巫の血脈

檪木 惺

第1章 悪夢の行く末

第1話 邪心の呼び声

 薄暗い空間に、彼はぽつんと一人でいた。

 一体どこを歩いていて、どこに向かっているんだろう、と思いながら彼は辺りを見渡す。

 周囲の処々に何かが蠢いているような気がするが、それが何であるのかは判別できない。


(多分、夢だな……)


 こんな状況は、多分夢だ。彼はそう思う事にした。

 歩いているのに、その感覚が薄い。確かに脚は動いているのに、足下には踏みしめる感触もない。


 どこからか、微かに鈴の音が聞こえた気がした。

 御守りの類や猫の首についているようなそれの音ではなく、もっと厳かなその音に、彼は聞き覚えがあった。軽やかな複数の鈴が同時に奏でる音。


(あぁ、これってよく祭事とかで巫女さんが鳴らしているような……神楽鈴、だっけ?)


 ――しゃん、しゃらーん……


(やっぱりそうだ。でもどこから……? 何で鳴ってるんだ?)


 気付くと、彼と並んで一匹の白い何かが歩いていた。

 白地に銀の縞。


(猫? いや、この足の太さは……虎か? 子供の、ホワイトタイガー?)


 白い虎が彼を見上げる。その深い青の眼が彼を映し込んだ。


(え? この姿……俺、子供?)


 虎の瞳に映った自分の姿を認識した途端に、夢の中の彼の姿も変わる。

 子供の頃に――不思議な世界のモノたちを認識していた、あの頃の姿に。



 * * * * * *



 ベッドの上に身体を起こした彼――采希さいき身動みじろぎもせずに眼を閉じたまま、座っている。


 十二畳ほどの部屋の反対側に置かれたベッドから、采希の様子を不思議そうな顔で眺めていた彼の弟、那岐なぎには、その身体が僅かに発光しているように見えた。


 自分が寝ぼけているのか、そう思いながら眼を擦る。


 兄の采希。

 母親似のその容貌は、子供の頃、よく女の子に間違われていた。

 中学を卒業する頃には頬の丸みも消えて細面になったものの、濃い睫毛に縁取られた大きめの目のせいで、美人と言われていた母親と並ぶと、いまでもそっくりだと言われている。


 那岐が静かに兄に声を掛ける。


「兄さん、大丈夫? 起きてる? 変な夢でも見た?」


 寝癖の残るふわふわの髪を手櫛で直しながら、那岐はベッドから足を下ろす。

 兄の采希と違って父親似の那岐は、切れ長の目を擦りながら兄の方へと近寄る。

 半分眼を開け、ゆっくりと弟に顔を向けた采希は、頷こうかどうしようか少し迷うように視線が揺らいだ。


「那岐……ご先祖様の、警告――」


 そう呟くと、ぐらりと身体が傾ぐ。枕の方ではなく、不自然に斜め前方に倒れた。身体がベッドから落ちそうになる。


「――!! 兄さん?!」


 慌てて采希の身体を抱き起こし、意識を失っているのを確認した那岐は、何かに気付いたように采希の額に手を当てる。

 熱い。

 大急ぎで自分たちの住処である『離れ』の階段を駆け下り、玄関から飛び出して母屋へ向かった。





「母さん!」


 大声で呼ばれた女性が二人、同時に振り返る。

 その顔は一卵性の双子なだけあって、ほぼ同じ造りをしていた。

 気の強い姉と、心配性の妹。その性格は二人の表情と雰囲気に現れていて、成長するにつれて簡単に見分けがつく程になっている。


「那岐? どうした?」


 双子のうちの、ショートカットの姉――朱莉あかりが声に応えて玄関に向かう。セミロングの妹――蒼依あおいが不安そうな顔で後を追った。


「母さん、兄さんの様子がおかしいんだ。一緒に来て!」


 朱莉は慌てた様子の息子に黙って頷いて、玄関のサンダルを引っ掛ける。敷地内を小走りしながらほとんど無駄な肉のない息子の背中に声を掛けた。


「おかしいって、どんな様子なんだ?」

「身体は起きてるのに、頭が眠っているような感じで、しかも身体が何だか光ってたんだ。声を掛けたら『ご先祖様の警告』って言って意識を失って……」

「……ご先祖様ぁ?」


 那岐の兄であるもう一人の息子、采希に特に持病はない。これまで意識を失った事があっただろうか、と考えてみた。

 朱莉は眉を顰め、訝しんだ表情のまま離れの階段を駆け上がる。


 ここは上代かみしろ家の敷地内にある二階建ての離れ。


 母屋と隣接したその離れには、朱莉と蒼依の息子たちだけが住んでいた。

 二階の大きな二部屋を、それぞれ間を家具で一部仕切って使っていた。予備の部屋もあったが、何となく子供の頃のまま兄弟ごとに分かれ、ほぼ寝るためだけの部屋だった。


 倒れたままの息子の様子を確認し、朱莉は溜息をついた。


「寝てる……? ……だけに見えるなぁ」

「姉さん、とりあえず母屋に運ぶ? ご先祖様云々ってのも気になるし」

「う~ん……ひとまず様子を――あ、起きた」


 唐突に目を開けた采希は、自分を見つめる複数の視線に気付いてびくりと身体を強張らせた。


「…………何?」



 * * * * * *



「――で? 采希は自分が『ご先祖様の警告』って言った事は覚えていない訳だ」


 休日ならではの、少し遅めの朝食を頬張りながら采希が頷く。

 那岐が指摘した『発熱』もなく、本人は起きたら何事もなかったかのように、けろりとしている。


「……まあ、身体も何ともなかったんだし、寝ぼけただけかな?」

「でも、姉さん、うちは――ほら、色々とあるから……気にならない? 母さんに連絡してみようか?」

「この程度の事で、旅行を楽しんでいるあの人の邪魔をする勇気は――」

「……ないね」


 双子の姉妹が揃って溜息をつくと、那岐が首を傾げた。


「蒼依さん、色々って、何? うちに何かあるの?」


 叔母である蒼依に尋ねると、少し目を伏せながら蒼依が口を開いた。


「うちはね、どういう訳か、むかーしから女系なの。男の子は産まれても育たなかったり、婿養子を貰ってもすぐ……」


 言い澱んだ蒼依を察し、那岐はちらりと兄の采希を見る。


 自分たちの父も、そして蒼依の夫も既にこの世にない。

 長女である朱莉の夫は婿入りして上代の姓を名乗ったが、蒼依の夫は婿養子ではなかった。なのに二人の男性は子供たちが幼いころに鬼籍に入った。


 朱莉には采希と那岐、二人の息子。

 蒼依には双子ともう一人の息子がいる。合わせて五人の子供たちが残された。

 女手一つで育てることを憂慮した祖母からの提案で上代の家に戻り、祖母と姉妹が協力して五人を成人まで育て上げた。――とは言ってもやんちゃな五人の男児が相手だったので、子供達に空いていた離れをあてがって母屋の破壊を回避しようといった配慮はなされていた。


「女系? でも僕たちは全員男だよね? もう全員成人しているし」


 采希は何かを思い出すように那岐から視線を外した。

 誰かに聞いた記憶がある。

『これは結果ではない』と自分に告げたのは誰だったか。誰が、何の事を指して告げたのか、全く思い出せない。なのに唐突に、その言葉だけが浮かび上がった。


 那岐の問い掛けに、困ったように姉に視線を投げかける蒼依に、朱莉がちょっと肩をすくめてみせる。


「あのね那岐、随分と昔――何代前までかは分からないけど、うちは神職だったらしいよ。何らかの呪いを受けたとかの理由で神職からは降りたらしいんだけど、以来、成人したのはあんた達だけ。これまでは七歳までも生きていないらしい」


 那岐は益々不思議そうな顔になった。


「んー……でもさ母さん、だったらどうして今、僕達はこうして元気でいるの? 五人も元気に育っているなら、女系っていうのは気のせいとか偶然なんじゃない?」

「どうなんだろうね。私にはそういうがないから分からない。もしも呪いとかの類じゃなくて偶然だったらそれはそれであんた達にとっては良いことだし。――そうなると今度は采希の『ご先祖様の警告』って言葉が気になるんだけど」

「ふぁ?」


 一斉に自分に向けられた視線に、考え込んでいた采希は思わず呆けた声を上げてしまった。


「…………俺?」

「うん。単に寝ぼけていただけなら気にすることもないんだろうけどね。あんたは小さい頃、那岐よりも変わった子だったから」


 そういえば、と、そんな事を何度か聞かされていた事を采希は思い出す。『不思議な子供だった』と曖昧な表現ではあったが。

 弟の那岐は『霊感少年』として近所では有名人だった。そんな那岐よりも変わっていると言われても、自分では全く覚えていなかった。


「――もしかして采希、能力ちからが戻ったとか?」


 母の言葉に采希は片方の眉をちょっと上げて首を横に振った。

 能力って何の事だ、と言いたげな采希を、那岐はじっと見つめていた。



 * * * * * *



 微かな声で、誰かに呼ばれた気がして後ろを振り返る。


 母に頼まれた買い物を済ませて帰路についていた采希は、小さく溜息をつきながら眉を顰めた。


 隣には、荷物持ちとして付いてきた采希の従兄弟、琉斗りゅうと。蒼依の息子、双子の弟の方だ。

 父親似の精悍なきりりとした顔立ちに、短い髪。鍛えられた身体も相まって、武骨な印象があった。


 采希が振り返っても誰も知り合いはおらず、声は聞こえなくなる。

 何度か同じことを繰り返し、とうとう采希が立ち止まると、隣を歩いていた琉斗が怪訝そうに尋ねて来た。


「さっきからどうかしたのか? 何度も振り返っているが、尾行でもされているのか?」

「いや、誰かに呼ばれたような気がしてな。ずっと視線を感じる気がするんだけど」

「それは俺のファ……」

「俺は真面目に話してるんで。ふざけると殴るぞ」

「――采希、殴る前に言ってくれ」


 不機嫌そうな采希を和ませようとした琉斗の発言は失言に終わる。

 思わぬ反撃に合った琉斗が涙目になった。


「ここ数日、ずっとなんだ。何となく気味が悪い。お前は何か感じなかったか? 冗談抜きでな」

「念を押さなくても……俺には特に」

「やっぱり、気のせいか?」


 自分に言い聞かせるように呟いて、采希は再び歩き出す。

 二、三日前からずっと誰かに見られている気がして落ち着かない。

 呼ぶ声やその気配にも采希に覚えはない。気のせいと断定できない程度の不快感に、つい溜息が漏れた。


「帰ったら那岐に相談してみるかな」

「……俺じゃ相談できないのか?」

「でもお前、オカルト系は苦手だろ」

「…………そういう、話なのか?」

「もしかしたら、だけど」

「……」


 采希の隣で琉斗が盛大に冷や汗を流す。

 琉斗はきりりとした見た目に似合わず、どうにもそういう類の話が苦手だった。だから心霊番組も絶対に見ない。


「心配しなくてもお前には相談しないって」

「いや、采希が困っているなら俺も……その……身内として……」


 采希は大きく息を吐いて、頭を掻いた。うっかり怖い映像を見てしまった日の夜は、部屋の電気を消して寝られないほど怯える、と双子の兄の方から聞いている。こんな事で安眠を妨げるのはどうかと思った。


「無理しなくても、当てにはしてないから」

「……」


 軽くへこんだ様子の琉斗に構わず、采希は再び歩き出そうとした。


《くすっ》


 耳元で聞こえた音に采希の身体が硬直する。一瞬、耳鳴りがして、背筋に悪寒が走る。

 息遣いまで聞こえてきそうな程、ごく近くから聞こえた気がした。


「……おい、急ぐぞ」


 琉斗に声を掛け、返事を待たずに走り出す。


(何だ? やばい、すごくやばい気がする)



 * * * * * *



 上代家の母屋の前を通り過ぎ、離れに着くなり采希は台所に走る。

 急いでグラスに水を入れ、塩を一つまみ口に入れる。水を一気に飲み干した。


「どうした、采希?」


 離れの台所でなにやら作業をしていた母、朱莉が采希の行動に手を止める。


「――母さん、那岐は?」

「二階にいるけど。塩ってことは何か拾ってきたとか?」

「いや、まだわかんない」


 さすが母親だ、と采希は思った。

 子供の頃から霊感体質、というのか、いろいろいるらしい那岐を見て来た朱莉は、すぐに察したように采希に尋ねた。

 ばたばたと二階に向かう背中を見ながら、朱莉は溜め息をつく。


 那岐の兄である采希も、子供の頃は何かの力を持っていた。

 頻繁に有らぬ所を見つめながら固まる采希を心配した祖母により、お寺やら神社やらに連れて行かれた。

 なぜ、自分の息子たちだけがそんな体質なのか、悩んだこともあった。妹の息子たちにはどうやら何も視えてはいないらしいのにだ。


『子供の頃には稀にあります、大人になるにつれ、見えなくなるケースの方が多いですよ』


 僧侶の言葉に頷きつつ、朱莉の心は晴れなかった。


 だがある日を境に、唐突に采希は霊たちに一切反応しなくなった。

 元々人懐っこい那岐と違って、采希は人見知りであまり社交的ではない。向こうの世界に引きずり込まれたり、命を削るようなことになっては、と心配していた朱莉は密かに安堵していた。

 それでも、ごく稀に今日のように身体が危険を知らせてくれるらしかった。


(……何事もなきゃいいけど)




 采希が二階に上がると、那岐が窓の外を眺めていた。


「あ、おかえり、兄さん」


 振り返って采希を見た那岐の視線は、采希の左肩の上で一瞬止まる。


「ただいま。……やっぱりお前には何か視えるか?」

「……あ~、徐々に強くなってるみたいだし、もう兄さんにも分かるくらいなんだね」

「……うぉ、マジか」


 采希の後ろで琉斗が呟く。部屋の入り口で立ち尽くしたまま、入るのを躊躇ためらっていた。


「……那岐、采希に何か……その……いているのか?」

「お前、怖いなら自分たちの部屋に行ってろよ」


 采希と那岐の部屋と向かい合わせになっているもう一つの部屋を顎で示す。


「いや、俺は――俺にも聞かせてくれ」


 意を決したように入り口の敷居を跨ぎ、琉斗は采希たちの部屋の真ん中に座り込む。

 眠れなくなるほど怖がりの琉斗を一瞥し、采希は小さく溜息をつく。


(超ビビりだし、那岐みたいに俺の話を理解できるとは思えないんだけど……。ま、いっか。邪魔しなければ)


「那岐、これは何だと思う? やっぱ霊障かなんか?」

「兄さん、心当たりは?」

「うーん……事故とかにも行き当たってないしなぁ」

「この一週間くらいで誰かと知り合った? 僕の知らない人で、女の人」

「おんな?」


 琉斗がおかしな声を出す。これまであまり女っ気のない従兄弟に一体何があったのかとの思いに、意図せず声が裏返ってしまった。

 那岐の言葉に采希は頷く。身に覚えはあった。


「ああ、一週間くらい前かな。いつもの空き地で猫に餌あげてたら急に声掛けられて」

「――ああ、よく猫集会があるとこ?」


 那岐が件の空き地の場所を思い出すように目線を泳がせると、采希は頷く。


「いきなり大声出すから猫たちが驚いて逃げ出してさ、文句言おうと振り返ったら女の人がいて」

「そんな出会いがあったのか」

「静かにしててくれ、琉斗。結構見た目は悪くないし、元気で明るい子なんだけど、とにかく声がでかい。せっかく集まった猫たちもずっと怯えてるし」

「采希が『見た目は悪くない』と言うなら、結構かわいい部類なんじゃないか? お前、好みが――」

「だから黙ってろって。その後もなぜかよく来てさ、声は出さないように努力してくれてるんだけど、猫たちが絶対近付こうとしないんだ」

「いくら可愛くても、猫に嫌われるようじゃ、猫好きの采希としては――」

「琉斗、黙ってろって、言ったよな。お前、怖いんだろ? まだ猫の話しかしてないってのに、邪魔すんなよ」


 那岐が采希に向かって手を伸ばす。黙って采希の左肩に触れて、すぐに手を引く。


「琉斗兄さん、正解。多分その人の【生霊】かな。兄さん、かなり気に入られたみたい。生霊を飛ばしちゃうような人だから、猫たちが嫌がったんだと思う。どんな感じの人だった?」


 淡々と告げる那岐に、琉斗が息を飲んで蒼褪あおざめる。

 琉斗は采希と同い年。那岐は采希の一つ下。

 なので那岐は自然と、従兄弟を含めた自分たちよりも年上の三人を『兄さん』と呼ぶようになっていた。


「どんなって……普通にお勤めしてるらしいけど。一人暮らしだって言ってた。俺よりいくつか歳下らしい。あんまり友達もいないし、暇だからよく猫の所に遊びに来てるとか、そんな話を聞かれるまま話したんだけど……いきなり泣き出されて困った」

「泣く? なんで?」

「俺を、かわいそうって。で、『いきなり泣いちゃってごめんなさい。あたしってダメですね。でも友達がいないとか、本当に可哀想で。あたし、力になりたいです!』って。そこまでとか、本気で言ったつもりもなかったんだけど……まあ、しょうがないからハンカチを貸して……」

「渡したの? うーん……今の話でどこに泣く要素があったんだろ? それで、その子が泣いたのを『可愛い』とか、思ってないよね?」

「……」


 ちょっと視線を逸らした采希に、那岐が大きなため息をつく。


「初対面だったんだよね? さっき兄さんが言ってた状況で、人のことを可哀想って泣いてそれをアピールする女の人は、自分に酔ってるんじゃないかと思う。僕が視た生霊の感じでも思い込みの激しいタイプみたいだしね。兄さん、もう名前、教えた?」

「うん、向こうが先に名乗ったから」

「……その名前、この先絶対口にしないでね」

「え? ……もしかして、繋がる?」


 思わず身体を引いた采希に、那岐が頷いて肯定する。


「多分」

「繋がるって何がだ?」


 采希の服の袖あたりを引っ張って、琉斗が尋ねる。


「『縁が』だよ。名前を呼ぶってのはそういう事らしい。っつーかさ、声が震えるほど怖いなら下とか――凱斗の所に行ってろよ。でも那岐、名前言えないとなると話しづらくない? 『自分は、こう呼ばれてる』ってニックネームみたいなのは教えられたけど」

「それこそ呼ばない方がいいね。その子が呼んで欲しいと思ってるなら」

「そっか」

「べ、別に名前とか、どうでもいいんじゃないか?」


 ちょいちょい口を挟んで来る琉斗が、いい加減うるさいと采希は思った。


「お前な、いい加減に――」


《くすっ》


 琉斗に言い募ろうとしていた采希の身体がびくりと硬直する。


《呼んで……采希さん》


「……やばい、僕にも聞こえちゃった」

「……な、何がだ?」


 嫌そうに目元を歪ませた那岐を見て、琉斗が思わず身体を縮ませる。『那岐には何が聞こえたんだ?』と目線だけを動かして周囲を窺った。


《あたしの名前、呼んで》


「琉斗兄さん、やっぱり僕らから離れてて」


 そう言いながら、那岐が采希に抱き付く。

 驚く采希の耳元で那岐が一言二言呟くと、采希の身体がほわんと暖かくなった。

 そこで、悪い霊は寒さを感じて良いモノは暖かい、と何かの本で読んだことを采希は思い出していた。


「いや、ここにいる。俺達は家族だからな。身内は守らないと」


 言っている内容は前向きだが、その声は心情を現わすように震えていた。見た目とのギャップに、思わず采希から呆れたような視線が注がれる。


「あのな、この件に関してはお前は役立たずだろ? いいから無理すんな。ってか、邪魔」

「采希……」

「兄さんの言う通りだよ。あ、邪魔ってことじゃなくね。琉斗兄さんにできることはないと思う」

「……」

「とにかく、兄さんはしばらくその子に会わないようにして。その人に会いそうな時間を避けて猫たちに会いに行くことはできるよね? 出来れば行かないでほしいんだけど」

「んー……わかった」

「とりあえず、応急処置が必要、かな」


 呟きながら那岐が階下に降りて行くのを見送っていると、琉斗がまだ蒼褪めながらしょげている。

 傷付いたようなその顔に、采希は謝るべきか少し迷う。


「もしかして、邪魔って言ったこと気にしてるのか?」

「いや、――そうだな。俺にできることはないのかって、少しがっかりした」

「あー……那岐が言いたいのは、それぞれ役割があるってことだぞ、多分。ま、しょうがないんじゃないか? お前はお化け屋敷すら苦手だろ」

「采希もお化け屋敷は嫌いだろう?」

「俺の場合は、いきなり驚かされるのが嫌なだけ。お前は凱斗にまで迷惑掛ける事になるから、関わるな」

「でもな、誰かが困っているなら、ましてやそれが家族なら、役に立ちたいじゃないか」

「わかったわかった、じゃ、今度の機会に頼むよ」

「……」


 ひらひらと手を振ってみせると、琉斗はものすごくがっかりした表情をみせた。

 生霊だと那岐に断言された以上、どんな霊障があるか分からない。それが自分だけに影響するならまだしも、他の家族に降りかかるのは嫌だと采希は思った。




 戻って来た那岐が手にしていたのは、線香と塩だった。


「塩は分かるけど、お線香?」

「うん、これを砕いて……塩と混ぜて袋に入れて……はい、即席お守りの出来上がり」


 小さなビニールのジッパー付きの袋を手渡される。


「へぇ……」

「結構効き目あるよ。生霊にはどうだか分かんないけど。兄さん、ちょっと後ろ向いて」


 那岐の言葉に素直に背中を向けると、ぱしん、と背中を二度叩かれる。


「生霊は面倒らしいからなぁ。どうしたらいいのか誰かに相談できるといいんだけど。お婆ちゃんはいないし……」


 うちで一番そういう事に詳しい那岐に分からないんだったら、誰にも無理なんじゃないか、と采希は心の中で思った。


「霊能者とか……? 誰か知らないのか、采希?」

「……何で俺に聞くんだ。あのな、そう簡単に霊能者の知り合いがいたらおかしくないか? それにそういうのって当たりはずれがありそうだし」


 落ち着かない様子で視線を泳がせながら、琉斗が思いつくままに口に出す。怖いのを誤魔化そうとしているのだろうと気付いた那岐がくすりと笑った。


「当たりはずれがあるとは聞いた事があるよ。料金も高そうだよね」

「マントラ、とか言うのを唱えてみるとか……」

「お前、漫画じゃないんだから。そういう真言とかは付け焼刃で唱えても効き目ないんだぞ」

「お祓いとかはどうだ?」


 琉斗が一生懸命考えようとしてくれるのは、多少うるさくてもありがたい。

 でも、怖がりなくせに何故こいつは首を突っ込みたがるんだろう、と采希は不思議に思っていた。


「あのな、お祓いなんかも金がかかるし。それに、家族の中で一人だけお祓いすると、お祓いしてない家族が厄をかぶる、って」

「――!」

「ま、都市伝説だろうけど」

「……采希……」

「大丈夫だよ。俺にはそんな気がする」

「だけど……」

「琉斗兄さん、采希兄さんは大丈夫だと思う。なんて言うか……兄さんのオーラみたいなのがみんなとは少し違うんだ。ちゃんと視える訳じゃないから、うまく言えないけど」

「前にも那岐にそう言われたからな、ひとまず俺は大丈夫なんじゃないかと思う。生霊とかどう対処したらいいか分かるまでは、とりあえず様子見だな」

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