ぜんそく

 一匹の蛾が、ふらふらと飛んで、留まった。


 私の握り拳ほどの大きさのそれは、私の腰掛けているベンチから、そう遠くない位置にいた。真っ白な壁に、不気味な斑点が蠢いている。その正体は、蛾の翅一葉一葉に描かれている、眼球のような模様であった。四枚の翅が不規則に動いて、下の翅の模様は時折、上の翅と重なって、その姿を見え隠れさせている。それが人の瞬きのようで、元々の姿と相まってなおの事気味が悪い。


 私は、駅のプラットホームの、明々とついている蛍光灯を見上げた。蛾はこの明かりに誘われて、この駅にやってきたのだろうか。私は当たりを一通り見回したが、壁に張り付いている蛾を除いて、外から侵入してきたらしい羽虫の影は、一切認められない。いや、虫どころか人すらいない。無人のプラットホームに、私と蛾が有るのみである。


 私は右腕の時計を見やった。次の電車まで、まだしばらくかかりそうであった。一通り駅の中を歩き回ったあと、私は元いたベンチに再び腰掛け、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。季節は初夏を過ぎたあたりで、猛暑が酷かったがために、少し歩いただけでも、額に大粒の汗が浮かんで、首筋に流れ落ちる。労力の割に、実りの無いひと時であった。


 私は、服に溜まった熱が収まるまでしばらくベンチに座っていたが、ふと、先ほど蛾がとまっていた壁に目をやった。蛾は先刻と寸分違わぬ位置に、やはり翅を不規則に揺らしながら止まっている。


 私はおもむろに立ち上がり、その調子のまま、ふらふらと、蛾のいる壁側まで移動した。蛾の止まっている位置の、ちょうど真下までくると、存外、蛾は上の方に止まっていて、私では手が届かないことに気がついた。


 私は、しばらくじっと蛾を凝視めていたが、不意に、掌で目の前の壁を叩いた。なんというわけではない。ただ、この蛾を少々脅かしてやろうという、突発的な思い付きだったのだ。


 私はそれで、蛾が慌てて飛び去るものだと思った。しかし、蛾は左の触角を僅かに曲げるのみであった。私は三度壁を同じように叩いたが、蛾はやはり触角を揺らすのみである。


 人は自分の予想通りに事が運ばないとなると、まず憤るものである。それから、なぜ上手くいかなかったのかを考え、それを元に工夫を始めるのだ。


 私は、辺りを見渡し、手頃なサイズの小石を拾ってくると、それを蛾に向かって投げつけた。石は、私が先ほど壁を殴ったよりも、遥かに、蛾に近い位置に当たって落ちた。


 人は大抵の場合、それで事が上手くいくと、したり顔で「やってやった」と満足するのだが、しかし、それでも望む結果が得られないことが、しばしばあるのだが、そんな時、人はどうするのだろうか。より工夫を凝らす?そうなる場合もあるだろう。だがしかし、大抵は………怒るのだ。


 蛾は、僅かも動かなかった。ので、私は怒った。自分でも信じられない程の威力で、私の憤りは激しく燻っていた。


 私は、駅の喫煙所の、傘置き場に向かった。早歩きで。そこには、持ち主のない傘が幾つも置かれている。私は、そこから一本の、ビニル傘を取り出した。なるべく値の低そうな出来の傘を選んだ。理由は言わずもがななことだった。


 駆け足で蛾のいる壁に戻ると、ビニル傘を振りかぶって、蛾の真横に、傘の先端を思い切り打ち付けた。蛾は動かなかった。


 もう一度、先程よりも強い力で壁を打った。壁を打った。壁を…………。


 ……プラットホームに、傘の、壁を打つ激しい音が、何度も響いた。


 プラットホームに人はいない。一匹の蛾が、弱々しく壁に張り付くのみである……。しかしそれも、もう幾ばくもしないうちに消えてしまうのに相違ないのであった。


「あっ」


 という声がプラットホーム中に木霊した時には、もうはっきりと手遅れだった。目一杯の力で振り下ろされたビニル傘の先端は、狙った位置を僅かに逸れて、蛾の胴体を完全に捉えた。蛾の身体は爆散した。胴体は真っ二つに割れ、腹と頭が遅れて地面に落ち、四散した四枚の翅が、後からひらひらと舞って落ちた。胴と頭から体液がプラットホームの硬い地面に染み出し、それはもう乾燥しつつあるようだった。傘の先端には蛾の臓物らしきものが、僅かに付着している。


 私は、傘を素早く元の傘置き場に戻した。それ以降は、ひたすら電車を待った。何度も腕の時計の針の位置を確認して、努めて蛾のことを忘れようとした。


 結局、片時も蛾のことは忘れぬまま、人気のない電車がプラットホームに到着したのである。





 これはもう大分昔の話なのだ。しかし、私はふとした機会に、これが思い出されて、今も決して忘れない。


 人は稀に、自分でも思いがけないような、残酷な仕打ちをしでかす。私は、決して、あの蛾を殺してやろうと思って殺したのではない。きっかけは、ほんの些細なことだった、しかし、私は結果として、我を失い、蛾を叩き潰してしまったのだ。


 いっそ蛾が逃げないのが悪い、などと思わなかったわけではない。しかし私は、もし私が傘で殴りつけたのが、1匹の蛾ではなく、一人の人間だったとするならば、それでもやはり逃げないのが悪いと考えたのだろうか。そう思うと、背筋が凍ってゾッとするのだ。


 もちろん、私が殴ったのは、蛾であって、人間では無い。無いがしかし、私が本当に殴っていたのは、蛾だったのだろうか。蛾では無かったら、私は殴っていなかったのか。いや、それは違うだろう。私は、気に食わないことがあったから、蛾を殴ったのだ。決して『蛾だったから』殴ったわけでは無い。


 気に食わなければ、人は殴る。殴り方は人それぞれで、殴る対象も人それぞれだ。そして取り返しのつかないことをする時もあれば、しない時もある。


 ………あの時、あの駅のプラットホームの壁に止まっていた蛾は、もういない。では、蛾はもう姿を現さないのか。いや、今でも蛾は、度々私の目の前に現れては、ふらふらと飛んで、留まる。


 





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ぜんそく @Azumaya8000

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