第29話 久菜、大ピンチ!

 久菜が書店のアルバイトを終え、家に帰ると、いると思っていたアキラの姿はなかった。裏庭に設置されていたブルーのテントや、どうやって作ったのかよくわからない竹製の物見やぐらも片付けられている。この物見やぐらの位置をめぐってアキラと口論したこともあったのだが、それがもうないと思うと少し寂しい気がした。



「あいつ、本当にいなくなっちゃうのかな」



 七夏が言った『退学』という言葉が久菜の胸に重くのしかかった。もし本当にアキラが退学になったらどうするつもりなのだろうか。久菜の前から消えるつもりなのか。あれだけ鬱陶しいと思っていた久菜だったが、いざアキラがいなくなるかもしれないと思うと、胸にぽっかりと穴があいたような寂しさを覚えた。


 久菜が玄関から家の中に入ると、食卓にはラップがかけられた夕食が載っていた。なぜかカツ丼だ。どんぶりの下にあったメモには、「レンジで温めてから食べてほしいでござる。選挙に「勝つ」でござるよ」と書かれていたが、まだ湯気が立ち上っており、見るからに温かそうだ。つい先ほどまでここにアキラがいたのだろう。


 どんぶりが二つあるということは、一つは久菜の母親の分だ。最後まで忠義心に篤いアキラであった。


 ふと、アキラと過ごした短い日々を思い出す。嫌なことも多くあったが、それでも楽しい日々であった。もう一度あの頃に戻れるなら戻りたい。叶わない願いと知りつつも、願わずにはいられなかった。



「もう、会えないのかな」



 少し前まで当たり前だった一人の時間が、今では心細く思える。家には自分以外に誰もいない。それが当たり前だったはずなのに、当たり前ではないような気がした。


 久菜はカツ丼を食べ終えると、どんぶりを水に浸して二階に上がった。制服を着替えてからお風呂に入る準備をするためだ。古ぼけた階段が久菜の体重に悲鳴をあげる。


 自分の部屋に入った瞬間、久菜は異常を感じた。



「えっ、この感じ――」



 見られている。久々に感じる誰かからの視線だった。


 ストーカー。



 彼、もしくは彼女が誰なのかわからないが、この今久菜を見つめている人物こそが、きっとアキラを罠にはめた張本人であるに違いない。



「許さない……!」



 久菜は窓を開け、足を窓の桟にかけながら叫んだ。



「どこにいる、出てこーい!」



 近所迷惑など考えていなかった。どうせこの辺は田舎だ。近所に二、三件家が建っているだけで、あとは畑と田んぼ、もしくは竹林である。知らない仲ではないのだし、あとで謝ればいいと思っていた。


 久菜の言葉にストーカーからの反応があった。ライトの光が久菜の顔を照らす。それもチカチカと何度もスイッチのオンオフを繰り返しているようだった。挑発しているのは間違いないだろう。久菜は光の方角を睨みつける。



「そこね!」



 久菜は制服姿のまま部屋から飛び出し、階段を半ばまで駆け下りたところからジャンプした。木造の床が激しく音を立てる。


 玄関の傘立ての中にさしてあった金属バットを握りしめ、久菜は道路に飛び出した。まだストーカーは光を発している。チカチカと何度も点滅を繰り返し、久菜を誘っているようであった。



「そこを動くんじゃないわよ!」



 しかし、ストーカーは久菜の言葉に反して動いた。だが、逃げたわけではない。むしろ逆だ。久菜に近づいてきたのである。ゆっくりと、その姿が県道に設置された街灯に照らされた。


 久菜は目を見開いた。ストーカーの姿に見覚えがあったからだ。確か、こいつは――。



「吉川くん……?」



 全身が包帯まみれのミイラ男。吉川虎之助がその姿を現した。


 虎之助が今まで久菜をストーキングしていた犯人だというのか。いや、そうに違いない。この感覚は数週間前から感じていたものと同質の視線だ。



「いろいろと訊きたいことがあるんだけど、いいかしら?」



 久菜は金属バットを手でもてあそびながら尋ねた。しかし、虎之助はそんな久菜の質問には答える気がないのか、口を真一文字に結んだまま黙り込む。



「何か言えってのよ!」



 金属バットが地面を叩き、甲高い音を鳴らす。しかし、そんな威嚇にも虎之助はまったく動じることはなかった。それどころか、ゆっくりと包帯まみれの拳を胸まで上げ、ファイティングポーズをとった。まさか、武器を持っている久菜に素手で戦うつもりなのか。



「女だと思って甘く見てるの? だとしたら心外ね」



 久菜は虎之助を叩きのめしてから詳しく話を聞くことにした。姿を現したということはこれ以上隠れるつもりもないのだろう。まずはその体にしっかりと訊いてやろうじゃないかと久菜は意気込む。


 頭はまずい。狙うとしたら足か、腹か。とにかく動けないようにさせればいいのだ。虎之助は久菜のことを非力な女だと思って油断している。きっと久菜が中学校までソフトボール部だったことを知らないのだろう。そのスイングスピードは非凡なものがあった。



「大怪我したって、恨むんじゃないわよ!」



 久菜は虎之助に体ごと突っ込み、金属バットを振り上げた。普通ならこれだけで相手は防御の体勢に入るはずだ。しかし、虎之助は普通ではなかった。



「前進⁉」



 回避行動に移ったところをさらに追撃して仕留めようと思っていた久菜は、思わず中途半端に金属バットを振り下ろしてしまった。そんな力ない金属バットはいとも簡単に虎之助につかまれる。そのまま引き寄せられ、久菜と虎之助は額がぶつかりそうなほど接近した。


 急展開についていけない久菜の腹部に虎之助の拳が突き刺さる。手加減はされているだろうが、それでもボクサーのパンチが効かないはずはない。


 久菜は悶絶し、その場に崩れ落ちた。



「仕留めましたか」



 闇の中からもう一人、いや、二人出てきた。その二人も虎之助と同様にお腹を抱えて苦しんでいる久菜を見下ろす。こいつらも久菜にとって見覚えのある人物たちであった。



「も、毛利くんに、小早川さん……?」


「どうしてって顔をしてるな」



 ハジメはニヤニヤといやらしい表情のまま久菜を見つめている。そんなに苦しんでいる久菜を見るのが楽しいのか。目をそむけたくなるような嗜虐的な笑みがハジメの顔に浮かんでいた。



「どう、して……?」



 久菜は腹の底から空気が抜けていくのを感じながら言葉を発した。一言一言が石のように重い。



「そうだな。君は知る権利があるだろう。知ったあと、絶望の中でどう行動するかは君の自由だ」



 意味深なことばかり言う。はっきりと物を言わないこういう男は好きになれなかった。



「まず君が知りたいことは何かな。なぜ君が狙われたのか、から話そうか。長い話になるから、気楽に聞いてくれ」



 ハジメは久菜の周りを回りながら話し始めた。久菜はその動きを視線だけで追う。



「話は約四百年前に遡る」


「あ、大体理解できました。もういいです」


「早くない⁉」



 久菜は出だしの一言で理解した。これから気分よく話そうと思っていたハジメは胸のモヤモヤが去らない。



「ええっと、つまりあれよね。あんたも尼子家がどうこうっていう山中くんと同じってことでしょう?」


「ふむ。まあ、理解が速いのは助かるか。そうだ。僕は約四百年前に尼子家を滅ぼした毛利家の子孫。吹雪と虎之助も当時『毛利の両川』と呼ばれていた毛利家の親類、小早川家と吉川家の子孫ってわけだ」


「そしてあんたはどこからか私が尼子家の子孫であることを知り、復讐されることを怖れて私を監視した。それを行ったのが彼ね」



 久菜は視線だけで虎之助を指した。虎之助は相変わらず無言のままじっと久菜を睨みつけている。しかし、ハジメも吹雪も否定しないということは、久菜の言ったことは合っているのだろう。



「もっと詳しく言うならば、僕たちがそれに気づいたのはツイッター上での写真だね。君、いつか友人と自分の顔が写っている写真をあげただろう? それ、偶然にも僕が見つけちゃったんだよね。毛利家は今でも尼子家、そしてそれを再興しようとしている山中家を警戒している。ちゃんと左目の下にある赤い星の伝承も知ってったてことだよ」


「七夏のやつぅ」



 やはりストーカー被害の原因はツイッターが原因だったではないか。あれがなければここまで大事には至らなかったはず。今度会ったら一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、まずは無事にこの状況を突破できなければそれも不可能というものであった。



「初めは虎之助を監視に置いてただ警戒していればいいかなって思ってたんだけどね。山中くんが出てきて尼子家を再興しようとするし、さらには生徒会選挙で僕と同じ会長に立候補して邪魔までしようとする。これはもう君と山中くんを消すしかないと思ったんだよ」


「まさか、山中くんに罠を仕掛けたのは――」


「やったのは吹雪だけどね。許可したのは僕さ。他にも虎之助が山中くんと夜の学校で小競り合いを起こしたこともあったみたいだけど、まあ、今となってはどうでもいいことかな」



 ハジメの言い分に、ただでさえ沸点の低い久菜がキレた。



「どうでもいいって何よ! あんたのせいでね、山中くんは退学になるかもしれないのよ⁉ どうしてくれるのさ!」


「それが目的だからね。毛利家の邪魔になる存在は消えてもらう。まあ、君たちはまだ学生だから本当に死んでもらうわけじゃないよ。殺す価値もない。ただ――」



 ハジメの目が夜の闇の中で、鈍く不気味に光った。



「社会的には、死んでもらおうかな」


「社会的にって、どういう……」



 久菜の顔から血の気が引いた。ハジメの言おうとしていることがわからないわけではない。久菜は女の子だ。社会的に殺すことなど簡単だった。



「ちょっと君には今から恥ずかしい目にあってもらおうってことだよ。その姿をネットを通じて全世界にばらまく。これだけで君の人生はもう終わったも同然だ」


「最低ね」



 久菜は心の底からハジメたちを軽蔑した。こんな人間に負けるのが悔しかった。こいつらに比べればアキラはどれだけ高潔だったことだろう。バカで、いつも暴走して、それでもずっと久菜のことを第一に考えてくれていた。そんなアキラの姿が、なぜか久菜の頭の中に浮かび上がってきた。



「山中くん……」


「残念だが、彼は助けに来ないよ。彼がこの家から去っていったのは確認済みだからね。そして今は夜。周りには誰もいない。君の味方は、もう誰もいないんだ」



 ハジメの言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。


 誰でもいい。助けて。


 心の中で何度も叫んだ。しかし、それが口から言葉として出ることはない。すでに恐怖で口がうまく動かなくなってきていたのだ。



「虎之助、やれ」



 虎之助の包帯まみれの腕が久菜に伸びる。ハジメと吹雪は少し下がり、その様子を観察していた。このままでは自分は辱められる。もう疑いようがなかった。


 母親の顔が浮かんだ。今日もまた残業だろう。こんな時間に帰ってくるはずもない。


 七夏の顔が浮かんだ。ダメだ。家から遠すぎる。それに、助けに来てもらっても久菜よりも非力な七夏に何ができるというのか。きっと被害が増すだけだろう。


 そして、アキラの顔が浮かんだ。



「山中くん……」



 最後にはやはりアキラの顔しか浮かばなかった。アキラなら来てくれる。絶対に来てくれるはずだ。心と体が震えながら、久菜は必死にそう思った。


 虎之助の片腕が久菜の制服をつかんだ。恐怖で体が動かない。もうこのままなすすべもないのだろうか。そんなのは嫌だった。



「嫌……」



 わずかに抵抗してみせるが、がっちりとつかんだ虎之助の腕はびくともしない。まるでロボットのようなパワーだった。



「嫌……」



 虎之助のもう片方の腕が久菜に近づく。この腕が久菜のすべてを終わらせる腕だ。もうダメだ。自分の人生は終わったのだ。


 虎之助の腕が、久菜の制服のリボンに触れた。



「嫌ぁぁぁ! 助けて、山中くぅぅぅん!」



 星も見えない夜の闇の中に、久菜の叫び声が響いた。

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