは一度や二度ではない。だが、今回は珍しいケースのようだ。さらに歩幅を狭める。足を前へ前へとどんどん踏み出す。後ろの足音が早まる。手ごろな路地をさっと曲がると、ぴたりと塀に張り付いた。そして、
「わあ!!」
「ぎゃ!!!!」
どさ、と尻餅をついた、うめき声をあげる姿をみると、制服を着た少女だった。
「だいじょうぶ?」カスミは手を差し伸べる。
「ッ!!」
手を振り払うように少女はばっと立ち上がる。ハルカを幼い眼でキッと睨んだ。
「わたしハルカのこと知ってるんです!」
「ん? 誰のことですか?」
「ハルカのぜんぶを知ってるんです!」
「誰かのぜんぶ、ですか?」
とぼけるカスミの真正面に立って、制服の少女は身体中の筋肉を緊張させて、こちらに激しく興奮した目つきを向け続ける。
「ハルカのことを歪めないでください!」
「よくわかりませんが……どういう意味ですか?」
「そのままの意味です! 彼女をそのままにしておいてください!」
「なるほど? そのままの意味? そのままに?」
「バカにするな!」少女は、さっと顔を赤らめて叫んだ。「わたしは何もかも知ってるんです。安藤カスミさん。あなたがハルカのあの病気を、治療しようとしていること!」
「はあ」
「あなたがハルカを歪めようとしていることです」
「さあ。わたしはどう答えるべきですか? わたしがプロのカウンセラーなら、あなたの発言には一切応えないのが妥当でしょうね?」
少女は、じわりと涙目になってきている。いじめすぎたかな、とカスミはすこし反省した。
「何か誤解があるようです。わたしはカウンセラーです。ナラティヴ・カウンセラーです。この仕事はひとを治す仕事です。いかなるクライアント相手でも、決してあなたが思うようなことはしていませんよ」
「嘘つき! あなたはハルカを無理やり歪めようとしてるんです、物語のない人間に無理やり罪悪感を抱かせようとしてるんです! わたしは、わたしは絶対にハルカをあなたになんか汚させない!」
物語なんかなくてもハルカは幸せなんだから! と少女は叫んだ。そのあと、どうしたらいいのかわからなくなって逡巡したのち、逃げていった。
カスミはしばらく夕陽の方へ走り去る少女の後ろ姿と長い影を眺めていた。
「あ、コケた。痛そう……」
※
3回目のセッション。カスミは診察台に横になっているハルカの耳元に口を近づける。そっと囁く。
––––では、あなたの物語をはじめましょう。
「ねえ、先生」
「なんですか?」
「わたし、どんどん不幸になっていく気がする。いつもなら何でもないことでも、落ち込んだり、苦しくなったり、それだけじゃなくて、ふと昔のことを思い出して、嫌な気持ちになったり、なんだか、ずっと胸がざわついていて……」
「それが正しい過ちです。とてもいい兆候です」カスミは、低く落ち着いた声で、柔らかい耳に語りかける。「さあ、ハルカさん。今日はどんな過ちを犯しましたか?」
「卵を茹ですぎてしまいました」
「過ちですね」
「宿題を授業中にやりました」
「過ちですね」
「友達に……嘘をつきました」
「過ちですね」
見つけた、とカスミはつぶやいた。わずかな岩の隙間から流れ出る水。その隙間を少しずつ広げてやる。
「どんな友達ですか?」
「言わなきゃ……ダメですか」
「言いたくなければいいですよ」
「……幼なじみで、いつもわたしと一緒にいて、わたしをいつも助けてくれる友達です」
「よくコケますか?」
「はい……え?」
「嘘はよくないですよね」
「はい……嘘はよくない……」
「友達に嘘をつくとどんな気持ちになりますか?」
「心のなかが落ち着かなくて、なんだか、友達に、ユウギリに近づきたくなくなってしまう……」
あのかわいい友達思いの子はユウギリちゃんと言うのか。
「先生、なんで笑っているんですか」
「ごめんなさい。すこし、楽しいことがあって。でも、友達だから、ユウギリちゃんと仲良くしてあげましょうね」
「はい……」
「嘘をつきながら、疾しい思いをしながら、悔やみながら、仲良くしましょう」
「はい」ハルカは苦しそうなかすれ声で答える。
じんわりと全身に満足感が広がる。カスミはクライアントが治り始めるこの瞬間がとても好きだった。クライアントが前に向けるように、人間になれるように、幸せになれるように、ここから、あたらしい人生をはじめるために。
「あなたの物語ははじまっていますよ」
「よかった……」ハルカは深く息を吐いた。
カルテにチェックを入れる。セッションは順調。心の栓は開いた。後悔の水が流れ出す。そして、水は少しずつ、心に跡をつけ、微々たる速度で、心に水路が刻まれていく。
カスミはハルカが手をつけなかった冷めたハーブティを飲み干した。
「まずいな」
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