第3話 それでも夏が好き

 ひさしぶり、と彼女は言った。

 あぁ、これが酒焼けののどってやつか……女性の声にしては低い声だった。

 本当にひさしぶりだ。このJAZZ BARの扉を開けるのは。


   *  *  *


 夜になってもジットリ絡みつく暑気。それを乗り越えたくて、また、この店にやってきた。


「どう? 最近……」


 カウンター越しに届く、ナツ姐さんの言葉。それがいつもの口癖だった。

 曲がテナーサックスのバラードに変わる。野太い響きが心地いい。


「まぁね。特にどうという訳では無いけど、しっくり来なくて。何やっても気だるいし。俺、夏バテなんかなぁ」


「まぁノンビリやるさ」


 少し強い酒に癒されたかった。バーボン・ウイスキーをダブルロックで注文する……




 かなり酔いが回ってきたころだった。店に流れる音楽が、アップテンポの曲に変わる。脳ミソが痺れていくような、辛口のビブラートが心地よかった。

 この癖のあるテナーサックスは……間違いなくジョン・コルトレーンの演奏だろう。


「でも夏はさぁ、やっぱり思いっきり汗かいたほうがいいんだよ。俺のコルトレーンのイメージはさぁ、冷房を付けずに汗ダラダラになって大音量で聴くの。アバンギャルドでアグレッシブなゴリゴリのジャズを」


「あんた……Mの変態だね。アタシがムチで調教してやろうか。あっ、あとさぁ。言っとくけど、あまり横文字で話さないほうがいいよ」


 姐さんに、ピシャリと叱られた。

 えっ! という表情を作ってみせる。その時、心に湧き出た悦びを隠すために……


 目の錯覚だったのだろうか? 

 カウンターにいた姐さんは、それまで着ていたワンピースから、黒革のビスチェに変身していた。

 編み上げた革紐の隙間に、紅い薔薇のタトゥーが見える。それは、バーボン・ウイスキーのラベルの残像だったのかもしれないが。


 そして鈍い光を放つ仮面の奥には、攻撃的な瞳があった。俺の理性が、音をたてて崩れて行く。


「お願いがあります。叩いてください。その鞭のような言葉で。もっと、もっと……」


 スピーカーから流れ出るサキソフォーンが、店内に響き渡る。

 カラン…… 

 透きとおる音とともに、オン・ザ・ロックの氷が、融けながら半回転した。


 カチン……

 オイルライターの蓋が鳴る。姐さんが大きく溜息をつくように、煙を吐いた。


「……甘えるんじゃないよ」


 漂う煙のなかに、スポットライトの光が、円錐形に浮かび上がっている。正しく叱られた、そんな気がしていた。

 俺は少し口をつぐみ、店内に漂うジャズに耳を傾ける。甘すぎないビターなバラードに、曲が変わった。



 稲妻が窓の外で光る。

「おだまりっ!」

 上空の不安定な大気が、地上に向けて叱り飛ばしているようだった。


 少しイカれた頭を抱えたまま、夏の夜が更けて行く……




ー終ー

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