第2話 干渉する不条理

 那岐なぎの提案に従って大人しく待機していた采希さいきは、数日後、仕事が休みになった平日を狙って、いつもよりかなり早い時間に猫広場に向かった。

 固形タイプの餌が入った袋をトートバッグに入れ、のんびりと商店街を抜けたところで偶然、従兄弟の凱斗かいとに会った。

 同じ離れに住んでいるこの双子の兄の方は今朝、スーツではなく普段着で出掛けていた。


「あれ? 采希、今日休みだっけ? こんな時間に珍しいじゃん」


 あまり出歩く事を好まない采希にばったり会ったことに少々驚きながら、凱斗が駆け寄ってくる。


 二卵性双生児のため、弟の琉斗には全く似ていない。

 兄の凱斗は母親、弟の琉斗は父親の容姿を受け継いだ。

 そのため、凱斗は双子の弟である琉斗よりも、采希とよく似ている。幼い頃は凱斗と采希が双子だと思われる事が多かった。

 女顔の采希よりも若干男っぽい顔立ちは、その性格を現すようにいつも笑顔が多かった。


 人懐っこい笑顔に釣られるように、采希も自然と笑みを返す。


「まーね。ちょっと訳ありで」

「なに、また猫のとこ?」

「うん。負けたんなら凱斗も一緒に行くか?」


 見透かしているように含み笑いをする従兄弟に、凱斗はちょっと怪訝そうな視線を向ける。


「……なんで分かるんだよ」

「こんな時間にうちに帰ろうとするなんて、軍資金がなくなったんだろ? 昨日、新台入替で仕事帰りに行ってたって聞いてたし、今日は開店から打ってたんだろうと思ってさ」

「そーそ、最初は好調だったのにさ、気付いたら千回転だぞ。昨日の勝ち分、持ってかれた~」

「パチンコは天井ないんだから深追いすんなってな」

「へいへい、わーってるって」


 貴重な有休をそんな事で潰していいのかと考えながら、今は凱斗にも女性の気配がないことを采希は思い出す。


 元々社交的で、人の中心でリーダーシップを取れるような性格の凱斗だが、女心に疎いことが理由で破綻することが多かった。

 人付き合いに自信のない采希は交友範囲の広い凱斗を羨ましく思っていたが、凱斗は数は少ないが友人から信頼の厚い采希に、少しだけ嫉妬したい気持ちを抑えていた。

 それでも張り合う事はなく、同い年の従兄弟同士、かなり仲はいい。


 並んで歩く凱斗と笑い合いながら、一緒に付いてくるつもりなのか、と采希は思った。

 凱斗と琉斗りゅうとは、どちらかと言えば『犬派』だったはず。なので、暇潰しのつもりなのだろう、と納得する。




 いつもの空き地、近隣では猫広場と呼ばれる空き地に着いて、采希はぎくりと立ち止まった。


(――なんで、いるんだ?)


「あ、采希さん!」


 空き地を囲む柵に寄り掛かって待っていたのは、先日の話題となった女だった。

 采希に生霊を飛ばしていた本人が目の前にいる。


(俺を待っていたのか? 仕事は? なんでこんな早い時間に?)


 平日の昼を過ぎたばかりだ。会社勤めなら、今は働いている時間だと思ったからこそ、こんな時間にここに来たのに。

 采希の頭の中で思考がぐるぐる駆け巡る。嫌な汗が背中を流れていった。


「へ? なんだよ采希、ここでデートだったのか? じゃ、邪魔しちゃ悪い…………けど、俺も混ぜてもらっていい?」


 気を利かせて帰ろうとする凱斗の服の袖を必死に握って、采希はこくこくと頷く。


(よかった気付いてくれて。この間の一件もあるし、一人で相手するのは怖すぎる)


 凱斗に置いて行かれる事を察した采希が、引き留めようと眼で訴えてきたのを怪訝に思いながら、凱斗は采希の隣に留まる。


(――? 待ち合わせ、って感じじゃねーな)


 あまり感情を表に出さない采希が頬を引き攣らせている。

 勘のいい凱斗は、それだけで何かを察した。


 人見知りが酷かった子供の頃のような従兄弟の様子に、凱斗はつい、目の前の女をじっと見つめた。

 何かが鼻腔を刺激し、思わず辺りを目線だけで確認する。


「うわぁ、もしかしてご兄弟の方ですか? よく似ていらっしゃいますよね! あたし、ここでいつも采希さんとご一緒させてもらってます、よろしくお願いします!」


 女が深々と頭を下げる。従兄弟とはいえ、母親同士が双子のため、今でも兄弟に見える程度には似ていると本人たちも知っている。

 だが、わざわざ『従兄弟だ』と訂正するつもりもなかった。


 一瞬采希の方を見た凱斗が、女の顔も見ずにさっさと空き地の奥に進む。


「はぁ~い、よろしくねぇ。じゃ、餌あげて早く帰ろうか」

「え? まだ来たばかりですよね?」

「ああ、ちょっとこの後、用があってさ」

「でも采希さんは……」

「こいつも一緒。ほら、急いで采希。時間ないんだから」


 無表情で告げる凱斗に急かされて、采希は慌てて猫の餌を広げる。何となく声を出すことも怖い気がしてずっと口を閉じていた。


「あ、あたしも……」


 采希の隣に女がしゃがみ込む。その途端、集まっていた猫たちが一斉に離散した。


「あれ?」


 凱斗が声を上げて不思議そうに辺りを見渡す。

 逃げた猫たちは木や草むらの陰からこちらを窺っている。猫に慣れた采希がいるのに、怯えた様子で警戒している。

 思わず采希の方を見ると、采希は覚えがあるように凱斗に小さく頷いてみせた。


「あ~あ、どうしてこうなんだろう。あたし、なんでか猫に嫌われちゃうんです。こんなに大好きなのに」

「…………へぇ、そうなんだ」

「だから、采希さんに猫に好かれるコツを教えてもらおうと思ってるんです! ね、采希さん。今度、猫カフェも連れてってくれるんですよね!」


 凱斗に顔を向けながら、女の視線はずっと采希に注がれている。聞いてもいないのに、女の口から延々と自分の不幸話や愚痴めいた話が紡ぎ出される。

 その声の大きさもだが、甲高いその音に、そして自分を主張アピールするような様子に凱斗は不愉快な気持ちが沸き上がってくるのを感じていた。当然、話の内容はほとんど頭に入って来なかった。


「――あ~、采希、時間切れだ。帰ろう」


 唐突に立ち上がってぶっきらぼうに吐き出した凱斗の言葉に、少し驚きながらも采希は慌てて立ち上がる。


「あ、あの、采希さん、また明日!」


 反射的に返事をしようと振り返りかけたが、凱斗に強く腕を引かれる。


(……凱斗?)


 黙ったまま凱斗に引き摺られるように商店街を抜ける。

 凱斗の中では早くあの女から采希を遠ざける事で頭がいっぱいだった。理由もなく、そんな強い想いに突き動かされるように、凱斗は小走りで采希の手を引く。

 しばらく歩くと凱斗は立ち止まり、ようやく采希の腕が開放された。


「采希、お前、わかってんのか? あの子、ヤバいぞ」

「……なんで分かったんだ?」

「あ? なんでって……あれ?」


 自分の発した言葉に気付いて混乱したように首を傾げる。

 那岐じゃあるまいし、会っただけで何かが見えたとは采希には思えなかった。――それでも。


(――本能、か)


 凱斗ならあり得ると、采希は密かに納得していた。以前、祖母に聞いたことを思い出しながら。




 家に戻り、離れに入ろうとしたところで二人は琉斗と鉢合わせた。琉斗は遅番、那岐も夜勤明けで家にいるはずだ。


「采希、今、追いかけようとしてたんだ。一人じゃ危ないかもと思って……兄貴と一緒だったのか?」

「ああ、途中で会った」

「琉斗、『危ない』ってなんだ? お前もあの子のこと知ってるのか?」


 あの子という言葉に反応した琉斗が、采希の方を見る。

 先日の生霊の話題は、自分の兄である凱斗にも話してはいなかった。それでも誰の事を指すのかは、察しの悪い琉斗にもすぐにわかった。


「この時間なのに、いたんだ。俺を待ってた」

「……本当か?」

「そしたら凱斗が……」

「とにかく、入ろうぜ。那岐、いるんだろ?」


 声を掛けながら凱斗たちが居間に進むと、那岐が凱斗の顔を見るなり不思議そうに首を傾げる。

 玄関の会話は那岐にも聞こえていて、凱斗の不機嫌な様子は、生霊を飛ばす女のせいなのだとすぐに気付いた。


「凱斗兄さん、あの子のこと、どうして警戒したの?」

「どうしてって言われても、俺にもよく分かんねーな。何となく『こいつヤバい』って思ったんだよ。それに匂いがさ、すごかったわけ。なんつーか、動物的な?」

「え? 俺、気付かなかったけど……」


 采希が驚いて凱斗の顔を見る。ほぼ同時に那岐が呟いた。


むじな……」

「ムジナって何? とにかくさ、なんか変だなと思ってたら、采希は何やら落ち着かないし、猫も怯えて警戒してるし、な~んか後頭部がピリピリして嫌な感じだから、さっさと帰ろうと思ってさ」

「……俺に、あの人と話をさせないようにしてくれた?」

「うん、気付いてたか。なんだか、お前に対して変に執着してるような気がしたんだよね。だから――なに、那岐?」

「……凱斗兄さんって、何者なにもん?」

「はい?」


 凱斗が状況をよく見ていた事に驚く采希だったが、那岐は、一度会っただけの女に対して凱斗がその本質を見抜いた事に感心していた。


「なんで見ただけでわかるの? まだ誰もあの子の話、凱斗兄さんにはしてないのに。そんな能力もあったのかぁ。実は僕より霊感体質なんじゃ……」


 自分でも言っている通り、周囲からは霊感体質と認識されている那岐の言葉に、凱斗が慌てて声を上げる。


「ちょっと待て! ……ってことは?」

「あの子、俺に生霊飛ばしているらしくてさ」


 さらりと告げる采希に、凱斗が錆びついた歯車が動くようにゆっくりと顔を向ける。

『いきりょう……?』と呟いたその顔は頬の辺りが引き攣っていた。


「兄貴、何の話だと思ったんだ?」

「変質的なサイコパスって言うか、なんかストーカーっぽい感じの……」


 琉斗と那岐が顔を見合わせる。


「ストーカーか。ある意味、間違いではないかもな。凱斗の勘ってすごいな」


 采希がしみじみ言うと、那岐も頷く。


「凱斗兄さんは僕らの中で一番、そういうモノの影響を受けないくらい、強いからね。そこにいるだけで悪いモノは寄ってこない」

「ああ、婆ちゃんもそう言ってたな」


 采希はこれまでにも、凱斗が妙に勘がいいとは祖母と那岐から聞いていた。

 凱斗には悪いモノが寄ってこないことも那岐はその眼で確認していたらしい。

 双子の弟である琉斗は『聞いていないぞ』と困惑顔だった。

 琉斗が自分に興味がない話は聞いていない事を知っている采希たちは、そうだろうと言わんばかりに勢いよく頷いた。


「采希兄さんとはちょっと違った意味でね。采希兄さんは『何か』に守られていて、凱斗兄さんは自分自身が悪いモノを退けるって言うか……僕にはそんな風に思えるんだ。アミュレットとタリスマンの違いみたいな感じかな」

「アミュ……それは何だ?」


 初めて聞く単語に、琉斗が采希に助けを求めるように袖を引く。


「琉斗、話の邪魔すんなって。んー……アミュレットはお守りで、悪いモノから守護してくれるもの。タリスマンは守るための力を与えてくれるもの、だったかな?」

「……どう違うんだ?」

「だから……ちっ、めんどくせえから黙ってろ!」


 それらの意味の違いは、普通の男には理解できないだろうとは思ったが、いちいち説明するのが采希には面倒だった。

 自分の疑問を流されて、琉斗がまたちょっとしょげてしまう。そんな事はお構いなしに凱斗と那岐の会話は続く。


「でもあの子、見た感じは元気で明るそうだったし、生霊とかって陰湿そうなタイプには見えなかったと思うぞ。ちょっと自己中そうだったけど」

「明るそうだからって、本質もそうだとは限らないんじゃない?」


 自分としては決して相手したくないタイプだとは思いつつ、凱斗は那岐に同意する。


「ん~、それもそっか。でも、お前らが采希を心配してるってことは、かなりまずい状況なのか?」

「それはまだよく分からないかなぁ。でも、僕にも生霊の声が聞こえたんだ。かなり強力なんじゃないかと思うんだけど……」


 再び、凱斗の口元が引き攣る。


「……マジか」


(ま、いきなり生霊が――とか言われたらちょっと怖いよな)


 出来れば那岐以外は巻き込みたくなかったんだけど、と思いながら采希は口を開いた。


「これは俺の問題だし、凱斗は無理しなくていい。怖いだろ?」

「そうだぞ兄貴、俺もついてるしな」

「琉斗、お前こそ感じゃん。役に立たないだろーが。夜中にトイレに行けなくなるぞ」

「……」

「とりあえず榛冴はるひには一応、話しておくよ。いざって時のためにな」


 琉斗と並ぶほどの怖がりである、蒼依の三男で双子の弟、榛冴。

 榛冴には言わない方が、と口に出しかけて、采希はふと思い直す。後で自分だけが何も知らされなかったと知ったら、あの従兄弟がどれだけ拗ねるのかを想像し、小さく溜息をついた。

 一番年下の榛冴は、自分が爪弾きにされるのを嫌がる。それは榛冴の兄達が双子で、いつも二人で行動していたせいなのだろうと采希も理解していた。

 祖母によく似た丸みを帯びた輪郭の、拗ねた膨れっ面が容易に思い出される。


「ああ那岐、そういやさ、あの子俺の名前聞かなかったし、俺には名乗らなかったんだよ。これって意味、ある?」


 那岐が驚いたように凱斗を見つめる。


「よく、気付いたね。多分、向こうも凱斗兄さんの力がわかったんだ。『名前』は特別だから、凱斗兄さんには知られたくないって思ったんだろうね」


 那岐の言葉に、凱斗は黙って首肯した。



 * * * * * *



 翌日の夕刻、仕事がある采希の代わりに猫の様子を見に行くと言って、琉斗は出掛けた。

 仔猫が産まれそうだと采希が気にしていたためだったが、その琉斗は息を切らし、蒼褪めた顔で帰って来た。


「琉斗兄さん? どうしたの?」


 すでに仕事から帰ってきていた那岐が、玄関先で膝に手を当てて息を整える琉斗に声を掛ける。その表情で、那岐は即座に気付いた。


「またあの子、いたの?」

「……ああ」

「どうだった?」


 那岐の問いに、琉斗は息を整えながらゆっくりと話し出した。


「猫広場に着いた時には誰もいなかったんだ。だから安心して餌をあげていたんだが……いきなり猫たちが逃げ出してな、気付いたら誰かが後ろにいるのが分かったんだ。その空気だけで、震えるほど寒くて……怖くて振り返れなかったんだが、いきなり肩に手を掛けられて『――誰?』って」


 その時の事を思い出していた琉斗の身体が、那岐から見て分かるほどにぶるりと震える。


「あの子だったんだね」

「それが、こもったような男の声みたいだったんだが……采希や凱斗が聞いたあの子の声はどうだったんだ?」

「普通に女の子だったらしいよ。甲高い声が耳障りだったって凱斗兄さんが言ってた」

「……俺は恐怖に駆られて逃げ出したんだが、その時視界に見えたのは確かに女の子だった。あの声って……」

「あの子の声だと思うよ。凱斗兄さんの動物的な臭いがしたって言葉から考えても、あの子は憑き物スジかも。ひとまず、兄さんが帰ってくるまで待とうか」




 しばらくして采希が帰宅すると、落ち着くいとまもなく那岐と琉斗から日中の話題が語られた。


「那岐、それってどういうことだ? 憑き物スジって、何?」

「昔は、呪いを請け負う職業とかあってさ、そういう人は呪いに何らかの動物を使っていたらしいんだ。で、そういう血筋の家には現代まで動物が憑いていたりするらしいよ。僕も詳しくはないからスマホで調べたんだけど」


 動物を使う、と言われても采希にはピンとこない。それよりも、呪いに動物を使役するという内容に不快感を覚えた。


「動物って、狐とか?」

「基本的に狐は神様のお遣いらしいよ。まあ、野狐やことかもいるけどね。だから狐だけじゃなく色んな動物なんかが使われるみたい。情報が多すぎてかえって分からなくなっちゃった。ひとまずさ、憑き物落としの神社とか、行ってみない?」


 那岐の提案に、気分転換のつもりで乗ってみる。


「今のところは出来ることもないしなぁ。そうするか」

「お、俺も行くからな」


 ほんの少し声を震わせながら、琉斗が采希と那岐の方に身を乗り出す。そんな琉斗の様子を采希は複雑な気持ちで眺めた。


「お前さぁ、かなり怖い思いしたんだから、止めとけば?」

「いや、行く。お前たちがあんな怖い思いをするくらいなら……」

「お前、涙目になってんじゃん。ま、いっか。じゃ明日は土曜日だし、明日でいいか那岐?」

「うん、早い方がいいね」


 その日の夜、凱斗と琉斗の部屋には一晩中灯りが点っていた。



 一方、采希は夢の中で、見覚えのない美女と向かい合っていた。女は采希に笑いかける。


「誰?」


 出会った覚えのない美女の笑顔に少し戸惑いながら采希が尋ねる。


「いつも一緒にいるのに、忘れちゃったんですか? 酷いです、采希さんたら」

「えっと……ごめん、思い出せない。どこかで逢った?」

「もう~ダメですよ。ちゃんとあたしの名前を呼んでください。ほら、あたしを好きなら思い出して」

「いや、ホントに見覚えないんだけど、誰?」

「ひっどーい。もう何度も会ってるじゃないですか。さあ、名前を思い出してください。恋人の顔を忘れるなんて、もう怒っちゃいますよ」


 会話が通じている気がしない。

 目の前の顔は記憶になかったが、この妙な噛み合わない感覚にはどこか覚えがあった。

 さらには身に覚えのない恋人発言に采希が眉をひそめると、微かに猫の鳴き声がした。

 夢の中で辺りを見回す。夢だからか、周りは闇だ。

 その中に、小さな緑の光が二つ、見えた。

 采希が目を凝らすと、その光が猫の眼だとわかった。

 徐々に輪郭が鮮明になる。

 青みがかった銀の被毛。特徴的なその毛色。


(ロシアンブルー? なんでこんなとこに)


 ゆっくりと歩いてきた猫は、采希の前に立つように夢の中の女に対峙した。その身体から、淡いラベンダー色の炎のようなオーラが立ち昇る。


「お前……、の邪魔するの?!」


 猫は黙って女を見つめている。

 女の周りにイタチのような獣が数体、ぼんやりと浮かび上がった。

 慌てたように、女の周りを走り回っている。

 青銀の猫がふわりと飛び出し、獣を次々に消し去る。

 猫が触れただけで、イタチのような獣は悲鳴をあげて掻き消えていった。


「何なの、もう! 悔しい! 許さないんだから!」


 猫を苦々し気に睨みつけて、女は消えた。




 目覚めた采希は妙に重い身体を起こす。頭の奥の方が重く、もう一度ベッドに倒れ込みたいほど怠かった。

 うちで寝ていたいという本音を抑え、約束通り那岐と一緒に家を出て電車に乗る。

 琉斗も黙ったまま付いて来た。眠れなかったのか、かなり眠そうだった。

 電車の中で、采希は那岐に今朝見た夢の話をする。じっと聞いていた那岐のその視線は、采希を通り越して更に遠くを見ているように見えた。


「その女の人、あの子だよ多分。どうしても、兄さんに名前を呼ばせたかったみたいだね」

「でも、顔が全然違ってたぞ」

「夢だからね。あの子の理想の姿か、兄さんの好みの顔を模したんだと思う。兄さんの好感度を上げるために」


 何故か今の采希にその顔はよく思い出せないが、自分の中で美人だと思った感覚だけは残っていた。最も、采希はあまり美醜に興味がないため覚えていないのかも、という認識だった。


「俺の理想、じゃないと思うぞ。かなりの美人だったけど」

「そう? じゃ、少しでもあの子の面影あった? あの子がなりたい自分を投影したなら、どこかに面影があると思う」

「いや、最初は全然あの子だって気付かなかった位だから、面影は全くないと思う。話す口調でようやく気付いたしな。っていうかさ、俺、そんなに親しく話してたわけでもないのに生霊とか……なんで夢の中にまで出てくんだ?」


 真顔で首を捻る采希を、那岐はちょっと困ったように見た。

 采希は自分が女性と縁遠いと思っているが、実は学生時代、かなり人気があった事を本人は知らない。近付き難い雰囲気で遠巻きに憧れる女子生徒が多かったと、那岐は凱斗から聞いていた。


「まあ、どっちかっていうと、恋愛感情よりも何か病的な執着を感じるよね」


 病的な執着、と采希は口の中で小さく繰り返す。そうか、自分が何かした訳でもないのに生霊を飛ばされるって事もあるのか、と心に留める。

 これまでは自分の対応に何かマズいことでもあって、恨まれでもしていたのかと思っていた。だから生霊を送って苦しめようとするのか、と考えていた事に苦笑する。


「そっか、恋愛感情じゃないのか……やたら名前を言わせようとしてたけど」

「恋愛感情もあるだろうけど、兄さんの事をって言うより、自分の事しか考えていないと思うよ。名前を呼ばせて、もっと確実に兄さんの近くに来たいって思ってるんじゃないかなぁ。いずれにしても、話を聞く限りかなりの一方的な思い込みで兄さんに執着しているようだから、うまくいかないよ」

「……だろうな。なんでいきなり恋人呼ばわりされたんだか……」

「采希にとっての理想の姿、だったんじゃないのか?」


 黙り込んでいた琉斗が会話に割り込む。


「いや、違うと思う。美人系だったし、お前たちの方が好きそうなタイプだったよ」


 自分と采希の好みはそんなに違っていたか、と思いつつ琉斗が首を傾げる。

 自分は清楚で芯の強い女性に惹かれるが、采希の好みを訊いたことはなかったな、と思い出した。


「兄さんがどこかで逢ったことのある人の顔、じゃないんだよね?」

「逢ってないと思う。顔に覚えはないんだ。俺、どっちかっていうと、人を雰囲気で認識してるみたいなんだけどな。……あんな美人なら、逆に顔で覚えてそうだと思う」

「じゃ、やっぱりメア子の理想かなぁ」

「メア子?」


 誰だそりゃ? と采希が那岐を見る。


「夢にまで出しゃばってきたからメア子。悪夢ナイトメア。あの子、じゃ呼びにくいし」

「安直だな……」


 弟のセンスのなさに、采希はちょっと苦笑いする。


「それにしても、その、むじなとやらを消したという猫は何なんだ? 采希の守護霊みたいなものか?」

「守護霊っていうより、パワーアニマルなんじゃないかな?」


 琉斗が急に思いついたかのように発した問いに、那岐は即答する。聞き覚えのあるその単語に、采希は自分の記憶を探った。


「ネイティブアメリカンのパワーアニマルのことか? それって、大人になっても傍にいるのはシャーマンの素質がある人って聞いたけど」

「らしいね。すごく幸運な人だって。兄さんにも可能性はあるんじゃない?」

「どうだかね。日本人にもパワーアニマルっているのか?」


 小さく首を横に振る采希の服の袖を、琉斗が軽く引く。


「采希……」

「――今度は何? 『パワーアニマルってなんだ?』って聞きたいのか?」


 こくこくと頷く。いつもは凛々しい眉が困ったようにハの字になっている。

 そんな琉斗に、ちょっと笑いながら那岐が説明する。


「パワーアニマルって、その人に霊的な守護を与えるために寄り添っているらしいよ。ネイティブの宗教的な考え、でいいのかな? 基本的には兄さんが言ったように子供の頃は傍にいて、大人になると離れていくみたい。稀に大人になってもずっと傍にいることがあって、その人は霊能力に優れているって言われるらしいよ」

「なるほど。猫なら采希を助けてくれそうだな。いつも餌をあげたり、世話をしているからな」

「…………」


 世話といっても、野良猫である限り近隣住民の中でもよく思っていない者がいることは、采希も承知している。本当に世話をしたいなら、きちんと保護するなりといった対応が必要な事も。

 だからこの程度で猫の恩が受けられるとは思っていなかった。何より野良猫たちの中にロシアンブルーなんぞ、いるはずもない。


「どうした?」

「俺の守護をしてる割には、素っ気なかったなって思って。俺のって訳じゃないかも」

「じゃ、誰のだ?」

「さあ?」


 見覚えのない優美な肢体の猫と、その身体から立ち上った感じたことのない気配を思い出す。

 分からないことが多すぎて、一体自分の周りで何が起こっているんだろうと、采希は不安に思った。




 途中で電車を乗り換え、バスに乗り込む。

 一時間以上バスに揺られ、目的の神社に到着した。

 両脇に小さな鳥居を従えたような白い鳥居の脇には、狛犬ならぬ狼の石像。


「狼が、呪いの道具になって使役されている動物を追い払ってくれるのか?」


 この先がどれだけの山道なのか不安に駆られながら、采希は隣を歩く那岐に尋ねる。


「と、いう話だよ。ここの狼さんを護りとしてお借りすることもできるらしいけど、とにかくお参りしようか」


 人出に比べて、思ったより小ぶりな拝殿にお参りをする。息切れする程の道のりではなかった事に密かにほっとしていた。

 参道からずっと、清涼な空間が続いていた。特に張り詰める訳でもなく、澄んだ空気が身体を包み込む。


「この山は、修験道の山だから、山全体が聖域みたい。ここにいれば兄さんも安心なんだろうけどね」

「ずっとここで暮らすわけにはいかないしな」

「テントを張って、ここで生活するか?」

「楽しそうに言うな、琉斗。お前、人ごとだと思って……」

「あ、ここの狼さんをお借りしたら、家まで後ろを振り向かないで帰らなくちゃいけないって噂らしいんだけど、――兄さん達、できそう?」

「……俺、振り返っちゃいそう」

「……俺もだ」

「……だね。一人ならまだしも、三人で歩いてたら後ろの人に話しかけることもあるだろうし。とにかくお参りしてパワースポットのご利益いただいていこうよ」

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