あなたの物語のはじめ方

難波優輝

session01:物語の病い

残暑が去らない夏の終わり、窓越しの午後の光がクライアントの半身を柔らかく包んでいる。ハーブティーの匂いが湯気に乗って鼻を横切った。


「先生、ぼくは夏を終わらせられたような気がします」

「ええ、あなたはきちんと夏を終わらせられましたよ」


ゆっくりと診療室の扉が閉じられる。微笑んだままクライアントを見送ると椅子に深く腰掛ける。カスミは満足げにため息をついた。カルテを整えながら、チェックを入れていく。


今回のクライアントは一夏の恋をいかに終わらせるかが勝負だった。物語精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual Narrative Mental Disorders)では、DSMN–7分類における「夏夢病(summer dream)」。物語病としてはありふれているが、だからといって治療しやすいわけではない。


クライアントは深く悩んでいた。何年も前の恋。クライアントの犯してしまった裏切りから、ふたりは互いに想い合いながらもふたりでいることがふたりを傷つけていった。それをいまだにクライアントは思い出す。夏が来るたびに古傷が痛む。それをクライアントは過去に囚われた間違った態度だと自己否定する。

だが、それは「正しい過ち」なのです、とカスミはクライアントに言った。


––––ひとはみな物語を生きています。

––––悔やむことは人生の物語を深く語ることです。

––––あなたは「正しい過ち」を犯してしまっているだけなのですよ。


ひとは過去を愛する。失った過去を惜しむ。それこそが人間の本性です。もしその気持ちがなければ人間ではないほどのものです。人間は過去を愛するものです。人間は物語を語るものです。人間は物語を生きる存在なのです。


だが、あまりに人間的であることは、苦しみを生み出す。過去の失恋、悲哀、裏切り、間違い。癒えない傷を掻き毟ってはひとはじぶんを傷つける。その手を取って、すこしのあいだ掻くことを止める。それがわたしたち「ナラティヴ・カウンセラー」の仕事なのです。とカスミは言った。言ってきた。言い続けてきた。自転車の乗り方のように身体に染みついた語り。



「いつも夏をはじめられないんです」と少女は言った。

ちらと紹介状を見ると「物語不在病」とある。カスミはカウンセラーとして、つねに表情をコントロールする自信があった。今回はすこし自信がなかった。

ふたたび少女の方へ目線を向ける。制服のスカートから足がすらりと伸びている。さきほどから膝を指で叩いている。細長い指でピアノを弾くように。少し緊張しているが、表情は暗く沈んではいない。この子が。とカスミは心のなかで呟いた。


「みんなと同じように物語を語れないんです。みんなと同じように人生を生きれないんです。みんなと同じように過去を悔めないんです」

潮風しおかぜハルカ、と名乗った少女は気恥ずかしげに笑った。

「でも潮風さん、あなたはそれに苦しんではいないんですね」

「はい。でもおかしいんですよね。いままではずっとそれがふつうだと思っていたんですが、学校で検診を受けたとき、地域保健医のひとに絶対に治療しなきゃいけないって……」

「そうなんですね。勇気が必要だったしょう?」

ハルカは上目遣いで小さく頷いた。


潮風ハルカ。高校二年生。付近の進学校の生徒会および弦楽合奏部所属。学業に不安はなし。友人関係に問題はなし。

聞き取りながら、小さな印象の標本を心の中で並べていく。ハルカが髪に触れたか。唇を湿らせたか。窓にちらと目を向けたか。椅子に座り直すか。目線を外したか。咳払いをしたか。どんな違和感と偏見をじぶんが感じるか。


「友達にも言えてないんです。まさか物語不在病だと知ったら……きっと変な顔をされちゃうだろうし……もしかしたら」

クライアントは俯いたまましばらく黙っている。カスミは頭の中で10秒数えた。

「どんな気持ちですか?」

「不安……です」


気持ち悪いな、とカスミは思った。物語不在病が発覚したクライアントにしては落ち着きすぎている。「不安」とカスミ頭の中で繰り返した。たかが「不安」だって? 印象の標本に加える。地域保健医はいつも厄介な症例をこちらに押しつけてくるみたいだ。眼鏡の小憎たらしく口を歪めて笑う姿が脳裏をよぎった。


物語不在病。DSMN–7分類においては花形の精神障害のひとつ。症状にはかなりの幅があるが、共通点は過去の出来事に悔やむことができないこと。物語の断絶の病い。過去は道徳的非難を超えて、刑罰処分さえなされてきた。なぜなら、ひとは過去を愛し、失った過去を惜しむ。それこそが人間の本性だから。もしその気持ちがなければ人間ではないから。人間は過去を愛するものだから。人間は物語を語るものだから。人間は物語を生きる存在だから。


根本的な治療法はない。認知と行動を変容させることで、後悔の行為を習慣づけることがオーソドックスな治療手段だ。この病いには拭い難い社会的なスティグマが付き纏う。その人間性は疑われる。なぜなら、人間は物語を生きる存在なのだから。なぜなら––––


「物語をもたない存在は人間ではないからだ」


ざあざあと雨が降っていた。喪服に身を包んだ父は同じく黒一色のカスミと向かい合っている。背の高い父はじぶんの腰にも届かないカスミを高く見下ろしている。雨に濡れそぼった、今よりもずっと幼いカスミに傘を差し出すこともない。


「お前は悔やむことができない。お前は間違えることができない。だから、お前は人間ではない」


カスミが見上げるその顔は、父の顔ではなかった。そこにいるのはカスミの父ではなかった。愛する女性を亡くし、怒りに震えるひとりの男がいた。愛する妻をその子どもの過ちによって死なせてしまった夫がいた。


「だから、わたしはお前をわたしの子だとはもう思えない」


カスミは茫然としていた。手足から力が抜けて立っているのが不思議だった。じぶんの意識がじぶんの身体から離れて、じぶんと父を眺めている。口の中に酸っぱい味が広がる。吐く直前の喉が詰まったようなあの感触。逃げたい。どこかに隠れたい。このまなざしから逃れられるならいますぐに走り出して。


––––ひとはみな物語を生きています。

––––悔やむことは人生の物語を深く語ることです。

––––あなたは「正しい過ち」を犯してしまっているだけなのですよ。


父はカスミの眼をじっと見ている。口を硬く一文字に結んで、身体はわずかに震えている。傘をさらにぎゅっと握る。後悔と怒りの激情を理性によって辛うじて抑えているひとりの人間がいる。雨がざあざあと降っている。


カスミは目の前の父から逃げられるなら、と祈った。だが、しでかしてしまったことを微塵も悔やんでいない。息を詰めて、必死に悔もうとする。悔やまなきゃ。後悔しなきゃ。きっと涙が流れているが、雨のせいでそれも分からない。わなわなと震える唇を冷たい雨が叩く。何度試みてもカスミには後悔できない。

実の母親を馬鹿げたことで死なせたのに。


わたしは「正しい過ち」を犯すこともできない。

わたしは「人間」ではない。

わたしは間違っている。


父はカスミをじっと見ている。

〈お前に幸福になる資格などない〉

最後に父は歯を剥き出して吐き捨てた。奇妙に笑い顔に似ていた。踵を返し遠ざかる父の最後の一瞥。雨はざあざあ降っている。カスミはひとり雨の中立っている。



少女のかすかな咳払いが聞こえた。

午後の柔らかい光が少女の影を作った。ハーブティの優しい匂いがする。エアコンの音が静かに聴こえる。誰も傷つけるものはいない。カスミの診療室。そこでカスミはカウンセラーであり、やってくる他者はカスミに助けを求めている。カスミは深く呼吸をして、緊張で硬く縮んている少女を見下ろす。俯いている少女に語りかける。


「潮風さん。大丈夫ですよ。あなたのことを変だと思うひとはここにはだれもいません。わたしも思いません。あなたの秘密は守られます。あなたの悩みを聴くために、わたしはここにいます」


ゆっくりとハルカが顔を上げた。目が合う。カスミは微笑む。クライアントを助けてあげたい。心の中に温かい感情が湧いてくる。それがわたしの仕事であり、存在意義であり、正しさ。


あなたは「正しい過ち」を犯すこともできない。

あなたは「人間」ではない。


「では、はじめましょう」


だから、あなたは幸福になってはいけない。その資格がない。

だから、なぜあなたが幸福になってはいけないのかを教えてあげましょう。

だから、わたしが幸福になるための資格をあげましょう。

だから、あなたを正しくしてあげましょう。


カスミは微笑み続けている。今度は自信がある。わたしはナラティヴ・カウンセラーだ。

「わたしが、あなたの物語をはじめるお手伝いをしますよ」

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