第4話 追憶
ひさしぶり、と彼女は言った。
受話器越しに聴く、懐かしい声だった……
* * *
店の奥にある電話が鳴っていた。滅多に掛かってくることなんかないのに。いったい誰からだろう。
心当たりが無かった。
たぶん何か、高額商品でも売り付けるキャッチセールスだろう。
そんなふうに思いながら受話器を手にした。
「はい。BARハードボイルドですが」
「……。 お久し振りです。 T です」
T ? 初めて聞く名前だ。だが、その声には、ちょっと懐かしくてホッコリする響きがあった。
同時に頭の中では、遠い記憶の断片を探し始めていた。
「あっ、旧姓 U です」
U …… 七年前に別れた女だ。
しばらく記憶から消えていた名前である。だが身体が彼女を覚えていた。俺の性癖までもを変えてしまった女だった。
忘れたいと思ったことなど、一度も無い。ある日、俺の前から風のように消え去った。後を追うことはしなかった。
そんな、自然消滅のような一つの愛の形があった。
もう少し優しくすれば良かった、という悔いはある。
「なんか声が聴きたくなって……」
「懐かしいな。結婚したんだね…… でも、驚いたよ。ここの電話番号、よく分かったね」
「ごめんね。色々聞いて回ったりして」
今のように、個人情報とかにあまりうるさくない時代だった。
「いや、全然。嬉しいよ、声が聴けて。元気だった? 」
「うん」
店のカウンター席には客が一人いた。聞き耳を立てていることが、気配で分かる。
電話という形ではあったが、思いがけず再会した昔の女だ。話したいことは色々あった。
それに、わざわざ連絡先を探し当てて逢いに来てくれたのだ。
きっと相談したいこととか、何らかの事情があるに違いない。
だが、俺は慎重に言葉を選んでいた。
会話が少し途切れる。
その時、受話器の向こうから赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「子供がいるんだね……」
「うん。……その後、あなたのほうは? 」
「俺? 結婚したよ」
嘘だった。
瞬間、色々な考えが頭の中を駆け巡る。
子供の泣き声、そして「あなた」という俺の呼び方。七年という大きな歳月の隔たりがそこにあった。
彼女からの電話だと分かった瞬間、「もう一度、ヨリを戻してもいいかも知れない」という考えが、頭の中に張り付いた。
しかし、受話器の向こうから泣き声が聞こえてきた時、その考えは見事に吹き飛んだ。
お互い別々の人生を歩きだしている。もう、過去には戻れない。ここは大人として対応しよう。
電話の向こうでは、泣き声が止まらなかった。
「泣いているよ、赤ちゃん……」
「うん……」
彼女が子供を気にしていることが、電話口を通して伝わって来る。
「じゃあ、元気でね。今日はありがとう」
どちらからともなくそんな感じの会話をして受話器を置いた。
言葉は少なかったが、気持ちは通じ合っていたと思う。
彼女に逢いたい……
もし、店が営業中ではなかったのなら、そして彼女の住む街が500kmも離れているのではなかったのなら、俺はすぐ彼女を飲みに誘っていたに違いない。
今になって、連絡先すら聞かなかったことが悔やまれた。
だが、これで良かったのだ。
俺が誘えば、恐らく彼女は、少し無理をしてでも来たかも知れない。そして逢えば多分、再び一つの愛を手にしたに違いない……
しかしその一方で、七年の歳月で得たはずの別の何かを、きっと失っていたであろう。
その先に見えるものは喪失感だけかも知れない。だから、七年前の感覚で逢ってはいけない。
そういうことだ。
ふと我にかえった。店には、まだ客がいる。客は、菩薩像のような目で、俺を見た。
何か夢でも見た後の、目覚めのようだった。
ー終ー
ひさしぶり、と彼女が言った nekojy @nekojy
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