親指少女

和泉

第1話

 俺には小さな親友がいた。その子の体は本当に小さくて、風に吹かれたら何処かへ飛んでいってしまうんじゃないかって思っていた。

 その子は突然俺の部屋に現れた。俺が寝ているところにいつの間にか現れて俺の鼻の上でくるくると踊っていた。くすぐったくて目を開けるとその子は踊りをやめ、くりくりした大きい目で俺の顔をじいっと見て、続けてニパっと笑った。その子は黒髪ショートのとてもかわいらしい小さな女の子で、身長は6cmぐらいだった。彼女の名前はスイといった。そして、その日から俺と彼女との付き合いは始まった。

 俺はその子を密かに親指少女と呼んでいた。その理由は至って単純で背丈が親指ほどしかないからだ。でも彼女はその小ささを覆すかのような活気があった。とにかく人を笑わせる事に長けていて、それでいて優しさと元気に溢れている。「私は日本一の少女だよ? こんな飲み物へっちゃらだよ!」

 なんて言いながらスイ用についでやった小さいマグカップに入ったブラックコーヒーを飲んですぐにむせていたのはいい例だ。俺はそんなスイを見ていつも笑わせて貰った。気配りがうまく、俺がテストで悪い点をとったときには明るく励ましてくれたし、俺がイライラしてる時は愚痴を聞いてくれた。なんて優しい人なんだろうと思ったし、なんて完璧な存在なんだろうと思った。そして俺は次に自分と比較した。誰かを笑わせたことなんて数えるほどしかない。他人を思いやるなんて面倒くさいし、俺にメリットがない。他人のために自分が行動するなんて考えただけで虫唾が走る。俺はそう言う人間だ。やりたい事だけやりたいし、他人が失敗したらそりゃ内心喜ぶ。まぁその火の粉が自分に降りかかれば黙ってはいられないが。ただこの性格はバレると嫌だから心の中で罵倒するだけに留めておく。学校では他人の悪い噂やいじめ、陰口を聞くのが好きだ。普段普通な人が人の悪口を言ってるのを見るのが楽しい。性格が悪いのなんて百も承知。だけど、変わるなんて選択肢は存在しない。自分がやりたい事に全力を掛けて自分のために自分の時間を使い自分の労力をさく。別に他人の邪魔はしちゃいないし、何より俺にメリットしかない。一度きりの人生、自分のために享楽するのが一番良いだろ? 俺はこういうスタンスでこういう性格だ。

 スイはそんな俺の中身に気づかず今日も元気に笑っていた。だがそんな日々は長続きはしなかった。


 その日も俺は学校に通うために朝7時30分過ぎにベッドから這い出た。カーテンを開ければ薄暗い空が見える。天気も心も曇った月曜日。気分はだるく体は重い。俺が起きれば彼女も起きる。

「トシ、おはよ! 今日も顔が死んでるよー。どうしたのー?」

 そう言って朝一番の笑顔を見せるのはスイだ。俺の寝ていたベッドの上に仁王立ちしてニパっと笑う。

「おお、おはよ。朝から元気だなお前は」

 俺の方からはスイの笑顔に苦笑を投げかける。

「そりゃもう当然! 今日は月曜日だからね!」

「こちとら月曜日だから顔が死んでるんだわ……」

 俺はスイとの月曜日に対する温度差を感じながら、スイをひょいとつまみ上げて机の上に置いてやる。

「サンキュートシ! じゃあ待ってるから」

 スイは机に着地するとくるりと後ろを向く。いつもそうだ。そのうちに俺は制服に着替え身支度を整えると胸ポケットにスイを入れる。そうして二階から階段を使ってご飯の用意のされたダイニングルームに降りる。ご飯を食べ終え洗顔、歯磨きを適当に済ませ乱暴に教科書を放り込んだ紺のバッグを肩にかけ家を出る。スイのことは家族や友人、誰にも言っていない。これはスイの希望だ。変に大騒ぎになったら嫌だって理由らしい。そんなわけで俺とスイが話せるのは誰もいない自室と通学路ぐらいしかない。今日もスイと話しながら学校に登校する。ただ学校の手前までくるとちらほら他の生徒が見え始めるので俺とスイは口を閉じた。

 今日の学校は普段の月曜日より一層憂鬱だ。一層気分は暗くなる。まぁそれには特別な理由があるんだが。友達に会い、軽い挨拶を交わし階段を上がって教室を目指す。そして教室に入り、ようやく今日という日が始まる。

 今日はまるで最悪な授業内容だった。体育で体力を減らした後、嫌いな数学から英語2コマの最悪のスケジュール。午後は比較的マシだったが、しかし今日はついていない。花瓶に水を入れようとする女子に水をかけられそうになり、デブが教室のドアの前で駄弁っていて通行止めを食らった。隣のやつは俺のシャーペンを「良いじゃん良いじゃん」と笑ってスッと借りていくし、お気に入りだったストラップは外れた。返ってきたシャーペンはシャー芯が折れてなくなっており、何度苛ついたことか。それに加え湿気が肌とワイシャツをくっつけさせ、俺は不快感に耐えられない。ジメジメするこの季節が一番嫌いだ。

「チッ、ついてねえ」

 そんな時は早く帰るのが一番だ。終礼が終わると、俺は早速鞄を背負って教室から出ようとして、一人の男子生徒に呼び止められた。

「君は文化祭実行委員の仕事は終わったのかな?」

 ウザ……。こいつは文化祭実行委員で俺と同じ班で仕事をしている。だからこそ仕事なんて終わっちゃいない事を一番よくわかっている。にも関わらずこのような言い方をしてくるのだ。名前は学宮。俺とこいつは班が同じだけではない、その上その中で担当する仕事も俺と学宮のペアなのだ。俺の学校は少し特殊で高校2年生からは全員が文化祭実行委員になる制度がある。その為、俺も一応班に振り分けられている、が、メンツが悪い。学宮はプライドが高く、発言がいちいち上から目線なのが尺に触る。はっきり言って嫌いだ。当然表には出さないが、もっと違う班ならやる気は出ていたと思うことは多々ある。実は今日という月曜日が普段の月曜日より憂鬱なのはこいつとの仕事があるからだ。

「ああ、わりぃ。今日はまだ終わってなかったな」

 まぁそう易々と逃げられるとは思っていなかったのでこれは想定内だ。目敏く俺を見つけて拘束しにきた学宮に比較的優しく返答してあげた。 

「そうだよ、まさか忘れてたのかい。まあいいさ、早く第4分割に向かおう」

 何の断りもなく肩を叩く学宮に俺は苛立ちを感じた。気安く触れるなと言いたい。俺はいつも思うのだが、部下の仕事の効率が悪いと愚痴る上司は、部下の周りの環境に目を配ってほしい。俺は今まさしく同僚による精神的攻撃を受けている。

 そうは思いながらも、学宮と一緒に俺の所属する班の活動場所、第4分割教室に向かう。俺の教室からは比較的近く、すぐ着いた。そこには既に先輩がいたが、いつもより圧倒的に人数が足りなかった。そこには高校三年生の班長と副班長しかいない。だが、そこで俺は班長から神のお告げのような選択肢をもらうことができた。

「今日からは会議に関してはリモートでも良いことになった。インターネット社会の今、わざわざ学校でやることもない。逆にメリットの方が少ないと我々は考えた。よって、今日からはリモートでの会議をOKとする」

「まじっすか! それ良いですね。じゃあ今日はリモートでいいってことですよね?」

 俺は餌を見た魚のように真っ先に食いつく。なんて最高なんだ。リモートなら何しながらでも会議ができる。

「でもこれだけは約束な。この前から言ってる企画書の提出期限は守れよ。どっちでもいいからパソコンで書いてUSBに入れて持ってきてくれ」

「それは勿論っす!」

 求められているのは文化祭のステージ上の人員配置や機材についての企画書。提出期限は明日。俺と学宮は昨日までに8割は終わらせてある。今日は学宮とリモートで会議して完成させれば終了だ。

「ん? どうした学宮。もし心配なら今日学校でやってもいいぞ。一応この教室の使用許可は取っているからな」

 先輩の声を聞き、隣を見ると学宮は神妙な顔で顎に手を当て何かを考えているようだった。

「最近僕の家のパソコンが調子が悪くて、リモート会議はスマホでできるんですが……」

「いや大丈夫だろ。多分。てか、なんでできないんだよ」

 嬉しさのあまり出来ないなんて選択肢は否定したい。俺は条件反射的速さでそう言った。

「なぜかWi-Fiがどうのこうのと出てしまってね。ラグも酷いようで、どう直したらいいか。僕は君のようにあまりパソコンに詳しくないものでね。よく分からないんだよ」

 別に俺もパソコンに詳しくて有名というわけではない。学宮は自分は勉強に励んでいるのでパソコンなんて触る暇はなかったとでも言いたいのだろうか。ただ今はそんな事を思うより、学宮の説得が先だ。

「わかった、そりゃ多分Wi-Fiが繋がってねーだけだ。しかも書くにはWi-Fiはいらないから大丈夫だ。リモートにしようぜ?」

 俺は学宮のパソコンの事情を聞いて多少なり安心した。確かにパソコンに不器用なだけだ。或いは、本当に動かないのであれば最悪は俺が企画書を完成させればいい。とにかくリモートであることに意味がある。

「じゃあ……そうだな。今がインターネット社会というなら、やってみるとしようか……」

 随分と歯切れの悪い返事だったが学宮もリモートに賛成し、俺たちは先輩たちに挨拶をして部屋を出ると、それぞれ帰路についた。

「なあスイ! 今日はリモートで会議することになったんだぜ」

 俺は帰り道、胸ポケットからスイをつまんで半身を外に出してやると、スイは器用に腕を胸ポケットの布に絡ませて上半身だけ出す格好になる。

「そうなんだ……って聞いてたよ! トシ露骨に喜んでたね」

 上目遣いでスイはニヤリと笑う。

「まあな! 家でのんびりリモート会議なんて最高だね。作業は全部学宮にやらせよーっと」

「ひどーい」

 そんな事を話しながら時折笑って帰る。ジュースやお菓子なんかを置いてリモート会議をする。そう考えただけで学校で仕事をしていた時との差は雲泥だ。

 家に着くと、まずは手洗いうがいをし、二階に上がって制服から私服に着替える。スイも勿論出してやり、机の上にちょこんと座らせた。そしてその10分後ぐらいに学宮から電話がきた。

「では今から会議を始めようと思うがちゃんと用意はできているか?」

「ああ、バッチリだ」

 俺はそう答え、机の上に広がったお菓子とジュースを見る。チョコにはもうスイが手をつけている。準備万端とはこの事よ。

「じゃあまずは昨日の振り返りからだけど……」

 そして会議は進む。2時間ほどの時間があっという間に過ぎ、企画書の内容が全て決まった。時計の針はもう午後6時を回った。

「じゃあそろそろ書き始めるかぁ……?」

 俺は長時間同じ体勢で話し続けていたことで凝っていた肩や腕を伸ばしながらそう言う。

「そうするとしよう。今USBを持ってくる」

 学宮の方からも欠伸が聞こえる。続けて通話口からは椅子を立ちゴソゴソとリュックを漁る音が聞こえる。USBを持ってくるのだろう。俺はお菓子をつまんで待っていた。ただ、暫くしても学宮は通話に戻ってこない。不思議に思っているとようやく学宮は戻ってきた。

「まずいことになった……」

 学宮の声が通話越しでもわかるほど震えている。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

 その違和感に気づき少し身構える。

「USBを学校に置いてきたかもしれない」

「はあ!?」

 それは昨日までの企画書が保存してあるUSBだ。それに今日の内容も付け加えようとしていた所なのに。それは学宮が最も危惧すべきことだった。

「なんでだよ!」

 思わず大声を出してしまった。

「いきなりリモートになるなんて知らなかったんだ! ……だから多分今は第四分割教室に置いてきてあるはずだ」

「じゃあ今すぐ取りに行けよ!」

 声が荒ぶってしまう。間に合わないかもしれないという焦燥感と学宮に対する苛立ちが起き始めていた。俺がこんなに苛ついているのは企画書の提出が遅れてしまうからじゃない。俺の学校は文化祭に重きを置いている為、このような行動ひとつひとつが内申点に響くシステムなのだ。学宮のせいで、俺が被害を被る。例え被害が微小だったとしてもその事実がひどく不愉快だった。

「……すまないが、それはできない。こっちでは僕にも把握できないことが起きているんだ」

 切羽詰まったような学宮の声色。それに釣られて俺の焦燥感も掻き立てられる。

「要件だけを言えよ」

 言葉は感情に呼応して鋭くなっていく。

「僕のパソコンはどうやら壊れてしまったらしい。さっきからエラー表示が出て起動しないんだ……!」

「は!?」

 それを聞いた瞬間思わず机に殴りかかっていた。寸前で振り下ろした拳は止めたが、その代わりに爪が食い込むほど強く握りしめる。

「はあ!? じゃあどうすんだよ! このまま遅れるんのかよッ!!」

「それは本当にすまない。そこで一つ提案なんだけど、君が学校にUSBを取りに行って君が家で書いてくるというのはどうだろうか」

「は? ふざけんなッ! USB忘れたお前に言われたくねぇんだよッ!!」

 何で少しも申し訳なさそうにしないんだ。俺の沸点は今にも最高潮に達しそうだ。『学宮嫌い』の感情が俺の中を支配する。激しい貧乏ゆすりと歯軋りが止まらない。掌には弧状の赤い跡がくっきりと付いている。

「だけど明日までが期限なんだよ? わかっているのかい?」

 明日までが期限で、俺がやらないと間に合わない事なんてわかってるんだよ。

「クソッ……」

 俺はそう言って「切るぞ」と吐き捨て電話を切った。外行きの服に着替えて学校に行く準備をする。学宮の態度に苛つきが抑えきれない。今から行って帰ってきて書くのにどれだけ時間がかかるだろう。深夜までかかるだろうか。その分自由時間は減るし、勉強時間だって削ることになる。でも俺が必死に書いている間、当の学宮はのうのうと遊んでいられるのか。そのことを考えると無性に腹が立って仕方がなかった。用意が終わりすぐに家を飛び出し学校に向かって全力で走る。こうでもしないとストレスで頭が爆発しそうだった。走るから、とスイは置いてきた。

 学校に着き、第四分割教室まで駆け上がり、机の中を探り、やっとのことでUSBを回収する。そこには班長と副班長がいて不思議がられたが、今は説明している暇はない。明日には絶対に提出するんで、と言って踵を返して部屋を出てまた走る。その途中、ウザいと言う感情が俺の中でどんどんどんどんドス黒く増幅していく。湧き上がる感情に飲まれ俺ははらわたが煮えくり返っていた。発散できるところがないのでぐっと手と足に力を込めて全力で地面を蹴る。最速で家に着き靴を脱ぎ捨て乱暴に手洗いうがいを済ませて、階段を駆け上がる。

「あ、おかえりトシ……」

 バンとドアを開くと、机の上でくつろいでいたスイが少し気遣った声色で話かけてくれる。息切れした俺は吐息多めでそれに答えながらパソコンを起動する。USBを横にぶっ刺し企画書を作成するために一心不乱にキーボードを叩きまくった。スイもその本気さを察してか机の上で一人、静かにしていてくれた。だが、そこでその雰囲気を破るように俺のスマホが鳴る。電話だ。画面を見るとそこには学宮の名前がある。

「なんだ?」

 ただでさえムカついていたのに、作業を中断させられてさらに苛立った俺はぶっきらぼうに出る。

「ああ、よかった。もう家には着いたのか?」

「ああ、着いたよ」

「よかった、本当にどうしようかと思ってたよ。じゃあお願いできるかな?」

「ああ、わかってるよ……」

 そんなことを伝えるために俺の作業を中断したのか。危うくそう叫ぶところだった。グッと拳を握って怒りに耐える。嫌いな人間からの言葉は何を言われても受け入れる事ができない。

「あ、そういえばさっきから何を勘違いしてるのか分からないけど、USBを忘れた責任は君にもあるからね。まるで僕だけが悪いように怒鳴っていたけど、君にその資格はないよ」

 その一言で俺の中の堪忍袋の尾が切れた。溜まり溜まった黒い感情が俺の中で暴発した。

「……は? お前さ、調子乗ってんの? ふざけんなよ、なんでそんなにヘラヘラしてられんの? お前が忘れたからこっちは自分の時間削ってやってんだよッ!! その癖俺に怒鳴る資格がない? ふざけんじゃねえよッ!!! お前まじいい加減にしろッ!!!!」

 気づけばドンと机を叩いていた。スイが小さく悲鳴を上げる。電話に向かって大声で捲し立て、俺はそのまま電話を切った。折り返しの電話が来ないように学宮の番号を着信拒否にする。

「ハア……ハア……ハア……ふざけてんじゃねぇぞまじ」

 俺は叫びすぎて過呼吸になりながらもそう言って椅子に座った。明日までという期限が俺をパソコンに向かわせるが、とてもじゃないが集中なんてできない。

「クソッ……」

 時間だけが無駄に過ぎていき、焦りは募るばかりだ。秒針がチッチッチと時を刻む音がやけに大きく聞こえる。その音が俺をさらに急きたてて平静を保てない。キーボードに手を置くとあいつの顔が、言葉が脳内に浮かんできて俺を苛立たせる。焦りは俺を急かすが憤怒が全ての思考を邪魔する。加えて何も進まない手にも苛立って余計に焦りと怒りは増幅するだけだった。

「トシ、ちょっと時間をおいてみたらどうかな?」

 一部始終を見ていたスイが俺を気遣った優しい声音でそう提案してくれる。けど俺には止まっている時間はない。

「いや、でも時間がないからやらないといけないんだ」

「それって文化祭の企画書? で、それが保存してあるUSBかな」

 スイは机からパソコンを見て聞く。

「そうだな、もう8割は完成してるから急げば間に合うはずなんだけど……」 

「そうなんだ、どのくらい時間かかりそう?」

「12時までには終わるかってところだな」

 スイと話していると少しずつ手が動き始めた。学宮と企画書の期限しか頭になかったのがスイと話したことで少しだけその怒りや焦りの感情が緩和されたようだった。スイは満足そうにニンマリ笑ってパソコンの画面を見ていた。俺も時々内容を思い出しながらキーボードを叩き、少しずつだが文章を綴った。

「じゃああと5時間ぐらいかな」

「そうだな、あと5時間。全部あいつのせいだぜ。まじであり得ないよあいつ。早くこのペア解消してーよ」

 それはスイの何気ない質問に少し感情を込めて答えただけだった。ただ、その言葉はスイの何かに触れてしまったらしい。

「ねえ、それって本気で言ってる?」

 スイは少し真剣な顔とトーンになって俺に聞く。一気にその場が冷める。俺はキーボードを叩く手を止めた。そんなことを言われるとは思っていなかった。スイのこんな表情は見たことがない。初めての緊張感に部屋は静寂に包まれる。

「本当に全部学宮くんのせいだと思ってる?」

 俺を試すような質問。何かを期待されたその質問に俺は素直に答えるしかできない。

「……そりゃ、でもそうだろ」

「学宮くんは家のパソコンは調子が悪いって言ってたよね。でもトシは大丈夫って言ったよね」

「確かにそれは言った。まあ……俺が作業をする事は別によかったんだよ。でもUSBを忘れたのはあいつの責任だ」

 俺はなぜか説教を始めたスイに少しの不快感を覚えながらも答える。小さく貧乏ゆすりが始まる。

「急にリモートに切り替えたからでしょ? 管理は学宮くんに任せたとはいえ、責任は両方にあると思うよ。それに学宮くんのパソコンが調子悪いなら帰り道でUSBを受け取るべきなんじゃないの?」

「いや、USBの管理はあいつから言い出したんだよ、俺に渡したら失くすからって。だから管理ミスはあいつの責任だ。俺には指一本触らせたくなかったらしいよ。それに急にリモートにしたのだって他の役割の奴らは対応してた。あいつだけが対応できなかったんだろ」

 何もわかってないスイに説教まがいの事をされ俺の怒りはさらに焚き付けられる。USBは学宮が自分で管理出来ると驕って管理役を買って出たのだ。それどころか俺の事を信用せず、近付けさせなかった。この背景があるのに何で俺が怒られなくてはいけないのだろうか。

「USBを管理できなかったのは自分の責任じゃないっって言うのね。でもトシは帰る途中に言ってたよね、学宮くんに全部やらせるつもりって」

 スイの表情は変わらず冷静だ。俺だけが苛立ちを感じている。その現状がまた俺を苛立たせる。

「いやそれは冗談だろ。そこに突っかかってくんなよ。それにUSBを忘れたのは完全にあいつのミスだ。俺に責任なんて一切ない」

「そんなことはないよ? トシがUSBに気付けなかったのはそれはトシが周りを何も見てないのに、周りに全部を期待しているからだよ。自分がやらなくても周りがやってくれるって勝手に期待して、勝手に信じているからだよ」

「俺はそんなことしてない。あいつはUSBは自分で管理するって言ったんだッ! 全部あいつの責任だろッ! 関係ない奴が口出しできてんじゃねーよッ」

 スイにキレて吐き捨てるようにそう言った。お前は俺の味方じゃないのかよッ……。

「そうだね、今回は関係ないことかもしれない。でも、トシが周りに期待してるのは今までだってそうだった」

「は? じゃあいつ俺がそんなことしたって言うんだよ、言ってみろよ」

「今日の出来事。花瓶の水は避けられた、ドアを塞がれたなら最初から違うところから入れば良かった、シャーペンが借りられた時嫌なら返せって言えばよかったのに、ストラップに関しては完全に運。でもトシは全部にイライラしてた。その時自分は何かした? もしかしたら自分が動けば苛つくことなく過ごせたのかもしれないのに」

「いや……でもなんで俺が動かなきゃいけないんだよ」

 確かに俺は今日ずっと苛ついていた。確かにスイの言ってる事は理解できなくもない。でも他人の落ち度をなんで俺がカバーしなきゃなんないんだ。そんなのは理不尽だ。

「それは自分の為でもあるんだよ? トシが動けばもしかしたら防げた事に苛ついて冷静さを欠いて、どんどん視野が狭くなっていってる。他人のミスは100%他人が悪いと思って責めて、気分が悪くなって結局相手も自分も得しない。なんでそんな誰にとってもプラスにならない行動をするの? ちゃんと周りを見て自分が動けば防げた事態。そこに苛つくのはお門違いだよ」

「は……なんでそんな事お前に言われなくちゃいけないんだよッ!! 百歩譲ってこれまではそうかもしれねーよ。でも、今回は学宮が悪ぃだろうがッ!!!」

「もちろん、学宮くんは悪い。管理を言い出したのなら最後まで管理するのは当然のことで、それは学宮くんの責任。でも、トシが全て悪くないかって言ったらそうじゃない。リモートにするならUSBを確認するのは最低限のことでしょ?」

「ごちゃごちゃうるせぇなぁ……結局お前は何が言いてぇんだよッ!!」




「――人が他人を『お前が悪い』と人差し指でさす時、中指と薬指と小指は自分を向いている――」




「トシはこれ、知ってる?」

 怒鳴りつけた俺を押さえつけるように強く、それでいて静かに言い放たれたその言葉はスイの軽い問いかけで終わった。

 その強い声に圧倒された。そして次に言葉に圧倒された。頭をガンと殴られたような衝撃を受けた。考えても見なかった視点だった。静かに告げられたその言葉は一瞬で空気を支配し暫く俺とスイは沈黙のままだった。俺はその言葉の意味をすぐに理解した。だからこそ、その新たな見方に心が揺さぶられた。スイは口が聞けなくなった俺を真っ直ぐに見つめて、今度は優しい言葉で続ける。

「考え方を少し、ほんのちょっとでも良いから変えてみたらどうかな? この世界ではね、自分にとっての不都合は100%他人が悪いことの方が少ないんだよ。何か悪い状況になった時、どうやったらこの状況は良くなるんだろうって、考えてみて。何かトラブルが起きたときは、何か自分に非はなかったのか、どうすればこっから取り返せるかを考えてみて。誰かを責めて、苛ついて、怒って、冷静じゃなくなって、文句ばかり言って、そんなんじゃ決して良い方向には行かないよ。もちろん愚痴を零すのもしょうがないし、そう言う時間は大事だよ。でも、人を責める時、自分にも何か非がなかったのかって一度考えてみて。そうしたら今よりもっと早く立ち直れるはずだし、全部が良い方向に進むと思うの。それは自分にとっても得だし、そのことが出来れば人間的に大きな成長をすると思う。それにね、私はトシなら出来るって本気で信じてるんだよ」

 スイはそう言うと俺に向かってニパっと笑って見せた。いつものような弾ける笑顔。俺はその言葉を聞いて、その笑顔を見て「あぁ、恥ずかしいな……」と思った。俺は自分の性格が悪い自覚はあると思っていた。でも、性格が悪いとかそんな事じゃなくて、それはただ俺が動かなかっただけ。ただ何もせずに文句を喚き散らしていただけ。本当はそんな自覚なんて一ミリもしてなかったんだ。俺は俺を分かったフリをして、その上でむしろ直さなくていいと開き直った。でも、その偽りをスイが適切に指摘してくれた。俺に現実を突きつけてくれた。だからようやく俺は現実であり偽りのない俺を初めて直視することが出来た。自分で自分を勘違いし、理解した気になって、事態を悪い方向へ持っていく最悪な俺は初めて自分という者のやってきた事の恥ずかしさに気づいた。俺という人間に必要だった物事の捉え方、考え方、視点。それをスイは言ってくれた。さっきまで怒鳴っていたというのに、何故か俺はスイの話した言葉をすんなりと受け入れることができた。すぅっと胸の中に入り込んで来る感じがした。そして自分というものがどれだけ情けないか、恥ずかしい人間かを今度こそ思いっきり自覚した。もう貧乏ゆすりなんかとっくに止まっていて、気付けば俺はスイにお礼を言っていた。

「スイ……ありがとう」

 俺に俺を教えてくれて、そして俺に道を示してくれてありがとうという気持ちを全部込めた。

「うん! トシならわかってくれると思ってたよ。……でも、これから頑張るんだぜ?」

 スイは大きく頷いた後、おどけたようにそう言って上目遣いで俺を見るとニヤリと笑う。

「あぁ」

 俺はスイに向かって、自分の未来像を想像しながら、大きく頷いて約束をした。




 俺には小さな親友がいた。その子の体は本当に小さくて風に吹かれたら何処かへ飛んでいってしまうような子だった。多分あの日の夜、俺が集中してキーボードを叩いていた時にまたどこかの誰かのところへ飛んでいってしまったんだろう。行方はわからないけれど俺はそう思っている。

 その子は突然俺の部屋に現れた。そして俺は彼女をスイと呼び、短いけど楽しい時間を過ごした。そして、スイは最後に俺に教えてくれた。物事を捉える視点と、俺という人間を。スイは全てを見ていた。

 俺はあれから親指をよく見るようになった。スイには多分もう会う事はないだろう。だけど親指を見るとあの弾けるような笑顔がいつでも思いだせる。そして手を見ればあの言葉が思い出される。あの言葉は俺の人生を大きく変えただろうと本気で思っている。

 もう今では会えなくなってしまったけど、俺は今でもその恩人を親指少女と呼んでいる。でもその理由は、と言うと……以前とは少しだけ変わっている。

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