第5話

――自分だけが救われればいいなんて思っていなかった。――

《そうだろうね》

 ――死ねばいいと思ったことは事実だけど、本当に殺そうとは思っていなかったの。――

《それはどうだろうね? 彼が魔物になったのは、きみのことを愛していたからだとぼくは思うよ。きみの殺意が、本物だったという証さ》

 ――あたしはどうすればよかったの? ――

《さあね。ぼくは地球のこと、特に日本のことにはあまり興味がないし、関与もできないから》

 ――…………。あなたはだれなの? ――

《ぼくかい? ぼくのことは、きみがよく知ってるはずさ》



「ほら早くお目覚めになって、あなた? 本当はもう目が覚めていらっしゃるんでしょう? あたくしにはわかるんですのよ」

「う……」

 意識が帰ってきつつあるとき、真っ先に気づいたのは、咳きこむくらいの白檀の香りに包まれた空間にいるということだった。

「お兄様! 優莉様がお目覚めになりましたわ!」

「ここ……どこ……?」

 霞がかかっている頭のなかで、すでにおまえはもう目覚めてるんだろうとせっつかれて体を起こすと、辺りは真っ白なヴェールが至る所で無作為にふわふわと漂うどこかの異国情緒あふれる――決して日本式ではない――寝室だった。ベッドのような柔らかい布団に横たわっていた。隣に、少女がいて、あたしの顔を真剣にのぞき込んでいた。

「きゃ!」

 顔近い!

 少女が飛びのいた。そのまま笑いながら部屋を出て行く。

「ここどこなの?」

《ここは月光帝の大雅城のなかさ。今のはぼくの妹の燐光姫さ。早く起きなよ。今日は宴じゃないけど、まあ別にいつだっていいのさ、そんなのは。きみの気が遠くなるほど繰り返してきたところだから、飽き飽きしていたところだ》

「月光帝の……大雅城? 正樹さんは? お父さんとお母さんは?」

 自分で口にしてぞっととした。自分が殺したくせに。そんな低い声が無意識のなかから聞こえてきたからだ。

「あたし……人を殺したの?」

《なにやら混乱しているようだね。まあ仕方がないけど》

「優莉!」

 正樹さんの声が――現実世界で、響いた。間違えるはずがない。ふかふかすぎるベッドに腰かけて痛む頭を抱えていると、白檀の香りがする匂いの空間が揺れた。異質の香水を纏った男が近づいてくる気配がした。

「優莉、ぼくだよ。正樹だよ! やっと会えたね!」

「え……?」

 あたしのお父さんとお母さんを殺したくせに。そんな声が喉から搾り出そうになってぐっと飲みこんだ。あたしまで殺されてはかなわない。

「月光帝がね、優莉に会いたくないかっておっしゃって、会いたいですって言ったら、気がついたらここにいたんだよ!」

 ベッドの隣に、いつものよく見慣れた正樹さんが、勢いよく座った。嬉しそうに笑う正樹さんは、何事もなかったかのように話しかけてくる。

〈月光帝さん、あたし、もう、――〉

《もう彼のことは愛せないのかい?》

〈だって、――〉

《ふうん。二人はラブラブだと思っていたのは、ぼくだけだったのかな?》

〈あんなに酷い方法でたくさん殺さなくたっても――〉

《あれは二人が望んだことだし、ぼくは個人的に正樹に肩入れしたいし、優莉、きみのことをだれよりも愛していたからこそあんなに暴れたのだよ正樹は。それにね、きみを泣かせたり困らせたり苦しめた連中なんて殺してやりたいと思うのが、ぼく、月光帝の真の願いなのだよ。そう、お月様は、きみの味方なのさ。もう忘れなよ、そんな昔のことなんか。ここでずっとみんなで幸せに暮らせばそれでいいじゃないか? きみはどうせどこにも居場所なんてないんだからさ?》

 全部真実だった。本当のことだった。

 正樹さんは、あたしの隣で、にこにこ笑っている。とてもU市全員の命を奪った凶悪殺人犯には見えない。

「正樹さん。U市の人たちを殺したのは本当?」

「ぼくは半分魔物になってしまったんだ。心が、魔物にとり憑かれてしまったんだ。だから、もうこの世にはぼくの居場所はないんだよ」

「そんな」

「おいで。向こうの部屋に行こう。月光様のお城はとても広いし面白いんだよ。やっと会えたのに、感動の言葉もないのかい? 冷たいな案外優莉は」

 正樹さんはあたしの手をとった。柔らかくて、気持ちのいい手だった。繋いでいると、いろいろな嫌なことも忘れられるような不思議な感覚の手だった。

 部屋を出ると、長い廊下に出た。気が遠くなるほど長い廊下だった。窓がある。ふと見てみると、満月に近い月が出ていた。もう夜になっていたというのか。どのくらいあたしは眠っていたのだろうか? 

「優莉。ぼくたちはね、月の光に導かれて、月の照らす道を通って出会ったんだよ。東京とU市から二人でね空に向かってね。月光様の大雅城は空に近い場所に会ったんだよ。知らなかっただろう?」

「それって」

「もしかしたらぼくたちは、このお城から一生出られないのかもしれないね。でもぼくはそれでも構わない。きみと一緒なら、一緒にいられるなら、死んだって構わないんだ」

 真剣な声だった。あたしは涙ぐんでしまった。もう現世には帰れないんだ。それでも、正樹さんは、あたしと一緒にいたいと言ってくれる。

「月光様はいい人だったよ。ぼくについて聞いてみるといいよ。親切にいろいろ教えてくださるだろうから。月光様、いや月光帝は――」

「やあ正樹、それに優莉」

 廊下の向こう側から赤い扉が開いた。月光帝が出てきた。大きな赤い扉の向こうはやっぱり、白檀の香りがする。空気が揺れて、いい匂いだと錯覚する前に、懐かしさを感じた。どこか懐かしい感じがする、と思っていると、月光帝と目が合った。

 よく見るとあたし好みの狐顔で細く吊り上がった眼をしていた。この顔、だれかに似ていると思ったら、正樹を思い出した。

《正樹はぼくにそっくりだろう? でも他人の空似だよ。正樹はいつも月に祈っていたから、ぼくが正樹に力を貸してあげたのさ。お月様はなんでもお願いごとを叶えてくれるからね。だからぼくに似たのさ。正樹の力はすべて、お月様由来さ。まあ、これは余計なことだけど》

 月光帝はそう言って優しく笑った。月光帝の声は、水中にいるときのように微妙に遠く揺らいで聞こえる。不思議な声だ。

《優莉。これは今まできみに言ったことはなかったが、きみはかぐや姫の末裔の血が入っているよ。きみはぼくと親戚なんだよ》

「え?」

《まあいいさ。そろそろ月が近づいて見えるかな?》

 ばさっと月光帝が来ていた高そうな衣装――なんだか古風だったが――の袖を振ると、ここが宇宙空間であることに気がついた。それはなぜか? 廊下がすべて透明な窓ガラスのような透ける素材になったからだ。特殊な空間だった。巨大な宇宙船のなかであることに気づいた。そう、宇宙船。

《月から来たのだから、我々は月に帰るんだ。きみもその方がいいだろう? 我々だけの世界に行けば、きみもきっと納得がいくだろう。我々だけの世界で、ずっと末永く一緒に楽しく暮らすのさ。楽しそうだろう?》

「優莉。ぼくたちとずっと一緒だよ。嬉しくないの? ぼくは嬉しいな」

 正樹ははしゃいでいる。月光帝も満足そうに笑ってる。

 まあ――どこにいても浮いてしまうあたしからしてみれば――しっくりこないあたしからしてみれば――月の世界だろうが冥府の世界だろうが、どこに行ったって、どうでもいいような気がした。正樹も一緒にいてくれるんだし、ずっと当分の間は、楽しく暮らせるんだろう。世界が崩壊しているが、崩壊に崩壊が続いていて理解が追いつかないが、まあどうでもよかった。

 宇宙船の窓から見える大きすぎる月は、今まで見たことがないくらい輝いていた。お月様が、あたしを呼んでいる。こっちへおいでよ。はい、そちらに参ります。そう答えると、お月様はちょっと微笑まれたような、そんな気がした。


                                       


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東京と月光帝と大嫌いなU市 寅田大愛 @lovelove48torata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ