第2話 ワインレッドの雨上がり

 ひさしぶり、と彼女は言った。

 その声が突然の雨音に消えかかる。忙しく開店準備をしていた男性店員が、微かな声の気配にハッと気づいた。見覚えのある笑顔がそこに……


「ぁ、昨日の……」

 店員の顔にも笑みがこぼれた。


「ぉ、おはようございます。まだオープン準備、整ってないですけど……どうぞ!」


 入口近く、外を見渡せる席に彼女が着くと、先ほどの店員がメニューを持ってきた。

「すごい雨…… 助かりました。あ、いつものアレ、ください」

 と彼女が告げる。


「はぁ、アレ……と申しますと……」

 店員は明らかに困惑していた。


「あ、ごめんなさい。あたしったら……お水、ください」


「かしこまりました」

 笑みを含ませ店員が奥に下がると、すぐに冷たい水が満たされたグラスを持って登場した。

 それをテーブルに置き、

「お客様、昨日いらしたばかりなのに『ひさしぶり』だなんて、水くさいですよ」

 と茶化した。


 ゴクリと水を飲む彼女。

「ウマいわ!クサくなんかないわョ」


 キレのいい店の対応に、彼女が微笑み返した。



    * * *



 たしかにアタシ、昨夜ゆうべこの店に来たばかりだった。一人、銀座の裏道をさまよい歩き、この店に漂着した。

 少し飲みすぎていたかもしれない。なにしろ、気分がクサクサしていたからね。

 会社で、辞める辞めないの騒ぎになっちゃってさ。

 

 アタシ、小島聖蘭こじませらって名前だから、みんなからはコジ・セラって呼ばれてるの。でも、ある時から、コジとかって呼ばれ始めて……


 確かにアタシ「こじらせ女」かもしれない。面倒くさいことばかり言ってるの、自分でも分かってるけど……


 あのときも、余計な一言がアタシの口をついて出たから…… でも、感情を自分の心の中だけに収めるなんて無理だった。

「じゃあ私、辞めます」

 確かに、そう言った。感情が先走っていたので、後には引けなかった。


 なんか職場に居場所がないって感じなの、最近。

「会社としても、キミは不要だし」

 なんかそう言われている感じだった。アタシの存在価値って、何?


 彼氏いないし、親友もいない。親兄弟なんて、もう何年も疎遠…… アタシ生きてる意味、無くない? あぁもう、存在自体 消えてしまいたい……


 くやしくて、切なくて、悲しくて…… 気付いたら、アタシの瞳から湧き出た大量の悲しみが、テーブルの上を濡らしていた。



 そんな時だ。

 後ろで誰かの声が……

「そのままで、いいんですよ」

 あの店員さんだった。


 その瞬間、ちょっと前までの苦しみがサァーっと消える。アタシを受け容れてくれる人がいた……



    * * *


 

 今日は引継ぎ、残務処理。結局、会社を辞めた。今はもう「いい経験をしたな」って思うだけ。

 終わってしまったことは、そう思うしかないんだよ……




 雨が上がったみたいだ。

 まだ店に来て小一時間こいちじかん、経つかたたぬか。でも、もう帰ろうか。

 冷えた白ワイン一杯だけで、アタシは幸福感に満たされていた。この瞬間を楽しむために、アタシは生きている。


 

 お会計のとき、あの店員さんにお礼を伝えた。

 

「昨日の『そのままでいいんですよ』という言葉に救われました。ありがとうございました」


「お洋服は大丈夫でした?」

「は?」

「グラス倒されてテーブル濡れてたから……」


 あぁ……アタシったら……ただの酔ッパライかょ。恥ず……


 でもなんか、今は嬉しかった。

 素直に人と触れ合っている自分がいて、それが嬉しかったの。

 人は人を通して、自分自身を認識して行くんだろうね。だから、誰かと繋がりたい、みたいな。

 あ、アタシ、あの店員さんに恋しちゃったのかな……


 

 店を出て舗道を歩く。あちらこちらに、水溜りができていた。前から来た車が、その水溜りをいて行く。

 水溜りは一瞬濁ったけれど、すぐにまた元に戻り、綺麗なワインレッドのネオンサインを映していた。

 



ー終ー

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