第90話 抑止と扇動

(ここは、どこだ?)


 自分の視界に映った天井から、ゆっくりと視線を動かす。

 ホテルの部屋のように見えるが、自分の記憶では陽が落ちたばかりの商店街を抜けたところだったはず。

 身体を起こそうとするが、力が入らない。

 指先は動くようだが、頭を動かすことも出来なかった。


(どうして俺はこんな所にいるんだ? ロキ、いるか?)


 自分の中の白狼に声を掛ける。


《ここに。だが、動けぬ。琉斗、お前の身体に何か付けられておらぬか?》

(身体が動かせなくて確認できない。額の辺りにかなり違和感があるが)

《……采希たちにも繋がる事が出来ないようだ》

(ロキ、俺に何が起こったのか、お前には分かるか?)

《お前の身体に、一瞬にして結界が張られた。我を封じる結界だ。そうしてお前に薬剤を使って昏倒させたようだ》

(それは、壊せないのか?)

《壊す以前に、お前のが何かの道具で縛られた。――誰か、来るぞ》


 琉斗の耳にも足音が聞こえてきた。その音は少し籠ったように聞こえ、カーペットの上を歩いているのではないかと思われた。

 ドアをノックする音が聞こえ、琉斗が応える前に開かれる。


「……もうお目覚めでしたか、失礼いたしました」


 見た事もない女が部屋に入り、琉斗の寝かされたベッドに近付いた。


「まだお休みになられているものと思い込んでおりました。琉斗さま、依り代の儀まではまだ時間がございます。今しばらく――」

「誰だ、お前は」


 自分で思った以上に、琉斗の口からは低い声が出た。女は少し驚いたように僅かに身体を引く。

 女は自分の見た目、顔にも身体にもかなりの自信があった。

 これだけの容姿があれば、眼の前の男もこの教団内の男たちのように簡単に篭絡できると信じ切っていた。

 媚びるような視線で琉斗を見つめる。胸部を強調するように屈み込んだ。


「……琉斗さまのお世話を仰せつかりました。私は――」

「外せ」

「は?」

「俺の額に付けた物を外せ。今すぐにだ。それ以外に用はない」


 自分を無機質な物を見るかのような冷たい眼に、女は驚愕した。こんな視線を向けられるとは思ってもみなかった。


「それは……」

「それは出来かねます。貴方様の力をここで開放させる訳にはまいりません」


 ほとんど音も立てずに、男が入って来た。

 短くはない髪が外向きに跳ねている。中途半端なその髪型に、琉斗は理由もなくイラついた。

 矜持プライドを砕かれて呆然とする女を視線で下がらせ、男は琉斗に近付く。


「俺の力など、ほとんど無いにひとしい。余計な真似をせずに俺の身体を開放しろ。何故俺がここにいるのか、答えろ」


 普段の琉斗からは考えられないほどイラつているのを、琉斗は自覚していなかった。

 琉斗の中の白狼が牙を剥き出しにしていそうな気配を醸し出している。


「ご自分の力を過小に評価されているのは伺っておりますよ。ですが貴方様の中にはとても大きな力が内包されております。私どもにお任せ頂ければ、すぐにでも解き放って差し上げる所存です」


 男は薄ら笑いを浮かべて琉斗を覗き込む。

 言葉とは裏腹なその態度にも腹が立った。


「内包された力? そんなものを開放してお前らに何の得がある」

「我らの崇める神のために」

「…………」

「神という言葉が胡散臭いと、そう仰りたいようですね」

「当然だ」

「貴方様のお考えになる神と私どもが敬う神には、少々差異がございます。世間で言われる神や仏、そのような神仏が我らに何を施してくれましたか? どんなに心を込めて祈っても、どんなに切実に願っても、幸せになれない者がいます。それをある者は試練だと言う。試練を乗り越える事で神の真意に近付けるのだと」

「……」


「苦しまなければ救ってくれないのが神なのでしょうか。神は我ら人間が苦しい修行を受けることだけを望んでいるのですか? ずっと幸せになれず苦しんだまま亡くなる人は神への信心が足りないとでも? かと思えば、卑怯で下劣な真似を平然と行う者が幸福に暮らしている。『金があってもそれだけで幸せとは言えない』などと言う者もおりますが、実際、悪徳な者が大金を手に入れて幸福に暮らしている例は数多ございます。親の力で何の努力もせずにのうのうと暮らしている者がいる反面、親のせいで不幸な人生を余儀なくされる者もおります。前者は信心深く、後者は神をも恐れない思想の持ち主ですか? そのほとんどはそうではないと私は思っています」

「そういった者は、いずれ淘汰されるだろう。天罰も――」

「天罰など、ありません。貴方様は天罰が下ったところを見ましたか? そういった者に確実に天罰はありましたか?」

「……」

「神など、居ないのです。少なくとも、万物に平等で万能の神などは」



 神仏に願い事はしない、神社には挨拶に行く、と言っていた従兄弟の言葉を思い出す。

 采希も、この男と同じように神仏など居ないと考えていたのだろうか、と考えて、琉斗は眼を閉じた。

 少なくとも、神聖な力を持つ気配に采希は幾度となく触れている。それをどんな存在だと認識しているのかは定かではないが、この男とは違うはずだと思った。


「では、お前が認める神とは、何だ?」

「かつては天に居られ、天の不条理に立ち上がって不正を正そうと反旗を翻された御方」


 にやりと笑うその顔に、琉斗は背筋に悪寒が走った気がした。


「…………悪魔信仰か」

「さて、どちらが悪なのでしょうね。一部の支配者のみ優遇し、下々の声は聴くつもりもない。命の価値にすら優劣をつける者が正義ですか?」


 琉斗はじっと男の歪んだ口元を見つめる。



「何をする気だ」


 男は醜悪な笑みを琉斗に向けた。



 * * * * * *



「采希兄さん! やっと見つけた!」


 采希が振り返ると、幅数メートルの防波堤を怖がりもせず全力疾走でこちらに向かって来る那岐が眼に入った。


「……落ちないといいね」

「柊耶さん、そこですか?」

《……あの街で会った采希の弟とやらだと記憶している。だが朱雀の気配があるようだ》

「そうですね、海神わだつみさまにお会いした後、色々あって守護を賜りました。ただ――」

「どうしたの?」


 走る那岐から采希に視線を戻した柊耶が尋ねる。


「榛冴の玄武もそうなんですが、朱雀も期間限定というか……何か目的があってご助力くださっている気がしています。四神とは直接話が出来ないので、俺の推測ですけど」

「……朱雀さんの御加護は今だけなの? 海神さま、こんにちは。海の上でお目に掛かって以来ですね」


 辿り着いた那岐が息も切らせずに尋ねる。海神に向かって大きく頭を下げた。


《一時的であっても四神の守護があることは喜ぶべきだろう。朱雀が望んでお前を護ろうと言うのだ、それは誇ればいい。先程の邪龍も言っていたが、降臨の儀は本国に戻る前に船上で行われるとのことだ。急ぐべきとは思うが、朔の当主の到着を待つのか?》

「船上で? なんでそんなに急ぐんだろう?」

「……俺たちが追って来るのを危惧している、とか?」

「まあ、そうだろうね。場所さえ特定できれば采希くんは跳べるって、奴らも知っているのかも」


 僅かに逡巡したように視線を動かした采希は、軽く唇を噛んで海神に顔を向けた。


「行きます。海神さま、案内をお願いできますか」



 * * * * * *



 身体も動かせないまま、琉斗は広間に運ばれる。

 かなり大きな船の中にいる事は教えられていた。男はカーンと名乗った。

 どう見ても日本人に見えるが、偽名だろうと特に気にしないことにした。


「俺の身体を使って悪魔を呼び出そうというのか」

「何故『悪』であって『魔』と決めつけるのか、私には理解できかねますね。貴方様の中にある力はとてつもなく大きな『荒ぶる力』です。我々が求める御方の器に相応しい。しかも龍の力すら手玉に取られるとは、すばらしいですよ」

「……俺には全く意味が分からない。龍の力? そんな物も俺の中にあるという力も、俺の意思で発動させることは出来ない」

「……なるほど。では、何か発動条件が?」

「馬鹿か、お前は。教える訳がないだろう」


 ぴくりと眉を動かした男が、壁の方に視線を向けると、背が低いのに妙に頭が大きく見える男が近寄って来た。額周りが妙に大きく、三白眼でおどおどとカーンを見上げる。


「このおと――御神体様の従兄弟に、高位の神霊と繋がる事が可能な者がおります」

「……それは、弟の巫覡シャーマンではないのですか?」

「表向きはそう見えますが、実際に神降ろしを行うのはその従兄弟です。おそらく、御神体様の力を引き出しているのはその者です」


 琉斗は動かない身体で飛び掛かりたい気持ちになった。奥歯が軋むほど噛みしめられる。

 未だ動かない自分の身体を呪った。


(このままでは采希まで巻き込まれてしまう)

《落ち着け、琉斗。采希であればそう簡単には囚われはせぬ》


 白狼にそう言われても、琉斗の焦りは治まらない。

 采希の性格を考えたら確実にここまで追ってくるだろう。

 采希でさえ、以前捕えられた事がある。あんな思いはもう嫌だった。

 足手まといにならないよう、自分で何とかしなければならないと思った。

 目の前の男たちを怒りのこもった眼で睨みつける。

 カーンはそんな琉斗を一瞥すると事も無げに言った。


「必要なのは器と、身体に宿った力です。力の行使は必要ない。――彼の意思は……」


 ぷつりと、琉斗の視界から光が消えた。


「――不要です」



 * * * * * *



 沖に停泊した低層マンションのような大きさの船は、慌しく出航の準備が行われているように見えた。

 海神の背の上で、柊耶がスマホを取り出した。采希たちにも振動音が聞こえてくる。


「黎くん、場所は分かった?」

『やっと把握した。すぐに向かう。――お前ら、そこを動くなよ』

「無理だねぇ。もう降臨の儀は始まっている。僕には采希くんを止められそうにない」

『いや、待て待て! おい、柊耶!』

「海神さまが跳ぶ。――切るよ」

『おい!』


 柊耶がスマホをポケットにねじ込むと同時に、采希と那岐と柊耶が乗った海神の全身が、海面に飛び上がった。

 船を飛び越すように跳ね上がった海神の背から、采希と那岐が飛び降りる。

 柊耶は一瞬、甲板に視線を巡らせ、背中から倒れるように海神から離れた。

 ゆっくりと伸身宙返りをしながら、采希たちとは離れた船尾へと降下する。


 口々に何か叫びながら、トンファーや竹刀のような物を手にした一団が甲板に駆け上がって来た。

 日本語ではない声も聞こえてくる。


「何が言いたいのか、分からない」

「まぁ、『侵入者だ!』『排除しろ!』ってとこだろうな。構わない、武器を持って向かって来るなら、やられる覚悟は出来てるだろ」

「兄さん、この中に能力者は?」

「知らん。全員、叩き潰す」


 低く告げられた采希の声に、那岐は思わず振り返った。

 その表情が確認できないほど、采希の周囲の空気が揺らいで見える。

 無表情に構えた金剛杵が采希の手の中でするりと伸びる。

 回転させるように一振りすると、ごおっと音を立てて風が起こり、数人がなぎ倒された。


 どこかから走り寄って来た柊耶が、那岐の隣に並び、采希の姿を確認して唸る。


「もしかして采希くん、キレてる?」

「見ての通りです。柊耶さん、采希兄さんに近寄らないようにしてください」

「……?」

「身体、切り刻まれますよ」

「おお……カマイタチか。痛そうだねぇ」


 采希の周囲に渦巻く真空の刃は、容赦なく敵を薙ぐ。

 那岐は念で作り出した長い棒を柊耶に向かって放ると、自分は三節棍を手に駆け出した。

 柊耶が棒術を得意とするのを那岐は知っていた。振り回すだけではなく、棒を支点に飛び上がっての蹴りが飛んでくるのに苦戦したが、味方であれば心強い。

 棒を片手で受け止めた柊耶は、心得たように那岐と違う方向に向かって走り出した。


 どこから取り出して来たのか、機関銃などの銃器を構えた男たちが現れる。

 そちらを一瞥した采希の身体がばちばちと放電を始め、船の上に雷雲が集まり出した。


「バカめ、船には避雷針が設置してある。お前の能力は把握済だ」


 嘲笑うように告げて機関銃を構えた男の頭上に、紫の雷の矢が落ちて来た。

 紫電に貫かれた男は声も上げずに倒れる。


「避雷針って、あれのこと?」


 柊耶が指した先に、長い金属柱が転がっていた。

 呆然とする男たちに、柊耶はきゅっと口角を上げて笑ってみせる。


「効果的に攻撃するための準備は怠らない。僕はの警備担当だからね」


 柊耶の言葉が終わると同時に、銃器を狙った雷の矢が次々と降って来た。




「黎さん、あそこだ! 姫さん、もう少し低く飛んでくれ」


 地龍の姫の背に乗った凱斗と黎が目にしたのは、無数の小さな雷が落ちて来る様子だった。


「……誰も止めないのか」


 黎の呟きに、凱斗が黎を肩越しに振り返る。


「采希のこと? キレたあいつを止められんのは琉斗だよ。琉斗が身体を張って止める。……あー、帯電してるだけじゃなく真空波までか。あれじゃ那岐でも近寄れねぇな」

「……お前ら、あきらの暴れ方より酷くないか?」

「いやいや、あきらちゃんよりはマシでしょ。カイさんからも武勇伝は聞いてるし」


 凱斗に掴まっていた手を離し、小さく息を吐きながら黎は地龍の姫の背から一瞬で姿を消した。ほぼ同時に柊耶の背後に現れて柊耶の肩に手を置く。


「あ、黎くん」

「柊耶、お前が采希を止めないでどうすんだよ。一緒に暴れてる場合か?」

「あはは、采希くんの暴れっぷりが清々しくて。あきらちゃんより勢いがあるよねぇ」


 黎が口を開こうとした瞬間、甲板に突き上げるような衝撃があった。


(何だ? 今のは海……いや、船の内部からか?)


 黎が視線を忙しなく動かすと、柊耶が船室から甲板に通じる扉をじっと見つめているのに気付いた。


「琉斗!!」


 采希が叫ぶと、その声に応えるように扉が勢いよく開いた。

 俯き加減の琉斗がゆっくりと現れる。全身から立ち上る気配は、背後の風景を歪ませるように揺らいでいた。

 琉斗の身体は頭部に巻かれた細い鎖を、額に下がった黒い石と共に引きちぎった。

 その気配に柊耶は不快そうに眉を顰める。

 気付くと柊耶は黎を背に庇うように、黎と琉斗の間に立ちはだかっていた。振り返りもせず、柊耶は黎に尋ねる。


「黎くん、に降りたモノは、何?」

「……また厄介な」


 舌打ちする黎に気を取られ、柊耶の判断がほんの僅かに遅れた。

 琉斗に駆け寄る采希の身体に向かって、琉斗の背中から一斉に触手のような細長い無数の物体が伸ばされる。


「采希!」「采希くん!!」「兄さん!」


 必死に上げられた声を振り切るように走る采希の身体が、天からの飛来物によって弾き飛ばされた。

 ごろりと転がった采希の視界の隅に、見慣れた紅い炎を纏う背中と新緑の鱗が見えた。


「りゅうとぉぉぉぉ!」


 采希の身体を押し退けた凱斗は、着地するなりその拳を双子の弟に向ける。


「凱斗!!」


 閃光が辺り一帯を包み込み、采希の身体は宙を舞った。

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