第9話 アキラ、朝食を作る!

 カーテンの隙間から漏れる陽射が久菜の瞼を照らす。「うぅ……」と小さなうめき声をあげてから、久菜はゆっくりと目を覚ました。


 寝ぼけ眼を指でこすり、カーテンを開ける。雲一つない気持ちのいい朝の空だった。



「朝、か」



 二階の窓から下の玄関先を見てみる。昨晩の寝る前までいたはずのアキラの姿はそこにはなかった。さすがにあれから自宅に帰ったのだろうか。それはそうだろう。ずっと夜通しで見張ることなどできるはずがない。



「まあ、こんなもんよね」



 久菜は安心しながらも、なぜかちょっぴり不満そうな表情になっていた。そのことに、本人は気づいていない。


 二階にある自室からリビングへと向かう。一歩下りるごとに古くなった木造の階段がミシリと軋んだ。


 久菜の母親は夜中に帰ってきたはずだ。しかし、夜が明ける前に出勤している。朝食は作ってくれているはずだが、やはり今日も一人の寂しい朝食になるのだろう。


 久菜はリビングに入るとまずテレビのコンセントを入れてチャンネルを朝のニュースに合わせた。待機電力を考慮して久菜の家では家電製品は必要なもの以外はすべてコンセントを抜いている。こうした小さな努力の積み重ねこそが貧乏から脱却する近道になる……のかもしれない。


 テレビからは男性アナウンサーが昨日のプロ野球の結果を報じていた。久菜は特に応援しているチームはないのだが、七夏は熱狂的な神戸のチームのファンである。そのチームの勝敗によって朝の七夏の機嫌は大きく変わるのだ。



「あ、負けてる」



 今日の七夏は朝から機嫌が悪いだろうな、と思いながら久菜はキッチンへと向かう。母親が作り置きしてくれた朝食があるはずだ。温めて食べよう。


 久菜は両腕で天井を突き刺すようにあげて、大きな欠伸をした。



「おはようでござる。いい朝でござるな」


「ん~、おはよう」


「朝食はできてるでござるよ。食卓に並べておいたでござるから、早速食べてほしいでござる」


「あら、気が利くわね」



 久菜は使い古された座布団の上に座る。もう何年も使われたであろうその座布団は、中の綿がほとんどなくなってただの布のようになっていた。


 久菜の前にはオーソドックスな朝食であるご飯、目玉焼き、味噌汁、漬物があった。久菜はまず味噌汁を一口すする。



「あ、この味噌汁おいしい」


「それはよかったでござる。それは拙者の自信作でござるからな。喜んでもらったようで安心したでござる」


「あ、これ手作りなんだ。いつものインスタントと全然違うわね」


「やはり栄養バランスを考えたら手作りが一番でござるからな。殿の健康のためにも毎日手作りするつもりでござるよ」


「そうなんだぁ」



 久菜はもう一度味噌汁をすすり、舌で味わう。やはりこの味噌汁はおいしい。こんな味噌汁を毎日飲めるのなら悪くない。アキラはただの変人ではなく、料理のできる――。



「って、なんであんたがここにいるのよぉぉぉ!」



 アキラはキッチンで久菜の弁当箱にだし巻き玉子を詰めている手を止めて振り向いた。



「鍵はかけたはずよ⁉ 鍵は私とお母さんしか持っていないはずよ⁉ なのになんであんたがさも当然のように私の家に入り込んで、私の朝食を作ってるわけ⁉」


「何だ、そんなことでござるか」


「重要なことだろぉぉぉ!」



 アキラはさも重要なことではないといった様子で弁当作りを再開する。その手際のよさが地味に久菜を苛立たせた。



「不法侵入で訴えるわよ! あんた、警察に突き出すからね!」


「大丈夫でござる。ちゃんと許可はとったでござるよ」


「誰のだぁ!」


「大殿でござる」


「大殿ぉ⁉」



 アキラの言う『殿』とは久菜のことだ。では、『大殿』とはいったい誰のことか。『大』とついているのでただの『殿』よりも偉そうな気がする。『殿』の久菜よりも偉い人物といえば――。



「まさか、お母さんが許可したの⁉」


「その通りでござる」


「お母さぁぁぁん!」



 久菜の魂の叫びが家中に鳴り響いた。きっと外にまでこの叫び声は聞こえていることだろう。外から散歩中の犬が吠えているのが聞こえてきた。



「ああ、そういえば書状を預かってたでござるな。これを」



 アキラは久菜の前に進み出ると、片膝をついて制服のポケットから一枚の紙きれを取り出した。よく見ればなぜもう制服なのか。昨日のままなのか。それとももう着替えたのか。久菜の目では判断できなかった。


 久菜はアキラから差し出された紙切れを受け取る。スーパーのチラシの裏紙だった。こんなところに娘へとメッセージを残すのがいかにも久菜の母親らしい。




『久菜へ


 先ほど玄関先であなたのボーイフレンドであるアキラくんに会いました。とてもいい子で、母さんは安心しています


 事情を聞くと、あなたのことが心配で家の前で見張っていてくれたというではありませんか。なぜ自分の彼氏であるアキラくんを家にあげないのですか? 母さんはあなたをそんな薄情な娘に育てた覚えはありません。


 そこで母さんは考えました。母さんはいつも仕事で朝早く、帰りは夜遅くなってしまいます。ですので、アキラくんがあなたと一緒にいれば母さんも安心してできるでしょう。


 アキラくんにそのことを話すと、快諾してくれました。あなたを守るのが彼の使命らしいわね。母さん、ちょっと妬けちゃいました。


 アキラくんは親元を離れて一人暮らしらしいので、母さんの帰りが遅くなってしまったときにはこの家に泊めてあげてください。部屋は父さんが使っていた部屋を使わせてあげればいいから。


 それじゃあ、今日も学校がんばってね。




 追伸

 早く孫の顔が見たいな。


                                  母より』




「『早く孫の顔が見たいな』じゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」



 久菜は母親からのメッセージであるスーパーのチラシを引き裂いた。



「何⁉ うちのお母さん、よりにもよってこいつを私の彼氏だと勘違いしちゃったわけ⁉ しかも、もう完全にこいつのこと信用しちゃってるじゃん! 下手したら私よりも信用されてない⁉」


「そういうわけでござる。大殿からの指示により、今日からこの家で殿のお世話をさせていただくでござる」


「あんたはもっと遠慮しろぉぉぉ! 普通、年頃の女の子の家に泊まり込むとか恋人同士でもなかなかやらないからね⁉ それを親が許可するとかまずないからね⁉」


「でも、大殿は許可してくれたでござるよ?」


「だからそれがおかしいんだってばぁぁぁ!」



 なぜ朝からこんなにも叫ばなければならないのか。明らかにアキラのほうがおかしい。おかしいのだが、ここに久菜の味方は一人もいなかった。



「まあ、そんな小さなことはあとでいくらでも話せるでござる。今は学校に遅れないように朝食を食べるでござるよ。おかわりもあるでござる」


「あ、じゃあお味噌汁おかわり」


「了解でござる」



 久菜はおかわりをした味噌汁を飲んでのんびりとした朝のひと時を過ごした。やはりアキラの作った味噌汁はおいしい。これが毎日飲めるのならアキラの同居を許しても――。



「いいわけあるかぁぁぁ!」



 久菜は食卓の上に置いてあった新聞紙を畳の上に叩きつけた。


 アキラはそんな久菜を見て微笑みながら、せっせと可愛らしい弁当箱におかずを詰めるのだった。

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