第89話 海神の雷
朔の別邸の外から、派手にタイヤが擦れる音が響いて来た。
怪訝な顔で玄関の方に視線を向ける一同の中で、黎だけがゆっくりと立ち上がった。
「あいつら、ぶつけてないだろうな」
「衝突音はしなかったよ。カイくんだったら大丈夫でしょ」
黎が迎えに出る
「カイだけならいざ知らず……シンまで慌ててどうした?」
滑り込むように卓についたシンがすかさずノートPCを開く。
素早くキーを叩き、PCの画面を黎たちの方に向けた。
「目ぼしい情報を集めてきた。黎くん、邪神や悪魔信仰と思われる例の集団、覚えてる?」
「あの、あきらにちょっかい掛けて来た連中か?」
「そう。あきらちゃんの逆鱗に触れて拠点を潰されたあいつらだよ」
「まだ活動してたのか?」
「教団の本体は海外だからね。あきらちゃんも建物を崩壊させただけで信者たちを傷付けてはいないし」
「だけど、幹部の中にはあきらちゃんに仕掛けた攻撃をそのまま返された奴もいたよね」
「幹部くらい、すぐに補充できるんじゃない? 実際、とうに活動は再開している」
黎とシン、そして柊耶の会話に、采希はそっと眼を逸らした。
(あきら……拠点を崩壊させるって、何やってるんだ)
「とにかく、この記事を見て。『偉大なる神を降臨させるための御神体となる器が我らの元においで下さった。荒ぶる神の力を持ったその御神体は、龍をも従えておられる』――タイミング、良すぎない?」
嫌そうに顔を顰めたシンに、黎と柊耶が顔を見合わせる。
あまりにタイミングよく話題が被り、采希と凱斗も唇を噛みしめた。
「――それって、琉斗兄さんのこと?」
「俺にはそう思えた。だからここまで急いで来たんだ。フェイクニュースの可能性もあるが、あまりに琉斗と符合している気がしてな」
暗い目をした那岐に、カイが感情のこもらない顔で答える。那岐は何かを堪えるように眼を閉じた。
「柊耶さん、詳しく教えてください。柊耶さんが見た『龍殺し』と『神殺し』の気配って、一体何なんですか?」
凱斗に尋ねられた柊耶は、困ったように黎に視線を向ける。黙って頷いた黎を見て、柊耶は静かに話し出した。
「『龍殺し』と僕が感じた気配は、本当に龍を消滅させる力という意味じゃない。邪気、邪霊、邪神も含めて良くない気を放つ強い存在を、人は邪龍とかドラゴンと呼ぶことがあった。凱斗くんも神仏や天使が
「じゃあ柊耶さんが言う『龍殺し』は悪しきものを倒す力ってこと? あ、琉斗の場合は消滅させるんだっけ?」
「そうだね。だから君たちに協力している龍神たちには当てはまらない。彼らは清浄に巡る気から生み出された存在だからね」
那岐がそっと手を上げた。柊耶の視線を受けて口を開く。
「悪しきものの気は巡っていないってことですか?」
「うん、澱んでいる。その辺は黎くんの方が詳しいけど」
「その『龍殺し』の力を持った琉斗が悪魔信仰だかの集団に利用されるために拉致られたってことですか?」
「カイくんとシンくんはその可能性があるって思ったんだよね?」
「ああ。シンの判断に、俺の勘もそうだと思った」
「なら、ほぼ確定だな」
黎が苦々し気に呟く。シンの情報収集と分析結果に加え、カイの勘と柊耶の気配を察知する能力の全てが同じ答えに辿り着くなら、それは黎にとっては揺るぎない事実になる。
「でも、悪魔信仰の御神体? 邪気を消滅させるのが琉斗の力なら、御神体には向かないんじゃないですか?」
「凱斗、龍殺しだと見抜いたのは柊耶だからだ。普通――というのも変だが――ある程度視る事が出来る者からしたら琉斗は『体内に闘神の力を抱えた青龍の気を操る』稀有な人間だ。しかも、常人よりも確実に憑依されやすい体質を持っている。例えその青龍の力が無断拝借されたものであろうと構わない。利用するのにこれほど適した人間はいないだろうな」
榛冴が小さく息を飲み、凱斗の身体から怒りの気配が立ち昇った。
「『龍殺し』だとは気付いていない可能性が高いってことか。だったら琉斗に邪神を降ろしても琉斗自身が消滅させてしまうんじゃないか?」
カイの言葉に、黎と柊耶は黙って首を横に振る。
凱斗が声を抑えながら静かに言った。
「カイさん、琉斗の力はそれで発現するとは限らない。あいつの意思で操る事は出来ないんだ。しかも、琉斗は自分の力に全く気付いていない」
「……そういえば、発動条件が分からないって榛冴も言ってたな」
「発現しなければ、その集団に利用されてしまう事になるね。……どうする、黎くん?」
小さく震える榛冴の肩をゆっくり叩きながら、シンが黎に尋ねる。
「決まっている。即行で琉斗を捜し出す。嬉々として公言したのなら、奴らにはもう準備が整う目途がついているんだろう。カイ、シン、全勢力をつぎ込みたい。可能か?」
「任せろ。柊耶は単独で動くか?」
「僕は采希くんと一緒に行動させて欲しい。黎くん、少し離れるよ」
ずっと黎の影として動いて来た柊耶に、黎は頷いてみせる。
こんな言い方をするのであれば、柊耶には自分がするべき行動が分かっているのだろうと思った。
例え大きな守護を持つ采希であっても、琉斗が囚われている状況で冷静に行動できるとは思えない。
可能であれば自分が傍に付いていてやりたいと、黎は心から思った。
何かを考え込んでいた那岐が柊耶に向かって顔を上げた。
「柊耶さん、だったら『神殺し』っていうのは?」
「邪気に留まらず、滅することが出来る。例え、神霊であってもね」
凱斗と那岐は思わず采希を見た。
少し蒼褪めて俯いた采希は、口をきつく引き結んでいる。
「采希くんと黎くんは『
その場の空気が凍り付いた。
* * * * * *
金の
主よりもっと強大で神聖な力の気配は、労るように包み込んでくれている。
快適で癒される状況であるはずなのに、とても寂しい気持ちがこみ上げてきた。
いつもの騒がしい気配も、優しい気配も、慈しんでくれる気配も、そして逞しく強い気配もない。何より、大好きな輝く気配が近くにいない。
初めて出会った時から色んなことを教えてくれた。輝く気配は自分の力を容易に開放してくれた。
温く幸せな今の状況より、彼らに会いたかった。
実体のない眼から涙が溢れた気がした。
(采希、どこ?)
紅蓮は小さな声で呼び続ける。
* * * * * *
「神子って、巫女と同じ意味じゃないの?」
「一般的には同じ意味だね。
凱斗の問いに柊耶が微笑みながら答える。
「僕の感覚で言うと、巫女は神様の力を伝える者。それだけじゃなくて、神様から力を与えられてその行使を許された者がいる」
「……それが、神子?」
「僕の中ではね」
「黎さんと、采希兄さんが、そうなの?」
「僕にはそう見える」
榛冴は柊耶の言葉にどう反応したらいいのか迷った。
黎は腕組みしたまま眼を閉じている。采希は強張った表情のまま柊耶を見つめている。
「兄さん、大丈夫?」
那岐の声に僅かに反応した采希はふっと息を吐いた。
「柊耶さんの言うその神子とやらの力が何なのか、俺には全く理解できないです。その力で琉斗を捜し出せるなら別ですけど、今の俺にはそんな力はどうでもいい。自覚もないし、申し訳ないけど」
『何をもって神子の力とか言うのか俺には分からん。自分の家族すら救えないような力ならどうでもいいし、俺には必要ない』
以前、黎に神子の話をした時と同じように切り捨てる采希に、柊耶は納得したように笑った。
「では、采希くん。僕は君の指示で動く。――僕を、使って」
* * * * * *
「地龍とナーガにはかなりの範囲を探させたんだろ? 八咫烏の眼まで逃れるとなると――シン」
「琉斗くんを捕らえた際に結界を使った可能性はあるね。移動にも使うなら視覚を
「可能ですが、視覚に作用する結界だと、危なくないですか? 周囲から見えないとなると、事故るんじゃ……」
「いや、ある程度の能力者の眼を誤魔化せればいいんじゃないか? それなら出来るだろう」
「カイさん、それだと相当の力量が必要だと思います」
那岐たちの会話に耳を傾けていた凱斗が、采希の肩を突いた。
「視覚の攪乱?」
「……ああ、凱斗は捕まってたから知らないのか。お前が囚われていたビルにな、一定の力を持つ能力者にだけ有効な結界が張られていたんだ。見事に琉斗にだけ効果がなかった。俺たちにはビルが歪んで見えたのに、琉斗だけは普通に見えていたんだ」
「……それは能力者じゃないから普通に見えたのか? 琉斗には結界が効かなかったから普通に見えたのか?」
「あ、……あれ?」
「どっちでもいいよ、凱斗兄さん。もし琉斗兄さんに結界が効かないとしても、その琉斗兄さんはここにはいないんだから」
拗ねたような榛冴に、柊耶が笑いかける。
「榛冴くんの言葉も
「……モノによるな。移動しながら琉斗を隠すのであれば、術者の力量にもよるがせいぜい数日じゃないか?」
「どこかに留まったら?」
「そこに出入りする人間がいる限り僅かにでも気配は漏れる。いずれ俺たちの探査に引っ掛かるだろう」
それでは時間が掛かりすぎる、そう言いたい采希の視線に、黎はすぐに気付いた。
既に龍たちや八咫烏には結界が張られていることを前提に捜してもらっている。他に捜していない所は無かったかと考え始めた。
「黎さん、その悪魔信仰の集団って、元々の拠点は海外なんだよね?」
凱斗が卓の上に置いた両手を組み合わせながら口を開く。
「ああ」
「だったらさ、そんな奴らの御神体に
全員が言葉を失う中、采希だけがゆっくりと立ち上がった。
それを確認して柊耶もすぐに采希の肩に触れる。
黎が気付いた時には、二人の姿は消えていた。
「……跳びやがったか」
「黎さん! 采希兄さんはどこに行ったの?!」
慌てて腰を浮かせ尋ねる榛冴に、シンが座るように促す。
「なるほどね。御神体なら海外の本拠地に置きたいだろうな。国外に出るなら結界を張ったまま飛行機に乗せることは出来ない。結界を解いても意識を失った人を乗せるなら医師か看護師の同行や診断書が必要なんじゃないかな? だとすると可能性があるのは――」
「――海。船だな」
黎の声と共に、那岐の姿が消えた。
* * * * * *
「柊耶さん、本当に付いて来たんですね」
「君に従うって、言ったでしょ」
「確かに言われましたけど……」
「国外に出る可能性って聞いて海に来たのはどうして? 飛行機かもしれないよ?」
柊耶の言葉に、采希は躊躇せずに首を横に振った。
「飛行機だと琉斗を隠したまま乗せられません」
「直接、飛行機に転移したら?」
「柊耶さん、飛行機って、乗客や荷物の重さをきっちり計算してバランスを取ってるらしいですよ。そんな所に転移するとか、危険すぎます」
「……あの連中が采希くんほど真面目だとは思えないけど」
額を押さえた柊耶に、采希はにっこり笑ってみせる。
わざわざ、自分が
「今頃、シンさんあたりが同じ説明を黎さんたちにしてると思います。じきに船だって気付くでしょうから、それまでに位置を特定しましょうか」
「わかった。どうやって捜す?」
柊耶は足元のコンクリートを踵で鳴らしながら尋ねた。
そこは海に細長くせり出した防波堤の先端。
港に向かうと思っていた柊耶は、振り返って遠くに霞む工場群を眺める。
「ここ、実は立ち入り禁止なんですよ」
「こんな危ない所じゃ、そうだろうねぇ」
海風が吹き曝しになっている、柵もないその場所から柊耶は平然と海を覗き込んだ。
「これからやろうとしてる事を、あまり人前でするのはどうかと思いまして。柊耶さん、海に落ちないでくださいね」
そう言って微笑むと、采希は防波堤の先端まですたすたと歩く。ぴたりと止まると、海に向かってそっと手を差し出した。
(海を統べる龍、
采希の頭の中で言葉が形作られる前に、采希の眼の前の海面が盛り上がる。
「うおぁっ」
「采希くん、落ちないでね」
柊耶の涼し気な声がすぐ後ろから聞こえて来た。
盛り上がった海から、
「……海神さま、ですか? お早いですね」
《いつ呼ばれるものかと待っていた。尋ね人は闘神の気を持つ者でよいか》
先んじて言われ、采希は眼を見開く。
「ご存知でしたか」
《鳳凰が大神の遣いで参られた。今朝がたより海の気が騒いでいる。その者の気配で間違いはない》
「大神さまが?」
(鳳凰って、あきらの? いくらなんでも鳳凰を遣いにだすとか……)
巫女の守護である鳳凰が勝手に動くことは無い。
何よりも、何故大神さまが琉斗を捜してくれているのだろう、と不思議に思った。
《闘神の気を持つ者には、もうすぐにでも降臨の儀が執り行われる。このまま行かれるか》
もちろん、と声を上げそうになった采希は、柊耶の手で後ろから口を塞がれる。
(柊耶さん! 何を……)
「采希くん、僕には眼の前に何が居るのか見えない。だけど、その気配の強さで龍だろうとは思える。彼は、君に何て言ったの?」
(……琉斗がすぐにでも降臨の儀をされそうだって。だからすぐに行くのかって聞かれたんですけど)
「ごめんね采希くん。その龍は信用できるの?」
自分の口を塞いだまま後ろから抱き着かれ、間近で顔を覗き込まれる。
(柊耶さん、何を言ってるのか……海神さまですよ? 俺は以前にお世話になって――)
「こんなに邪気を纏った者が海神?」
思いがけない柊耶の言葉に、采希の眼が見開かれる。
あの港町で出会った海神の姿を思い出した。
朝日の昇り始めた白い波間に垣間見えた、青い鱗を持つ長い尾。
目の前にいるのは、それとは似ても似つかないずんぐりとした体躯の鈍銀に蝙蝠のような羽根。
何よりもその纏う気配が違う。
(……
耳を
真っ黒な塵と化した邪龍が海風に流されて行く。
《落ち着け、白虎の主。見誤るとは、お前らしくもない。やはりあの時、守護を結んでおくべきだった。封印に影響しそうだったので遠慮したのだがな》
ゆるやかな鐘のような声が采希の頭の中に響く。
遠くの海面に、一瞬だけ青い鱗が煌いた。
ようやく柊耶が采希から手を離す。
「本物の海神さまがおいでになったみたいだね」
「……柊耶さん、見えるんですか?」
「気配はね。ちょっと迂闊だったね、采希くん」
「…………ごめんなさい」
まさか、呼び掛けに応えたのが紛い物だとは考えてもみなかった。気配を確認する事もなく誘いに乗ろうとした自分に、歯噛みしそうになる。
《
海神がゆっくりと海面を泳ぎながら近付いてくる。その金の眼は柊耶に注がれていた。
「え? 海神さま、柊耶さんと知り合いですか?」
《話には聞いていたが
采希がそっと柊耶を肩越しに振り返ると、柊耶は困ったように首を傾げてみせた。
どうやら声も聞こえていないと判断した采希は、海神の言葉を柊耶に伝える。
「えっと、海神さまは柊耶さんの事を知ってるようで、黎さんに従っていたのに、俺に鞍替えしたのかって聞いてます。否定、した方がいいですね」
「別に構わないよ。今は采希くんの指示で動くからね」
《……声が届かないのか。不便なのは好まない。宙の者、受け取りなさい》
じれったそうに柊耶を見た海神から、小さな青い光が飛び出した。その1㎝程の珠は、柊耶の前で止まる。
「なに、これ?」
《飲みなさい》
「……海神さま、これを飲……――あ!!」
海神の声が聞こえたはずはないのに、柊耶は目の前に浮かんだ青い光の珠をぱくりと飲み込んだ。
「……柊耶、さん? 聞こえたんですか?」
「何が?」
「え、だって、じゃあどうして飲み込んで……」
「いや、何となくね」
《宙の気を持つ者、名は何という?》
唐突に頭に響いた声に、柊耶は少し眉を動かした。
「……柊耶」
《とうや? なるほど、お前がそうか》
柊耶は黙ったまま静かに海神を見返す。
海神が苦笑したように視線を逸らし、采希を見た。
《――では采希、改めて問おう。私の守護を受けるか?》
状況が飲み込めず、柊耶を戸惑いながら見つめていた采希は、海神の言葉に慌てて頷いた。
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